ふるさと呑風便  2002年1月号

   聞き書き

 今年の年賀状。メールアドレスを記入しているのが多くなった。鳥海山の写真入りや絵手紙年賀状、いい添え書きのある年賀状を選んでアルバムに貼る。多くの方から激励の言葉を頂いた。嬉しく心強い。言葉は励ますためにある。
 毎年貼っている年賀状の一枚に学友・小田豊二のがある。今年は、ターバン姿になって、タリバンではなくターバンですと笑わせる。そして、今年も目立たず、おとなしく生きていきますとある。添え書きには「1月25日、会えるのを楽しみにしてます」とあった。

 秋田で雪上野球を始めて22年になる。第一回が昭和51 年1月15日.。場所が今は無くなった県立球場だった。日本雪上野球連盟(石井千万太郎秋田大学教授)を結成し、秋田市で12年間やって、東由利町に誘致されてから今年で11年目。2月の第四日曜日に開催し、去年はフジテレビ経由の秋田テレビの依頼でたけし軍団と試合を決行。今年はNHKの「日本人の質問」の取材がある。この雪上野球の産みの親が小田豊二である。

 昭和50年夏。東京六本木の某所で彼と飲んでいた。「お前、夏は何やってる」ー野球やってるよー「冬は?」ー酒飲んでんなー「そうだおい、冬、雪の上で野球やってくれ。そしたら、秋田に取材にいけるぞ」
 作家小田豊二氏は、当時、週刊プレイボーイの記者を辞めて、フリーライターになっていた。週刊明星に「発見の旅」を連載していた。その取材で秋田へ行くという。

 日本初の雪上野球の前夜。外には雪が全くなく、道路もカラカラである。我が家で小田と飲んでいて、「どうする、雪上野球でなく、泥んこ野球になるぞ」そこへ電話。職場の上司・渋谷達雄さんだった。「みっちゃん、外をみてみろ」カーテンを開けると、小雪がチラチラ、舞い降りていた。翌朝、秋田県を面白くする会対焼き鳥ひょうちゃんず(佐藤寛監督)が対戦し、4回裏に猛吹雪となり、4対4のコールドゲームであった。
 渋谷さんも寛さんも今は、天国で雪上野球を観戦してくれている。

 平成となって11年の夏。新宿・紀伊国屋の地下で小田とビールを飲んでいた。彼、聞き書き作家として著名になり、三木のりへいさんの聞き書き本を出していた。嬉しいことだ。そして、珍しく真面目な顔になって、言った。
「お前、秋田で聞き書き運動を起こせよ。一人のお年寄りがなくなると、地域の図書館が一つなくなると同じなんだよ。地域おこしにもなるぞ」ーよしやろうー
 ところが当方、秋田でぐずぐずしているうちに、彼は北海道で日本聞き書き学会を立ち上げ、運動を始めてしまっていた。
 遅ればせながら、今年から秋田で始めたい。そのきっかけづくりとして、この25日、秋田ふるさと塾地域づくりセミナーに彼が来てくれる。友よ、有り難い。
 秋田県の老人自殺率が全国一高い。それを憂慮される秋田大学法医学の吉岡尚文教授も出席されると小田講師にメールを出したら、次のような返事がきた。

 偉い先生方の前で、俺、しゃべれるかいな。あんまり盛り上げるんでねえよ。
 でも、老人の自殺率一位問題は放っておけねえ。すぐにでも、聞き書きはじめようよ。
 うちの親父も、俺が聞いてやらないものだから、いくら出したら、聞き書きをしてくれるって言ってる。
 話したいんだよ。自分の人生を。
 聞いてもらいたいんだよ。過去の苦労を。
 教えたいんだよ。自分が手にした技術を。
 残したいんだよ。自分が生きていたという証しを。
 がんばろうよ。俺たち。

 俺が必要ならいつでもいくぜ。
 25日、よろしく。
 目立たない 小田でした。

 聞き書き運動を大いに盛り上げて、先人に学び、美しく愛すべき郷土を共につくりたいものです。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年3月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★ワークショップ「環日本海交流を如何に」
★佐渡友哲氏 (秋田経法大学教授)

