ふるさと呑風便  NO,164   2002.12

    持 衰(じさい)
 
 喪中の葉書が130枚も届いた。今年もそんな季節となった。葉書の中には娘が47歳で、夫が54歳でとの報せには胸が打たれる。ここ3年も続けて喪中の葉書を出されている方もいる。年賀状のこない正月を迎えるのは寂しい。
 そんな方々に何かできないかと喪中お見舞い葉書をつくった。百合の写真を上に、名前の下に水仙の絵を添えて、「お悔やみ申し上げます。ご自愛ください。やがて春が来ます」などと書く。
 自分の書いた字を見て、つくづくお見舞い用の字ではないなあと情けなく思う。

 8年ぶりに本をだした。「青春 旅 故郷づくり」といって、学生時代から新聞等に書きためていたのをまとめたもの。おこがましくもサブタイトルに「私の地域づくり実践論」とつけた。今までに仲間と実践してきた様々な体験の中で、自分なりの地域づくりの手法なるものを書けたかなと密かに思っている。 
 表紙には、世界的書家の佐々木青洋先生の題字と敬愛する故佐藤雄治郎先生による鳥海山の美しい版画を入れた装丁。天才デザイナーの森川恒氏が丁寧に創ってくれた。 
 中身よりも表紙を見ただけで売れそうな気がする。
 この十一月から秋田市、本荘市、生まれ故郷の大内町で出版記念会を開いて頂いた。
 集まって頂いた方々を見て、仲間とは楽しさ、哀しさを共にするものなのだと有り難く思う。これから仲間達が、鹿角市、大館市、大曲市、湯沢市、東京、仙台でも開いてくれる。
 出版記念会に出て、自分だけ祝って頂いて、今年喪中の方々の哀しみを分かち合うのに、喪中のお見舞い葉書をだすだけではいけないと思った。
 そこで思い出したのが、司馬遼太郎さんが何かの本に書いていた持衰という言葉。
 手帳にメモしていたのをみると走り書きで、持衰(じさい)、タバコやコーヒー等、好きなものを絶つこと。阪神大震災とも書いていた。
 
 その言葉は「風塵抄二」にあった。「持衰」というのは
 耶馬台国の時代に、航海時に、一身に苦難を引き受ける巫のことだった。
 阪神・淡路大震災の際、被災者の心の苦しみを軽くできればという思いで、好きなものを断つなどの行為に出ている人々を見て、司馬さんはそれを持衰の心とされた。

 喪中お見舞い葉書を何枚か書いて、持衰の心で今年いっぱいは自分の好きなものを断とうと決意。酒、これは無理だな。これから忘年会がいっぱいある。仕事場で毎日飲んでいる紅茶を断った。それに酒を飲むとよく吸う煙草も辞めた。
 これでは不足だなと思っていた矢先、象潟病院の成田茂院長の訃報を知った。胸が詰まった。本荘市での出版記念会の発起人になって頂いていた。「入院が予定より早くくなった。会えるのを楽しみにしていたけれど、退院してきたら飲りましょう」と電話をもらったばかりだった。
 12月15日。象潟シーサイドホテルの葬儀会場には百を越える花々が飾られていた。遺影に拙書を捧げる。本の冒頭に書いた。「恵存 成田茂先生。先生の愛された鳥海の山々、象潟の海と人々は悲しんでいます。無念。涙」(合掌)
 来年も感謝と持衰の心を強くしたい。
    ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
平成14年3月22日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★御輿づくり まちづくり
★ 中村芳夫氏(彌高泉神氏子副総代・秋田英数学院院長)

