ふるさと呑風便 2002年10月 NO 162
拉 致
メダカを採って富士山に登った。
10月5日の早朝、羽後虫の会の木川弘会長の案内で、ジープを運転して秋田市郊外の田んぼに出かけた。
木川さんはメダカが絶滅しているとの説に、秋田市内にだってメダカがちゃんといると反論されていた。
秋田日赤病院近く。田んぼ脇の堰が前日の雨で濁っている。木川さんが、たも網ですくう。いたいた。中でメダカ数十匹が跳ね上がっている。30匹ほどバケツにいれて、持ち帰る。途中、富士登山口との看板が見えた。木川さんが、「知らないの?。ここに日本一低い富士山があるよ」
小さな鳥居をくぐって五合目、八合目と登っていった。5分で頂上についた。海抜35b。欅の巨樹が立ち茂っていた。西に日本海が望める。
木川宅に戻って、メダカの飼い方を教わる。餌は市販されてて、朝一回でいい。寿命は3年とのこと。
我が家のベランダ。塩素を抜いた水道水を水槽に移し、秋田市生まれのメダカ達を放した。そして言った。
「拉致してきたんじゃないぞ」
9月30日付け毎日新聞の余録。三木賢治論説委員が「煙草のけむり」のことをコラムに書き、北朝鮮の拉致被害者の身を案じた。拉致された日本人に「煙草のけむり」のような口ずさむ歌があったろうか。政府調査団の朗報を期待したい、と。
「煙草のけむり」というCDは秋田県本荘市の小林忠彦さんが自主制作されたもの。これは3年間のシベリア抑留時代に仲間を励ますために作った歌であった。
余録を読んだ読者から早速反応があったと知らされた。
群馬県沼田市に住む方がシベリア抑留時代に、小林さんの「煙草のけむり」を収容所の演芸会で聞いたと三木氏に連絡があった。このことを小林会長に知らせたら、大変喜んで沼田市の元抑留者にCDを送られた。
小林さんも北朝鮮に拉致された被害者を、自分の体験から平和な時代にむごすぎると身を案じていた。
小泉首相に知らされたのは果たして朗報ではなかった。
アメリカが怖くて、日本からの援助を当てにする金将軍様がもたらしたのはむごい報らせだった。
九月十七日の夜。私は気が重くてある民謡大会の反省会には行けなかった。余りに惨い。そして、北朝鮮との国交回復に急ぎ、省益を求める外務省の役人。「数人死んでいたからといって・・」と国民感情を逆なでするような発言には怒りを覚えた。
日中国交正常化は田中角首相が成し遂げたのではない。 正常化に至る前史には功名に走る外務省の一局長ではなく、松村謙三先生と中国の周恩来首相とに信義の道のりがあった。信義を示さない国との国交回復は急ぐべきでない。
気の重い日々。そんな時、美智子皇后の北朝鮮拉致事件への発言に救われた。
「なぜ自分たちの共同社会の出来事としてこの人々の不在をもっと強く意識できなかったのか」と、率直な想いを示されたお言葉。
国民の目線で、心の痛みをわかる皇后様をいだいている日本国民は幸せである。
我家のメダカには毎朝、当家の皇后様が餌を与えている。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★ 平成13年9月24日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「農工商連携のまちづくり」
★ 佐々木義文氏
(秋田県商工会連合会企画部長)
秋田県商工会連合会の佐々木と申します。 商工会連合会といってもご承知のない方もおられるでしょうが、秋田市山王十字路にある商工会館の中の4階にあります。 商工会と商工会議所は地区割りをしてまして、主に市部が商工会議所、町村部に商工会があります。 県内には6つの会議所と64の商工会がございます。
たまたま私共の会長が、本部に居ても現場の商工業者の会員や商工会役職員の声がわからないだろう、部長は地域の体験をすべきだということで、商工会へ2年間の出向となりました。
これがきっかけで、現在も本部管理職は市町村商工会等へ出向しております。
そんな訳で2年間勉強して参りました。十一年度と十二年度に神岡町にお邪魔させてもらったんですが、十一年度は当時の事務所である役場の公民館の一室で新商工会館の建設に取り組みました。
会館を造りながら、二年間の契約でしたから、十二年度に果たして何をすればいいのかと、会員念願の会館ができたのに商工会が何もやらないとなると大変だなあということで、会館が形になってくると重荷になってきまして、色々企画を考えました。