 ワークショップ、いわゆる参加型学習という手法で、環日本海交流をどうすすめるかというテーマを一緒に考えていきたいと思います。私はただ、きっかけとつくるだけで、進行係をつとめます。
 皆さんが話をすすめていくなかで方向性がでてくるんですね。
 本来は3時間ほどかかるんですが、今回は1時間半ぐらいで終わりたいと思います。皆さんと考えながら、討論しながら、何かが見えてくるというのがワークショップのねらいなんです。
 ワークショップは20人から50人のグループを幾つかに分けて、グループとグループに話し合ったら面白いのですが、今回は一つのグループで行います。
 まずこの紙を配りますので、この紙を半分に折って、それを又半分に折ってください。その4面の一面に自己紹介を兼ねた名前を書いて、3面にはそれぞれ違うものを書いてもらいます。
 一つには人々がロシア、中国、朝鮮半島に関心がない理由を書いてください。我々は環日本海に対して非常に関心があるんですが、県全体、東北全体では環日本海はあまり話題にならない。環日本海という言葉はここ数年、秋田でも話題になったんですが、一般の人にはピンとこない。最近、ポシェットからもコンテナ船が来るんですが、ビジネスをやっている方は大分盛り上がっているんですが、一般の方々はロシアの港がどこにあるかわかりませんし、朝鮮半島の何処とコンテナがつながっているのか、全然、関心がないいんですね。
 最近、県で意識調査をしたんですが、何十という項目の一番下に環日本海交流とかがあるんですね。驚くぐらいに意識がないんです。国際的な意識がないといっていいと思います。
 何故こんなに意識がないんだとうか。今、県の地域開発課が環日本海交流にいろいろやっているんですが、余りにも経済界だけが突出しているんですね。これではまずいとそろそろ気が付き始めたんでしょう。一般の人からどうやってロシアとか、中国、朝鮮半島をわかってもらいたいということを考え始めたんです。
 私、去年から地域開発課から依頼を受けまして、県北と県南の二カ所で、環日本海交流について経済界だけでなく、一般の方々、年代は一〇代から六〇代まで30人ぐらいを集めて頂いて、こういうワークショップ形式で講座をやったんです。その一つとして、皆さんに書いてもらいます。
 人々がどうして、対岸地域に関心がないのか。どっかに理由があるはずなんですね。気が付いたことを箇条書きに書いてください。例えば、歴史的な文化的なこともあるでしょうし、それを一つでも二つでも書いてください。

 右側の方には、夢を書いてください。夢と希望、それから、今から30年後、環日本海地域に無くなるもの、目に見えないものでもいいです。価値観とか文化でも気が付いたことを書いてください。
 その下に、今度は生まれるもの30年後にこの地域に生まれるものは何か。それは目に見えるものでも、見えないものでもいいです。
 これも箇条書きで書いてください。右上に名前を書いていただいて、その下に、自分が一番愛着を感じる町、土地の名前、産まれた所、住んでいるところ、国でもいいです。地名を一つ書いてください。これは提出しなくてもいいんです。
 
 それでは環日本海とは一体どの地域なんだというのが大前提になります。環日本海という言葉は実は日本で生まれたんです。日本海側の都市で生まれました。従って日本全体ではあまり流行ってないんですね。例えば仙台の人なんかはあまり関心がない。東京・大阪など首都圏でも環日本海といっても何ですかとなります。
 環日本海地域とは狭い意味では、北海道、東北の半分、日本列島の半分、九州の福岡まで。朝鮮半島の半分、中国の東北部、ロシアの極東地域が狭い意味で、環日本海地域となります。
 今では、東北三省、モンゴルまでいれ、朝鮮半島全部、ロシア極東、日本全部を含めて、いわば北東アジアのことを我々、環日本海というようになりました。非常に幅広く考えてください。