 もうすぐ還暦を迎えるものですが、秋田市土崎港の花街で生まれまして、親父がいないという環境でした。それが別にどうってことはないのですが、戦争中に生まれたわけですが、戦争についてはほとんど知らない世代です。
 小学校時代は特に目立ったことはしないで、草野球。土崎では小学校の時に町内対抗試合があるんですね。クラス対抗とか、ガキ大将でしたから、今でいうと林工務店の息子さんとか、斎藤信郷君とかとつるんで遊んでいました。 うちは代々、料亭をやっていたんですけど、教育環境がよくないということで、中学から他の家に行くことになりました。記憶はないんですが、芸者さんに育てられたらしいんですね。芳之家のばあちゃんは私の生まれる前から知っているようです。(笑い)
 結局、そういうことで中学に入るときに、秋田南中に入りました。親戚に預けられたんですが、秋田に来れるということで、喜び勇んでよその家に来たんですが結構大変でした。やっぱり気を使うようにその時からなったのかなあと思ってます。高校時代をふくめて6年間、よその家におりました。その時の部活動は軟式テニスをやってました。
 中学2年からは、新人戦から秋田市では負けたことがありません。それは私の一緒に組んでいた人は小学校からやっていて、非常に上手だったからです。その時から人に恵まれていたんです。
 それで中学3年生の時の同級生が今の私のワイフです。以来、女性に関しては進歩がありません。(笑い)
 高校でも軟式テニスをやったんですけれども、やりすぎて高校一年の6月頃に目が見えなくなりまして、夏休み過ぎに治りましたけれども、テニスはやれないなということでマネージャーで3年間いました。その時の経験、縁の下の体験が今も生きていますね。大学の運動部なんかはキャプテンよりも偉いという事を聞きまして、そういうものなのかなと一生懸命やりました。 大学に入ってそれからだんだん活動と結びついてくるんですが、京都の外国語大学というところに入りまして、新聞記者になりたかったんですね。できれば海外特派員でもと夢をみていました。
 新聞部に入りたいと先生に訪ねていったら一発でにらまれました。というのはその当時の新聞部というのは、左翼の拠点だったんです。
 京都外大はそう大してことはなかったんで、ただ新聞づくりに熱中して、取材して歩いてました。でもやっぱりご多分に漏れず左翼の人が入って来るわけです。大分論争しましたが、どうしても勝てない。二年生の時ですが、とうとう胃潰瘍になりまして、一回帰ってきました。一ヶ月ぐらい家におって、なんともならないととうとう軍門に下って、運動をかじろうかということでだんだん、そっちの方にのめりこんでいきました。私は学生運動もやりましたけれども、労働運動の方に回されまして、京都の場合、紡績工場や鉄工所も結構あって、中学卒の男の子女の子が勤めているわけで、そこで色々サークルをつくりました。
 サークルというのをやって一番感激したのは、中学でたばかりの女の子が、私達が行くと、一緒に勉強会をするんですね。「働く女性の生き方」とか、難しくなると「賃労働と資本」とか、そういうのを中学を出てきた女の子達が勉強するわけですよ。後でよく聞いたら大学生のお兄さんがいるから集まってきたんだと聞きましたが、遊びながらやりました。
 サークルでの私が最後に勤めた会社のところでは、漫才の「今くるよ」さんとと一緒にやってました。彼女が吉本興業に行くときにいろいろ相談されました。私は何でもやってみろというたちですから、積極的に勧めましたが、秋田に帰ってきてから、彼女はしばらく芽が出なかったので、非常に困りましたね。
 私が労働運動に入ったきっかけというか、一番心が動かされたのは、働くということが、労働者のものになっていない、つまり他の人のために働いているということでした。
 むしろ自分で家に帰ってきて、家庭に棚をつけたほうが充実感があると、だから働くことを労働者の手に取り戻そうというようなところが原点ではなかったかなと思います。
 で、結局就職せずに、いまでいうフリーターをずっとやってました。ルンペンプレリタリアートですね。一応革命運動とかいろいろやったんですが、逮捕されたことはありません。お陰で足が速くなりました。(笑い)中学、高校まで運動会で3等にも入ったことのない者が、今走らせると抜群に速いです。その頃から速くなったです。キャラバンシューズを履いて、逃げ回った訳です。(笑い)
 デモの最後に円山公園に行くわけですよ。追われるとあそこの坂を一気に駆け上がるんです。足腰が強くなるわけです。
 オフクロから二年生の時に勘当されまして、それ以来ずっと仕送りは受けておりません。仲間の人達に食わせてもらったり、地下に潜るという経験もしました。何のことはない、地下鉄に乗ることもありませんでした。(笑い)
 オフクロが結婚したら落ち着くんじゃないかということで、中学時代の同級生と内緒で付き合っていたんですけど、オフクロが動いてくれまして結婚することができました。
 それで京都に住んでいて、長男も誕生して、京都に本格的に住むかということにしたんですが、こっちの家屋敷を売り払っても、向こうには家が建たないんですよね。土地の値段から全然違って、結局諦めまして、秋田に帰ってきました。26歳の時でした。

