ふるさと呑風便 2002年 2月号
カレンダー
有機農業カレンダーを花と緑の農芸財団の土井脩司氏から頂いた。日本有機農業研究会生産部会編集。2月の暦には「阿羅こんしん」の絵に、
寒さに我を忘れてる 己のぬくさを忘れてる 木末の冬芽 ふくらんだ との言の葉。
4日の立春の日に何故か下弦の月が印されている。
NHKサービスセンター発行の花カレンダーは買った。 2月17日の誕生花が秋田蕗で、花言葉は包容力。18日のは沈丁花で不滅。
トイレに掲げた家庭の健康管理カレンダーの2月18日のは、「一家だんらんは、愛情手料理から」とある。
愛情手料理はいいが、花言葉カレンダーで、秋田蕗がなんで2月17日なのか。18日の沈丁花だって、今、九州では咲いているが、北の国ではまだ雪の中である。
年賀状で「新春のお慶び申し上げます」って書く。なんで寒い正月が新春なのか。
長年のこの疑問がある本を読んで解けた。
竹内謙前鎌倉市長著「地球人のまちづくり」の中に「自然暦」というのがあった。
「七草、ひな祭り、お盆:。考えてみれば、自然の変化と結びついた年中行事や風習の季節感が合わないのは、明治5年に旧暦廃止の際に、旧暦の日付をそのまま新暦に読み替えてしまったからだ」
旧暦時代の春とは1、2、3月のことだった。1月1日が春の始まりだったんだ。
旧暦では、4、5、6月が夏で、夏の終わりのカラカラ天気の6月は「水無月(みなづき)」と名づけられている。 今は6月は梅雨なんだから全然変。その旧暦のカレンダーを、太平洋諸島と草の根交流を続けている「大阪南太平洋協会」が発行している。
ホームページをのぞいてみた。旧暦カレンダーの紹介として次のようにあった。
「西洋文明を取り入れるために、国策として無理やり廃止された旧暦。自然を愛し、自然に素直に生きてきた、かってのエコロジー先進国であった我が国の先祖の知恵を、来年は少しだけのぞいれみてはいかかでしょうか」
今の暦と、四季ごとの旧暦カレンダーを並べて使うと、『季節』が透けて見えよう。
明治初年の「西洋暦」は今でいえばグローバル化。グローバル化とは世界総アメリカ化といって差し支えない。
タフだがラフなアメリカ化に何でも追従する必要はない。
今こそ、旧暦にある先人の知恵を生かした旬のある生活を取り戻したいものである。
聞き書きで先人の知恵を生かし、美しい地域づくりをしたい。秋田ふるさと塾で、学友・聞き書き作家の小田豊二氏から先月「聞き書きのすすめ」と題する講演を聞いた。 三木のり平さんの聞き書き「パーッといきましょう」は彼が3年通って書かいた本。
四谷の豪邸に一人ぐらしの偏屈なのり平さんの心をほぐすには、随分時間がかかった。
ある時、居間の壁にカレンダーがあって、○印がしてあった。小田は聞いた。
「三木先生、あのマル印の日は何ですか。何んかいいことがあるんですか?」
「バカヤロ、お前が来る日じゃないか」
今年、あなたのカレンダーの○印の日はいつでしょうか。
当方は、桜の咲く前、小田先生に来てもらう日に○をつけよう。その日、秋田聞き書き学会を立ち上げます。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年4月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「キーワードは心とこころざし」
★小林孝哉氏 (元五城目高校校長)
今日、私の話のキーワードは、「心とこころざし」です。キーワードとは、ご承知のように問題等を解く鍵となる言葉のことですが、では一体何を解くのかと、それを私の話の中で聞き取って頂ければと思っています。
自己紹介を兼ねて最初に申し上げたのが「私の三度の生まれ変わり」です。
滑稽に聞こえましょうが、生まれ変わりを自分で認めずにはいられないほどの強烈な学習体験を三回もしたことを、私は心から幸せに思っているのです。
最初に申し上げるのは、教師としての生まれ変わりです。これは佐々木さんの母校の本荘高校での話です。秋田の南中学校から本荘高校に転任した私は、図らずもそこの就職学級を担任することになったのですが、その就職学級の中に約一名凄い生徒がいたのです。