 無くなるものとして、経済格差と書いた人はおりますか。経済のことを書いた人。距離感がなくなる。交通の便が良くなって気軽に対岸に行けるようになるということですね。日本海側でたくさんのフェリーが行き交うようになる。
 大賛成ですね。日本海は海ではなく、湖という感覚で考えればいいですね。
 30年後には朝鮮半島が統一されて、国境がなくなるだろう。国境というよりも、北東アジアの経済圏といったものが生まれるだろうと。民族的な差別感がなくなる。
 次に生まれるものは何でしょうか。新しい秋田美人ですか。国際結婚が進んで、対岸のロシア人との間に生まれる。いいですねえ。(笑い)日本海をいけすと考えて、観光船が生まれる。面白い。
 十数年前、私の研究室にきた人がいました。日本海の真ん中に島を造ろうという構想が持ってきました。人口の島を造って、これは都市なんですね。この構想が再び上がってきませんが、この日本海アクロポリスの建設構想は、鹿島建設でしたね。夢はありましたが、お金がかかって利益があがらないだろうと、とりあげられなかったですね。
 日韓の関係が変わって、あと30年後には実現するかわかりませんよ。海底トンネルができて、朝鮮半島がシベリア鉄道でヨーロッパと結ばれることになるかもしれません。
 目に見えないものとして何かありますか。国際交流がすすむ。世代が変わって国際感覚も変わってくる。そうですね。先々週、韓国・釜山の国際セミナーに出まして、面白いことを発見したんですね。
 日本と韓国の間は今、相当の人が往復してます。韓国の若い人達が日本をどう思っているのか、私の所の学生がアンケートをとったんです。かっては歴史的な理由で、日本のことを余りよく思っていません。ただ、日本に行ったことのある人と、行ったことのない人との区別をしたら面白い結果がでているんです。行ったことのない学生に聞きますと、日本人は背が低いと思っていたといいます。日本人と接したことのない学生は昔のまんなの日本人観なんです。今の日本の何が好きかというと音楽なんですね。アンケートでは日本のアーチストでXジャパンが一番有名なんです。色んな歌謡曲だとか、流行の曲に非常な関心があります。
 歴史のわだかまりの時代から経済の交流の時代にきていると思います。日本の文化が、現代文化の共通項ができてきているのではないかと思ってますね。ですから、若い人は簡単にすーっと仲良くなれる。そういうふうに変わりましたね。むこうの学者と議論して、年一回、釜山と日本で、ロシア・中国の若者と環日本海全体のユースホーラムをやろうと話し合いました。若い世代からどんどん意識が変わってくるんです。
 ここでクイズを出します。○×式です。議論の対象にするためなんですね。
 問1は日本人の海外渡航人口が年間一七〇〇万。日本に来る外国人の人数は海外渡航者の半分?(半分以下・×)
 2は日本にくる外国人はどこの国が一番多いか。中国?(×。約500万のうち、台湾が20%、次が韓国、米国、香港、中国)
 3は秋田県の外国人登録者数は四千人?。(○、中国人が多い)
 4は県内でロシアとの国際交流団体は20以上ある。(×。秋田ウラジオ会他6団体)
 5はウラジオストクへは秋田市と広島間との距離よりも近い?(○。直線距離で八〇〇キロ)
 6番目は、秋田ソウル間に定期便が飛んでますが、ある年に年間八九〇人の渡航者が秋田から行ったんですが、韓国からその3倍の人数が日本に来た?(○。涙を流すマリア像を見に来たんですね。世界十数億のバチカンを中枢とするカソリックですから、宗教としたら大宗教ですから、フィリピンやラテンアメリカにもありますから、マリア像は観光と巡礼を兼ねた観光客をよぶ大きな財産ですね。)
 対岸諸国には、将来外国という考え方でなくて、ちょっと慰安旅行にといったことが大事ですね。
 それから、移民の時代がくる。人口移動が始まると思います。統計上、将来の労働人口が年間60万人が足りなくなるとあります。
 7番目ですが、韓国では日本海といわないで、東海といってます。韓国で日本海というと嫌な顔をされます。環日本海と名前のついた会議には出席しないといってますね。こういうことを認識するということが大事ですね。
 秋田とロシア・ポシェット港がここにおいでの西宮さんのがんばりで、定期航路就航になったんですが、これは経済界だけの問題で私たちの生活と関係ないと思っている人はいらっしゃいますか。
(具体的にいって、石が安くなったといいますね。ポシェット港から中国の石が入ってきてますから。
 我々の知らないところで物がはいってますから、直接携わらないと生活の実感はないと思いますね)