 で、泉地区に住んだわけですけどそこは、土崎の料亭をやめる時に買っていた家屋敷がありまして、オフクロが一人で住んでいたんです。
 そこの八畳一間で学習塾をやろうと。京都でも学習塾をやってました。組織の資金集めということで無料でやってましたんで、ちょうどオイルショックの時でしたから、仕事がなくて、学習塾を始める前に運動をやってまして、ガリ切りが得意でして、第一孔版の石黒さんのところに仕事ないかと頼みにいったんですね。そしたらまず、書いたものを持ってこいと、その書くのが大変で、塾を始めたときに自分でガリ版で印刷して、チラシを出したんです。ごくその辺に新聞チラシに入れて、それを見て、塾の生徒が集まる前に、そこから電話がきまして仕事をやるからこいと(笑い)。有り難かったね。
 石黒さんの所でも大分お世話になりまして、学習塾も皆さんのお力添えで、今日まできました。
 ただ、私もずっとやっていくつもりはなかったんです。
 いい仕事があったら変わりたいなと思っていました。結局、あの当時、塾を始めた頃、すこし大きくなった頃も、塾とは「社会悪」とか「必要悪」とかいわれてました。そういう時代で、取材にも来るんです。
 一生懸命喋るんですが、結局悪になってしまうんです。日陰者ですね、どっちかというと。こんな仕事は大変だなあと転職を何時も考えながらいたんです。つまり中学3年生の受験学年だけ預かっていれば、その年の次に止められるんですが、小学生、中学生と学年バラバラにおりますので、やめる訳にいかなくて、周りの人もどうせやるんだったら秋田一になるまでやってみろといわれたんですね。銀行の人にも言われまして、金を貸してくれまして、今は秋田英数学院として塾が15で秋田市が中心ですが、大館と本荘にもあります。
 今年は大学卒10名採用しました。40名ぐらいの先生の規模になってます。あとはアルバイトが常時百人ぐらいで生徒数が増えたり減ったりの状況です。
 