そこで十二年度新規事業である「地域振興活性化事業」を知りました。これは国の補助金事業で地域からの提案公募型事業で自ら地域活性化策を提案する新しいスタイルでした。商工会というのは予算が厳しいところですから、国から金をもらって何かやろうと会館を建てながら考えていました。 そうして考えたのは、第一次産業(農業)と第二次産業(工業)、第三次産業(商業)の相互連携による新産業創出策でした。第一次、二次、三次産業はどこの市町村もそうなんですが、それぞれの産業が縦割りになっておりまして産業間連携がきわめて希薄です。
ただし大きな都市は第3次産業で商業集積のなしえる地域がありますけれども、大概の市町村は産業の縦割りなんですね。これを何とか有機的、機能的に連携できないのかなと考えたのが、「あるべき姿」のイメージ図でした。それぞれの1、2、3を一部重ね合わせ地域振興をテーマに考えてみると、産業の境目というのはなくなっているんです。
具体的にいうと、一軒の家族は田んぼがあり農家であって、商店も経営している。また長男はサラリーマンという形態も結構多いんです。産業こそ1、2、3がバラバラだが、地域の核となる家族は、屋根一つでしっかりとまとまっているんです。
第一次産業と第二次産業を重ね合わせると1.5次産業、二次産業と三次産業を合わせると2.5次産業となり、1、2、3が重なった部分が地域活性化事業を要望した点であります。
ここに観光というものをもってきたら活性化を図れないかと考えてみました。第一次産業であれば農業ですが、観光という言葉をくっつけますと農業観光、例えば自然体験観光、今、米の減反で農家の方々が人的な余力がでてますし、後継者がおられる方もおりますが、勤めにでていて、部屋も余っている。例えば、グリーンツーリズム、民宿など・・・。
第二次産業と観光の考えですが、神岡町の場合、第二次産業というのは誘致企業と酒造業の福乃友と刈穂、また味道楽の東北醤油などがあります。
いずれ第二次産業と観光を結びつけたいと考えたんですが、例えば工場見学観光、モノづくり体験などで観光と結びつける。
第三次産業の商業観光ですが、地域の歴史、文化を活かした○○市とか、誘客イベントなどが考えられます。
そこで組織を作らなければいけないと、神岡町商工会地域振興活性化事業スキーム図を作りました。いわゆる農工商連携のためには、色んな方から協力を頂かなければいけません。事業の推進組織として推進委員会をつくりました。
84人の方に委員の委嘱状を渡しました。商工会の会員以外の方々に極力多くお願いしました。勿論町長さんにも入ってもらいましたし、学校の教務主任とか、町内会長等のあらゆる職種の方々に、一人づつ全員に委嘱状をお渡しいたしました。一人も断りがなく、快く引き受けていただきました。
これで6割ぐらい何かできそうだなあと手応えを感じましたね。
そこで実施計画書をつくりまして、目的は、農工商の各産業が相互連携のもと、観光を共通の資源として捉えた、新たな産業興し等の研究開発や、実験的なイベント実施をやってみようと。最終の目的としては、やはり全体の商工業振興で、町の発展計画と整合させていこう。そして継続的な実施組織をつくっていこうとしました。
だいたい組織も決まって目的も決まった訳ですので、具体的な事業計画を練る段階になっていますが、農工商連携には色んな反発もありました。
私は神岡町商工会の事務局長という立場でしたので、貴方は商工会の事務局長なのに、何故農業とか、地域住民との連携なんだといわれました。私は商工業者の個別企業が生き延びて行くには地域全体が良くならないと難しいではないか。地域課題をみんなで考えて解決することによって、自分の店も、息子さんも定住できるのではないかといって説明しご理解を頂いたつもりで、やや見切り発車でもありました。
そこで独りよがりですと佐々木一人でやってるといわれるのは良い成果が期待できないので、全町民の全世帯、そして全商工業者の方々にも、町活性化のアイディア公募のアンケート調査をしました。
結果、私の考えと、町全体の総意であるアンケート集計結果は、まさに一致することとなり、商工業者の生の声も集約することができ、当初考えた以上の成果と住民、商工会員からの前向きな回答を得られ、感動を覚えました。