この生徒は、本荘市郊外の大地主の次男坊で、高校を出ればたっぷり田んぼを貰い、あとはゆっくり暮らせる身の上だから、勉強なんて全然やる気無いんです。定期テストは欠点をとるし、体を縛られる部活動なんて、勿論まっぴら御免、要するにただ何となく学校に通ってるだけの男でした。その男が三年生になって、夏休みが終わった次の日に、私に面会を求めたのです。
何かと思ったら
「俺、ちょっと方向転換して大学に行きたい」と言うのです。
「おいおい、大学受験というのは受験料さえ払えば誰でも受けれるよ。だけど入るにはそれだけの力がないと入れないぞ。君は、自分にその力があると思うか?」
すると彼は胸を張って言うのです。
「先生、内申書を出せばちゃんと入れてくれる大学があるス!」と。
つまり、何とか内申書を書いてくださいとのことでした。
もしそれが本当で、彼が希望通りその大学に入ったとして、それは単に本荘高校での在り方の延長を生むだけではないか?と思った私は即座に言いました。
「一つだけ俺の質問に答えてくれ。君がこの高校を卒業した後で『あなた本荘高校の出身ですね。本荘高校で三年間、何をおやりになりました?』と誰かに聞かれたら君はどう答えるかね?」
勿論その答えはでる筈はありません
「君が俺の書いた内申書でその大学に入っても、結局、今の本荘高校での在り方と同じになるだけだ。それでは何にもならん。だから君が『私は大学の4年間、これこれの事を必ずやります』とはっきり言わない限り俺は君の内申書は書かない。何をやるか、しっかり腹に据えてから、もう一度相談に来い」と言って引き取らせたのです。
三週間後にやっと出たのは「四年間夢中になって英語をやります」という言葉でした。
「おー、良いこと言った。それじゃ先ず『聞く、話す英語』に打ち込め。水泳に上達したければ英語の音声にどっぷり浸れ。併せて、出来るだけ外国人の出盛る場所に出向き、自分の英語がどれ程通じるか、ジャンジャン外国人に声をかけてみろ。4年間で実用英語検定の何級取れるか、それは自分との戦いだよ。頑張れな!」
という言葉を返して内申書の作成を引き受けました。
四年後、彼が大学卒業を目前にした昭和43年1月、私は既に秋田南高校に移っていましたが、このクラスの同級会開催の知らせを受け、喜んで参上しました。
真っ先に私の前に挨拶にきた彼の口から出た言葉は、
「先生、お陰様で実用英語の一級を取りました」でした。
「えー、本当か!」と叫んだ私に彼は言うのです。
「もっと嬉しいことですが、日本からただ一人、私がカナダ航空に合格しました」と。
同席した一同、皆ワーッとなりました。
「就職クラスからこんな凄い奴が出たんだ。そーれ、胴上げだ!」とワッショイの掛け声も高く、胴上げが始まり、ついでにとばかり私まで嬉しく空中に舞ったのです。
この生徒のお陰で、私は「今日出来ないということは、だから明日も出来ないということではない」ということに初めて目覚め、それまでの漫然と「子どもを出来るなりに伸ばそう」と思うだけの教師から、肝を据えて「子どもの隠し持つ能力を掘り起こそう」と志す教師に生まれ変わったのです。
「子どもの持つ発展の可能性の素晴らしさ」をこれ程までに鮮明に、事実として示してくれたこの生徒に巡り会うことの出来た自分を、心から幸せに思わずにいられません。
さて、二つ目は、父親としての生まれ変わりです。
本荘高校に往復3時間の列車通勤をしていた昭和四十一年、自分で思いついた新教材の作成に床屋に出向く時間も惜しく、知り合いの床屋さんに事情を話し、閉店後に我が家までご足労頂き、一家の調髪をお願いしておりました。
当時3歳になる息子の調髪をしてもらいながら、大きな同じ部屋で私もその教材作りに夢中になっていたのですが、
「先生、コンタラ状態を父親として黙って見ているのダスカ!」という突然の大声に飛び上がりました。
調髪をしてもらっている息子が眠いものだからグズリ続け、さすがの床屋さんもとうとう腹を立てて、その父親である私に雷を落としたのでした。
「先生、子どもがこんな風にモンジャなくなった時には、父親としてこれを見逃してはならんのです。キチンと叱らねばナラネエのです」と更に言葉は続いたのですが、私はどうすれば良いか分からず。「吉田さん、貴方ならどうなさいますか?」という言葉への返事は「私ダバ、訳のわからんうちは家の中に入れないぞ、と言って、文句なしに外の木に縛り付けるスナ」でした。
なるほど、それでは私もと