 私としては、広い視野で環日本海を眺めてみようと思います。
 経済圏として認めていくんですが、アジアにいろんな経済圏が生まれているんですね。これは政府間で約束したものは少なくて、都市と都市がイデオロギーを越えて一緒になってやっている状況が、東南アジア等に冷戦終結後におこっています。
 秋田を中心になって考えてみますと、これから大きな経済圏になる可能性があると思います。秋田県のゲートブリッジ構想がありますが、私は構造的に考えております。例えば自治体がいろんな会議を始めてます。北東アジア地域自治体会議等、中国、ロシアを含めた県レベルの、市レベルのもありますね。日露沿岸市長会議。
 私が論文に書いたんですが、もっと立体的にこの地域を考えようと。下の方は物流、情報、通信のインフラは非常に重要です。環日本海の交流は、人材育成、国際理解、対岸が近いんだとどうやって教育に取り入れていくか。小学校、中学校で始めるべきなんですね。
 国際理解教育の中に、北東アジアを意識した教育をしていく。そして、経済交流、人道支援、自治体の友好提携、新潟や金沢で特別フォーラムのような半官半民のトラックツーの交流が随分すすんできました。多国間の経済協力、安全保障を積み重ねて、北東アジア、環日本海全体が安定した地域となる。分野にこだわらず、多彩な関係がこれからうまれるのではないかと思います。
 これが将来の展望ではないかと考えています (文責・佐々木)
 呑 風 日 誌 抄
12月1日(土)秋田キャッスルホテル。瀬下ファミリイワールド主催。巨人新監督・原辰徳トークショー。監督就任の秘話。長嶋監督に監督室へ呼ばれ「結論からいう。来期は原監督でいく」「ハイ」とだけ答えるしかなかったと。
 2日(日)秋田市勝平・武産塾合気道道場の演武会へ。夕方、川反迎賓館にて、五百歳野球の中通クラブの納会。野球少年時代からファンの山内一弘元中日監督を呼んで、野球教室開催を提案。皆、歳はとっても野球を上手くなりたいのだ。
 5日(水)秋田県を面白くする会メンバー清水倫雄氏経営のみどり寿司。面白くする会の創立メンバーで十月から角館町助役に就任した片野裕・秋田県空手協会理事長の激励会。秋田放送の橋本泰幸氏と秋田木炭研究会の鈴木勝男会長。まちづくりは人づくりだと。
 7日(金)川反三丁目の秋田ふるさと塾事務所の2階に川反コミュニティ館がオープン。事務所開きの神事に御神酒を持って出席。
 8日(土)大町ビル・秋田ロシア語友の会・ハラショー会の忘年会へ。ソリューションシステムの泉・スベトラーナ夫妻も出席。はやく新しい型の秋田美人の誕生を期待したい。
 9日(日)女房と土崎温泉アッタマリーナ。土崎衆の代表格・斉藤信郷氏とバッタリ。
 10日(月)秋田空港3時の飛行機で上京。息子洋平と紀伊国屋書店で落ち合い、新宿末広亭の近く、上海料理店。従業員が皆、上海出身。小籠包が旨い。秋田県合川町出身の経営者にあゆかわのぼるさんの本を渡そうとしたが、近くの焼き肉・末広園にいるらしい。末広園に行って焼き肉食って、店長に本を渡す。上海人の彼、嫁さんが秋田の合川駅前の満腹食堂の娘だという。向かいの末広亭へ。旧知の三遊亭歌之介師匠と大御所の入船亭扇橋師匠の噺を聞く。楽屋にお二人を訪ね、歌之介師匠にとんぶり、扇橋師匠には秋田銘菓金蔓をおみやげ。緊張するが、湯飲み茶碗を頂いてくる。これは横手いい落語を聞く会の佐々木隆一さんにおみやげ。11時に雀の叔父さんで、娘の江津子と落ち合う。