 泉地区に住んでいるんですが、私が住んでいた頃はひどい状態で、田んぼの上に家を建てているような感じで、半分以上が田んぼでした。今はほとんど家が建ってきた訳で、オフクロが住んでから35年になります。ほんとに何にも無いところで、農道はあるは田んぼはあるで、ドジョウとセリは不足しなかったし、土崎に行く汽車が通るのが見えましたし、農事試験場ぐらいしかなかったですね。
 そこに泉小学校という学区ができたんですけれども、その前は保戸野と八橋に別れていだんですけれども、新興住宅地なんです。普通だったら新興住宅地でも地元の人がいますよね。一人もいないところなんです。地主さんはほんとの泉というか三嶽根とか、天徳寺のある方にいるんですね。泉の歴史を語る時に、ほんとうに地主さんがいなかったというのが大きい特徴なんです。好きなことをいっても、新参者といわれないわけです。
 (続く)
   呑 風 日 誌 抄
11月2日(土)娘と秋田市羽川。健康の森を主宰する佐藤清太郎さんちで炭焼き体験。 協働社大町ビル。武産塾合気道修練道場25周年祝賀会。3ヶ月の入門であったが、奥様の挨拶がいい。「主人は一人では何も出来ない人ですからよろしくお願いします」夕方、汽車で仁賀保町エクセル。劇画「やまとゆきはら」「白瀬南極探検隊と二人の樺太アイヌ」の出版会へ。
 3日(日)飯田川町へ。小玉正巳大先輩の葬儀。小生の弔電が披露された。レスリングの大学先輩。可愛がってもらいました。奥さんをおっ家内だといって紹介されました。
 4日(月)女房と娘と西目町のハーブワールドへ。夢とロマンの日本農業のパイオニア・斉藤作円理事長から大忙しのキリタンポづくり、花づくり、ぶどうづくりを伺う。
 8日(金)秋田市・イヤタカ。秋田ペルー協会総会。ゲスト講演がペルーの天野博物館の事務局長坂根博氏。同学の城東整形の水谷羊一氏、坂根氏の家庭教師だった石川錬冶郎氏、秋田美術工芸短大の石川好学長と2次会。
 9日(土)秋田市松崎団地へ。詩吟の木村岳蔦先生から何故か日本詩吟院岳風会の初段の許証を頂く。
 秋田稲門会は義理と人情の人生劇場路線と男鹿市ふれあいプラザ。吉田典雄副幹事長と。松川真澄さんの子供劇場「おはなしいっぱい」平辰彦・秋田経済法科大学短大部の平辰彦先生の芝居「男鹿のマクベス」を観る。由利均夫妻も来てくれました。
 12日(火)秋田ふるさと塾。アラーキー日本人ノ顔福岡プロジェクトの撮影を視察してきた工藤善一氏の報告会。
 14日(木)秋田市山王・讃岐茶屋・早稲田グリークラブ秋田公演実行委員会の顧問反省会。作成したCDを贈呈。
 15日(金)オゾンを応用した新技術開発をすすめる宮城県南郷町の潟Xカイクリーンの北村雅幸氏とあきた産業振興機構へ。
 16日(土)仁賀保町・レストラン森本。小林工業の小林忠彦会長、古川健二氏と。美味い洗練された料理を頂く。延期された「煙草のけむり発表会」を一月18日に本荘市にて開催することにする。 
本荘市鶴舞会館。全県ボランティア研修会へ。第五分科会「地域づくりの勝手連」で鼎談。まごころネットワークの俵屋裕子さん、露国遭難漁民慰霊深沢委員会の小川隆一さんと、地域づくりはナイスミディで。グランドホテルで交流会。あべ十全氏宅のルーマニア製のサラミが超珍味。
20日(水)秋田パークホテル。昼。秋田ウラジオ会役員会。事務局を商工会議所にと。
21日(水)昼、山王・焼肉若葉。29日の出版会の打ち合わせ。守川恒さん。渡部紀代子さんスタッフの方々。お世話になります。夕方。平安閣にて三浦慶久氏後援会へ。
 21日(木)イヤタカ。法政大学OB会での岸部恵一氏・秋田市文化賞受賞祝賀会。
 22日(金)榮太楼旅館。あゆかわのばるさんの詩集「不測の事態」出版記念会。秋田の個性豊かな方々が集まっている。2次会で漫画家の倉田よしみさんへ、国民的歌手・東海林太郎を描いてと相談。
 23日(土)本荘のHP博士の石井護氏からふるさと塾のホームページをすっかり整理してもらい。大江戸ラーメン。
 24日(日)この秋。秋田市通町のお稲荷さん祭りを企画実行された登美屋のご主人から「通町の歴史」の本と下駄を買い。通町の昔の話を伺う。
 25日(月)昼、NHK秋田放送局の小池放送部長へ秋田地域通貨協議会の大久保智子さんと地域通貨のPR依頼。
 夕方、讃岐茶屋にて、慶応のワグネルソサイアティOBで秋田テレビの石田専務、秋田銀行馬口労支店の木村支店長と一献。歌の話がいい。畠山文夫店長と館へ久しぶり。
 26日(火)秋田キャスルホテル。市川倫子と音楽の夕べ。大盛況であった。
 27日(水)土崎港の本住寺。戦争出前噺。本多立太郎さん88歳の戦争体験談。「戦争は別れと死」であると。「けんちゃん」にて東海林太郎の菩提寺西船寺の多田副住職と舛屋政雄ツバサ広業社長、朝日の細見記者も入って一献。
 29日(金)イヤタカ。「青春旅故郷づくり」出版記念会。
2百人もの方々に集まっていただく。大友康二先生の歴史的一言挨拶。ご厚情頂いた方々のご恩は忘れません。
 30日(土)出版会。本荘グランドホテル。70人もの方々に集まって頂く。2次会は小林忠彦会長の待つスナック千。 佐々木市雄さん宅にすっかりやっかいになってしまう。