「床屋のおじちゃんが一生懸命にやってくださっているのにどうしてそう泣きわめくんだ。、泣きやむまで家の中に入れないからそう思え」と、居間の外のテラスのパーゴラの柱に体を縛り付け、境の大きいガラス戸を音高く閉じてみせました。
柱に縛り付けられて暗黒の中に一人放置された息子は仰天の泣き声をあげましたが、泣いては家に入れてもらえないと直ぐ懸命に泣きを抑え始めました。
泣き声が聞こえなくなったところで、「そろそろいいスベ。これ一度で、坊や、きっとよくなるスヨ」という床屋のおじちゃんの言葉を頂き、息子は無事家の中に迎えられ、きちんと調髪を受け終えたのですが・・・。
なるほど、わずか三歳にすぎぬこの息子は、確かにそれ迄と大きい変わり様を見せたのです。それまではママに甘えれば甘えっきりでしかなかったこの子が、必要時にはキリッと我に返るようになったばかりでなく、その行動全般にわたり間違いなく一本「筋」が入ったのです。
尊敬する秋田大学の恩師、津田春次郎先生は、この出来事を「『父性性と母性性の在り方を実感させてくれる願ってもない好例だね」とおっしゃり、「『ただ一方的に与え、養い、育み、善い子も悪い子も区別無く許し、∧包み込む∨』という母性性だけに浸りきっていた私の息子が。初めて『善悪を区別し、裁き、叱り、どうしてもわからぬ時は、断固として∧切る∨』という父性性の洗礼を受け、人間成長の上で、一大転機をものにしたのだよ」と解説してくださいました。
人間の家庭でも、一般の動物社会と全く同じように、母親がすべてを包み込む、父親は正邪を分別する、とその役割は分けられており、この両者がバランス良く存在していることが、子どもの持つ発展の可能性を十分に引き出す絶対条件になのだとのことでした。
小さな事ですが、息子は小学校二年生の時に全く自分の意思で珠算塾に入熟視、愉快に通い続け、四年生で心に決めていた三級を取得するときれいに身を引きました。
京都大学卒業を目前にした十一月1日に親も全く知らずにいたた、いわゆる上級国家公務員のT級試験にパスしながら惜しげもなくそれを振り捨てて、日本銀行に入る道を自ら選択した事など、あの三歳の体験を契機としての、以後の我が家の在り方の変容に結びついていると私には思われます。
あの日、息子に対する明確な父性原理の発動がなかったら、そしてそれを契機に始まった父性性、母性性両立への家内との言わず語らすの努力がなかったら、息子の望ましい変容は有り得なかった筈です。
実に、吉田床屋さんは、父親としての心を全く欠いていた私を、父親としての明確な志を持つ「在るべき父親」に生まれ変わらせて下さった有り難い恩人なのです。(続く)
昔から言われてきた「父の厳・母の慈愛」を明確に表現し直せば 父親らしさ(父性性)は理想や価値の方向性を決める「精神性」の代表。善悪を区別し、裁き、叱り、それでも立ち直る兆しを見せぬ者は、断固、切る!
母親らしさ(母性性)は現実をそのまま受け入れる「現実性、物質性」を代表。与え、養い、はぐくみ、良い子も悪い子も区別なく許し、包み込む!
となり、父性性、母性性は全く違うものなのである。しかるに、子どもに嫌われたくないばかりに、子どもの問題から逃げ、なるべく叱らず大目に見て罰しない。一言でいえばものわかりの良い男親が、今、日本に満ち溢れている。
男親も家事を分担することは当然のことだ。だが、家事の分担とは「父性」の「母性」化ではないし、そうあってはならぬのだ。
この「善悪を区別なく許し、包み込む母性原理」が父性性を圧服すれば、「社会の姿勢制御装置である『けじめ』は息をひそめることになる。
(評論第六号 日本改革へのキーワードは「こころ」と「こころざし」(小林孝哉)より抜粋)
呑 風 日 誌 抄
1月1日(火)アキタパークホテルのお節料理。秋田市千秋公園・彌高神社に初詣・北嶋昭宮司と彌高泉神社へ一礼祭。彌高神社に戻り、若い巫女さん達と御神酒(東由利町産床下政宗)を頂戴す。
2日(水)秋田市下浜・大友康二先生宅へ。秋田聞き書き学会設立の相談。大友先生の秋田高校同期記念誌「夕映えの詩」を頂く。
3日(木)大町ビル。秋田箱根駅伝の会(嘉藤晋作会長)へ。箱根駅伝の出場経験者とテレビ観戦しながら、来年の10回目記念に箱根に応援に行くことになる。
4日(金)御用納め。息子と大江戸ラーメン。