 11日(火)昼、東和メディカルの学友・若林正彦と新宿西口の野村ビルの土佐料理店・司へ。3月に彼、小生の為に仕事を作って秋田に来てくれる。午後、大久保のペアーレ新宿で統計協会の研修会。統計は楽しむもの。
 夕方、息子と乃木神社参拝。乃木ビルの秋田大学鉱山学部OB会の重鎮・須田了氏にどんぶりのお土産を渡す。学生時代から世話になりっぱなし。川俣健二郎先輩の話等を伺う。新宿・薩摩おごじょにて、日本化学工業会の伊藤征一氏と、末広園にても飲むが上海人の店長に奢られてしまった。
 12日(水)新宿から成田エクスプレスにて成田へ。芝山町の花と緑の農芸財団理事長・心友の土井脩司宅へ。先客に、若井康彦氏。今年の千葉県知事に連合と民主党推薦で出馬された。初対面だが昔、彼と奥津憲仁ディレクターの紹介でNHKの町おこしラジオ番組に一緒に出たことがあった。若井さんは花と緑の農芸財団千葉連絡事務所長に、小生が秋田連絡事務所長になる。長嶋茂雄さんが名誉理事長、瀬島龍三氏が会長。
 13日(木)土井脩司氏の夢、花と緑の農芸の里の建設現場を案内される。ここに結城藩の水野の殿様の休憩所を移築、百坪もあるこの建物は江戸時代からのもの。焚き火にされそうになった柱の一部を抱いて羽田から秋田に帰る。
 14日(金)昼、アキタパークホテル。秋田稲門会有志で来夏、グリークラブ公演の相談。土井脩司氏のアルバムにあった、世界でたった一枚しかない、吉永小百合さんのポラロイド写真をサユリストの吉田典雄副幹事長におみやげ。
みずほ苑にて職場の忘年会。二次会は若い職員達と館へ。
 15日(土)イオンセントラルコートでの秋田デザインフェスタへ。敬愛する秋田デザインネットワークの佐々木孝会長と秋田職人の会の工藤幸彦会長の話しを伺う。
 16日(日)女房と土崎温泉アッタマリーナ。
 17日(月)県庁第二庁舎。政策フロンティア研究会にて、野村総研の山崎一真主任研究員の講話。「人口減社会における地域コミュニティ」実践的な講師。
 19日(水)彌高神社。北嶋昭宮司と石の勘左エ衛門の高橋正氏と、花と緑の農芸財団の土井氏から要請された、農芸の里に造る滝に使う鳥海石を送る相談。
 午後、福島市。福島県庁の旧友・上田義之氏と、ぎょうざ満腹へ。福島市が餃子で町興しを図っている。気の置けない友と本音酒。彼の出身地・浅川村の花火の話。
 21日(金)新屋勝平地区市民憲章推進協議会の役員忘年会。福祉センター。事務局次長になる。
 千秋矢留町に引越するが、引き続き役員に。勝平浜クリーン&プラント作戦を続ける。
 22日(土)26年も住んだ割山県庁アパートから、千秋矢留町の官舎に引越。大変。東京から娘・息子が来て手伝ってくれる。家族4人での食事は久方ぶり。
 23日(日)秋田ふるさと塾次長の佐々木啓助氏と塾二階の川反コミュニティ館にパソコンと食器棚を運ぶ。
 28日(金)御用納め。市町村会館の館にて、渡部薫と二人で忘年会。秋田商工会議所青年部の吉田喜廣新部長達と合流。二次会は山王・山路にてカラオケ。
 29日(土)榮太楼旅館。トトカルチョマッチョマンズの忘年会。元気印の若者達と飲み、地域づくりは聞き書きで先人から学び、美しく愛すべき秋田を創ろうと挨拶。