これを契機に自信を持ってこの事業に取り組もうという段取りになってきました。具体的に実施したのが、実験的事業の実施。あくまでも実験的事業ですので、継続するかしないはやってみてから。
神岡町は少年野球発祥の地です。そこでイメージキャラクターづくりとして、デザインを専門家にお願いして、名称を募集しました。シンボルマークです。
それから、飴売り節の里でもありますので、新「飴っこ節」の創作と「飴っこサミット」の開催を計画しました。
それから滞在型観光の研究として、実際に観光客の方に日帰りバスツアーを募集しまして、神岡に来て貰い一般の方の声も是非聞きたいと思い「日帰りバスツアー」も企画しました。
そして神岡町商工業振興計画を作って啓発していこう。それには町の将来ビジョンがないと絵に描いた餅、或いは一過性のイベントに終わってしまいます。まずビジョンをつくって提言・啓発活動を行っていこうとしました。
そういったことで、計画を練ったら、お陰様で国のほうから120万円の補助金がつきました。商工会にとっては120万というのは結構大きな金額です。そしたら町の方でも賛同していただき120万円を予算化いただき、自己負担50万円、合計290万円でいよいよ実施することとなりました。
実際に取りかかったのが平成十二年の6月から。正味一年切れのスタートでした。
まず神岡町は少年野球発祥の地にふさわしい地として、商工会という概念から飛び越えたイメージキャラクターとすることで、名前はあえて一般募集しようと。そしたら、「だけ丸くん」に決まりました。「だけ」というのは神岡町のシンボル神宮寺嶽の「だけ」と「丸い」野球ボールを思い描いてだけ丸くんと名付けられました。
実は、少年野球発祥の地は今の神岡町立平和中学校なんですが、中山校長先生が、愛称募集中に事務所に見えまして何と平和中学校の全生徒が応募してくれたお話を伺ったんです。その時は身が震える位、喜びました。商工会事業に中学校全生徒が参加してくれるなんて、しかも将来の町の後継者たちが関心をもってくれた事が嬉しくて・・・・・。
その後せっかくデザインも名前も決まったので着ぐるみがあった方がいいということで、見積もりをとったら50万円ぐらい。そこで事業の趣旨等を説明し、お願いに廻ったら5団体から10万円づつ協賛を頂くことが出来ました。 さっそく野球帽とユニフォームの着ぐるみをつくり、だて丸くんの入賞者の小野幸子さんと「ふるさと祭り」の際に、着ぐるみのだて丸くんと握手をしてもらいました。役場や商工会などで「だけ丸くん」のイラスト入れ名刺を作ったり、だけ丸グッズをつくったり少年野球発祥の地神岡のPRに活躍しております。今では、町内の運動会や500歳野球大会、産業祭などイベントの人気者です。マスコミでご紹介いただき、秋田市内からも着ぐるみの貸し出し依頼がありました。
それから、町外の神岡町に今まで来たことのない人を対象にバスツアーを公募しました。これは大失敗をしてしまいました。
というのはツアーの失敗ではなくて、最初役場に福祉バスがありますので、こちらをお借りし基本的に実費程度で使用することで考えておりました。募集同日秋田魁新報の支局長に広報をお願いし、ちょっと書いてもらいましたら、朝から応募の電話が鳴りっぱなしとなり、わずか10数分で申し込みが定員となりました。その後は、全職員がお断りの電話に追われていました。
すっかり気を良くしていた午後に陸運局から電話がありまして、実は町の福祉バスを使うのは困りますということでした。目的外使用ということと、許可のないバスに一般の人を乗せるのは駄目ということになり急遽、その対応を検討しなければならなくなったのです。(続く)
呑 風 日 誌 抄
9月1日(日)アトリオン。クラプラ展へ。美術短大出身の若手女性グループの展示会。県展で入選した作品が多く、OBの松葉谷温子秋田市助役も見えている。昔の蚊帳の中の展示が面白い。
6日(金)山王・讃岐うどん。早稲田大学グリークラブ秋田公演実行委員会反省会。頑張った面々と美酒。吉田事務局長から予想以上にチケットが売れて、当日券も30人、50万円程の余剰金がでたと報告。これは稲門会の別会計にして、何かの世の中の為になるイベント基金によせておくことにする。CDを作ってもいい。
8日(日)五百歳野球中通クラブの壮行会。秋田駅前・人情酒場