5日(土)駅前整形クリニカオルト。膝痛が治らず、バッチリ注射をしてもらう。仏壇升屋へ。北嶋宮司から頂いた神棚の付属品を買う。自宅の部屋の東向きに神棚を置き、南通りのヘアメイクサロンAKAISHIへ。髪は神といわれる岩見谷尚宏氏の清浄感あるれる店である。
6日(日)息子と秋田市牛島・ラーメンたんぽぽ(親友三洲相竜経営)へ。小町ラーメンも旨い。三皇熊野神社に参拝。
8日(火)正月に千葉の花と緑の農芸財団に行った石の勘左エ門の高橋正社長と鳥海石を千葉に送る相談。秋田福祉専門学校へ。 井上章先生に秋田聞き書き学会の相談、自然地名の話を伺う。
息子と千秋公園のあやめだんごにて御馳走になる。
10日(木)近所の小鍛冶にて秋田ボランティア協会の菅原雄一郎氏と新年会。
11日(金)秋田市山王・橙屋にて秋田県救急救命士の第一号清野洋一氏とツバサ広業の舛谷政雄氏と一献。気管内挿管とは呼吸も心臓も止まった人の気管にチューブを入れて酸素を送り込むこと。この
5年間に1500件あって多くの命が救われた。
13日(日)秋田温泉プラザ。秋田不惑ラグビークラブの新年会。伏見武治先生の85歳の誕生日祝い。息子と天下一番ラーメン。
16日(水)本荘市・小林工業。三浦義明氏、高橋正氏と小林忠彦会長のシベリア抑留時代に作詩作曲「煙草の歌」をテープに録音。 ♪爽やかなのは春の空
朗らかなのは僕の心
広々と曇りなく青空に
パット咲いたよ
マホルカーの煙だんよ
スナック千にてCDに吹き込む
東海林太郎他の歌を歌って頂く。
17日(木)朝、蝋燭を持って秋田駅前アゴラ広場へ。秋田ボランティア協会が阪神大震災追悼を主催している。ミニかまくらが90個、中に蝋燭が灯されている。
18日(金)役所の窓際に植えた熊本産のシロバナタンポポが咲く。県職労厚生集会。退職金の話。フリーライター小西十三氏の「取材で出会った面白い人たち」が面白い。ブルーベリーに似た果実、「こはぜ」を使った県北の郷土料理・こはぜご飯は面白そう。
小西さんと二次会「宇舵羅」
20日(日)秋田ふるさと塾事務所にカーテン張り替え。舛谷政雄、佐々木啓助両次長と大掃除。
21日(月)坊主と駅前人情酒場久保田へ。人情スナック多良へも。下田に電話し、奥様を亡くされた森竹治郎先輩に花を送る。
22日(火)音楽プロデューサーの川又淳氏と横町・笑迎亭。第二回まごころ大賞受賞者の鈴木富雄さんの店オルガニートで小林忠彦会長のテープを聴き、声量もあり歌も上手いと太鼓判を押される。
24日(金)午後1時。秋田駅にて学友・講師の小田豊二氏を出迎え。秋田県庁第二庁舎。政策フロンティア研究会にて「人口減社会における地域コミュニティについて」の講演。秋田魁新報社へ。村上昌人次長へ表敬訪問。
ふるさと塾にて「聞き書きのすすめ」の講演。西仙北町の聞き書き作家佐藤金勇先生、井上章先生作家で司馬遼太郎さんと親しかった菅礼子さん他30人近く出席された。小田講師の「文庫蔵」の話もいい。彼、井上やすしさんから、聞き書き村をつくったらいいといわれてきた。ふるさと塾を秋田聞き書き村として、初代村長に井上章先生に就任して頂き、乾杯の音頭をとってもらう。二次会は山王・民謡酒場「すがわら」女将から岡本新内を披露してもらう。
25日(土)早朝、秋田駅に小田を見送り、広小路を歩くと犬を散歩させながら右手に火箸、左手にゴミ袋を持っている人と出会う。若い、知人の竹谷俊夫さんだった。
犬を飼って以来9年間毎朝、続けているという。偉い。
やまきにて、ブルーベリーの苗木を買い、消防会館内の大正琴の佐々木嶺松先生、日本文化振興会国際芸術文化賞受賞のお祝いを。
27日(日)秋田ビューホテル。
秋田ユネスコ協会新年会。ワールドゲームズで知り合った英会話の佐藤英先生のグループ、塚田正揮さん、小玉正一先輩、いい方々と出会う。
28日(月)彌高会館。県庁大内会。役場の課長以上の方々との新年会。県庁側で当方は3番目に古い。幹事連と駅前で二次会。
29日(火)秋田市山王・塚ちゃん。秋田テレビの同学・石井仁報道部長と。東成瀬村にやってきた若い夫婦のドキュメンタリー「日本一の星空の村から」の話。
30日(水)あやめだんご。もも太郎の会。結成以来20数年になるが長老格の温故堂の岡田茂広さん、大内マドンナ他4人、皆、人の痛みのわかる良き聞き役との仲間酒。
31日(木)39会。秋田中央郵便局前まんま。昭和39年卒の連合秋田の菅谷理一氏、県議の加成義臣氏、毎日新聞の七井辰男支局長も入り一献多献。