久保田。今年の神岡大会には膝の故障で欠場。神馬暹総監督に「青春 旅 故郷(まち)づくり」の出版記念会の発起人を依頼、ご快諾。 5日(木)NHKの人間ドキュメント。「聞いて下さい。私の人生」を見る。秋田聞き書き学会の隊員3人がお年寄りの聞き書きに行っている光景が何度も映し出される。岩田真治デレクターから前もって内容を聞いていて、視聴者からの問い合わせは事務局の我が家の電話番号を知らせている。感動的な美しいシーンが続く。カメラアングルもいい。翌日から感動した、自分も聞き書きボランティアをやってみたいと激励と問い合わせの電話が一週間も、全国からかかってくることになる。
9日(月)半日人間ドック。総合保健センターにて。結果はすべて異常なし。ちと、尿酸値が高いので、酒はほどほどにとのこと。 ギャラリーあい。水墨画の天才卓吾展へ。本人とも会い。去年、九十九里浜に引っ越ししてからの作品。さすが。飲んでないと話にならない天才だが。
12日(木)本荘市・スナック千。小林忠彦会長の「煙草のけむり」CDが足りなくなって二千枚追加することに。他に十月29日の発表会で会長が歌われる長崎のザボン売りの他4曲を聴く。
13日(金)秋田市川反・吉野家。秋田ボランティア協会の菅原雄一郎さんと多懇。沼沢益子さんも入り、11月16日の本荘市での全県ボランティア研修会の地域づくりの助言者に依頼され、「ナイスミディによる地域づくり勝手連」の分科会とすることに。
14日(日)あきた地球村の武藤さんと大久保智子さんの案内で山本町の診療クリニック「長信田の森」へ。青森、岩手からも集まっている。寺田洋子さんの南インドの身よりのない児童施設訪問記をスライドでの講話を聞く。
16日(月)岩城町厚生年金センター。前岩城町長の前川盛太郎氏の勲四等旭日小授章授章祝い兼「夢と出会い」の出版を祝う会。
八百人の大盛況。地域づくりの師匠・前川さんの挨拶「まちづくりは夢づくり」との言葉には共鳴を覚える。兄貴分と慕う山形県金山町の岸宏一参議院議員も来ていたが、来賓挨拶が長引き、岸先輩が途中退席の際にちょっと話、今度秋田で飲もうと言われる。
17日(火)鳥海町の佐藤定樹氏と由利本荘に硬式野球のクラブチームをつくる相談。北朝鮮の拉致被害者8人が死亡とのニュースに驚愕。気が重くなって三吉神社の全県三吉節大会に出席できず。
19日(木)昼。秋田パークホテル。東京6大学能代選抜チームとの交流試合の打ち合わせ。今年は佐々木満杯を奪還する計画。
21日(土)早朝、秋田市役所前。山形県酒田街道を経て上山球場。吉田典雄氏の車で一行4人。東北3県母校野球交流試合へ。今年で14年目。仙台チームから助っ人を借り最初の山形チームとの試合。先発がストライクが入らず、捕手から交代。膝が痛いのに5回を投げきったが、惜敗。二試合目は仙台チームとやって大敗。目的は交流会。蔵王温泉のホテル樹林にて大宴会。球友無限であった。
25日(水)ふるさと塾。アラーキー日本人の顔秋田プロジェクト第三回準備会。企画書をつくり、主旨目的を明確化する。秋田の顔プロジェクトは地域にどんな形で貢献できるかが課題。
27日(金)ふるさと塾。講師は三伝商事社長の三浦廣巳さん。秋田ワールドゲームズ事務総長をつとめ、ワールドゲームズを成功に導いた。演題は「秋田ワールドゲームズが残したもの」世界に誇れる国際スポーツ大会で、世界のスポーツ界に秋田の名前を高めた。貴重なお話を聞いて、彼のリーダーシップに感服。
28日(土)秋田市文化会館。尊厳死の講演会。会場は満員。秋田聞き書き学会の菅礼子副会長のお誘い。尊厳死に対する関心の大きさがわかる。
秋田市下新城の佐藤孝之助さん宅でデジカメ写真の勉強。
29日(日)八橋ユーランドホテルの温泉に女房を送り、我が家で川又淳氏と「煙草のけむり」発表会の案内書の袋詰め。
30日(月)秋田市山王・讃岐うどん。畠山文夫氏が3人だけの貸し切りにしてくれた。密談した訳ではなく39会。加成義臣県議と、お嬢さんがイギリス人と結婚する連合の菅谷理市会長を慰める会でもあった。
どんぷう後記
8年振りに3冊目の本を出します。題して「青春 旅 故郷づくり」学生時代から新聞等に書いていたのをまとめたものです。バウハウスの森川恒さんに作ってもらい、印刷は秋田協同印刷さん。
出版記念会をやってくれます。
11/29 イヤタカ(秋田市)
11/30 本荘グランドホテル
12/1 大内町農協会館
その後は、本を持って県南、県北、東京とドサ回りをします。
ご厚情をよろしくお願いします。