ふるさと呑風便    2001・9
   ボランティア 
 
 三味線茶屋「すがわら」秋田市山王にある民謡酒場で8月27日夕方。ワールドゲームズ秋田に参加したあるボランティアグループの打ち上げがあった。総勢17人の笑顔が集まっている。
 秋田駅前の総合生活文化会館がワールドゲームズのウエルカムセンターとなった。
 私共の仕事は、そこでの13日間、お揃いのTシャツを着て、ワールドゲームズ参加者への受付、茶道、華道、着付教室等への案内役が主だった。私は何故か地下イベントホールの班長。ボランティアの方々は女性が多く、一階受付コーナーでは一日中、立ちっぱなしである。打ち上げに出席したあるオバタリアン風でない方が笑いながらいった。
「疲れたけど楽しかったね」
 この言の葉。昨秋、秋田市で開催された全国職人学会の受付ボランティアを頼んだ方からもいわれた。
「疲れたけど楽しかったわ」
 ボランティアとは、疲れるが楽しくなければいけない。
 
 ボランティアの起源は十字軍にあるという。十字軍の遠征とは、11世紀から13世紀にかけて、ヨーロッパのキリスト教徒が多くのイスラム教徒や異民族を殺した犯罪であった。東洋文明をも敵とした戦争でもあった。
 結局、十字軍遠征は失敗に終わった。その原因は、ヨーロッパの諸侯、宗教的騎士団の綿密な協調を欠いたことと国家と教皇との利害対立。そして、獲得した聖地を継続的に確保できなかったこと。

 世情、きな臭くなってきた。アメリカで起きた同時多発テロ。ブッシュ大統領は国際テロに対する新たな「十字軍」を呼びかけている。
 テロを完全に撲滅することはできまい。騎馬民族の西洋文明国は十字軍の失敗に学び得るだろうか。日本も参軍する勢いだが、米国に言われてやるよりは進んで参加したほうがいい。戦争は、十字軍と違ってボランティアではない、疲れて人々を悲しませる。日本が世界で初めての被爆国であることを忘れてはいけない。
  
 平和の祭典であるオリンピック。そのオリンピックゲームにない競技を集めた国際スポーツイベントがワールドゲームズである。
 ペルーからビリヤードの選手も参加していた。8月25日。秋田ペルー協会ではラモン選手の歓迎会を開いた。秋田市大町・楽楽館。同じビリヤードのメキシコ選手3人を連れてきている。記念品は一人分しか用意していない。
 困った。協会の北島昭事務局長が急遽、記念品2個を用立てた。あと1つ。当方、せっぱ詰まった勢いで、着ていたワールドゲームのボランティアTシャツを脱いで、隣のメキシコ選手に渡した。
 ラテンアメリカ人は陽気で歌が大好き。ペルー国歌やメキシコの歌が会場に響いた。私は昔、キューバで覚えたガンタラメラやゲバラの歌を歌った。彼らはビエン(良かった)という。スペイン語のビエンとは秋田で「エガター」だと教えた。そこで、メキシコのビリヤード選手が心臓病で入院したと聞いた。
 手術費用が400万円。秋田人のまごころ募金で500万円が集まった。メキシコの選手は秋田総合組合病院(坂本哲也院長)での手術が成功し、無事退院された。
 えがった。エガター。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年1月24日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「雪の地域づくり」(1)
★原田健司氏(秋田雪の会運営委員長)

 タイトルが「雪の地域づくり」ですが、最初になぜ雪の会に入ったかという話から始めたいと思います。
 私が、県企業局で水力発電所の
仕事をやっていたもんですから、川の水だとかに関心をもっていました。秋田県の雨量と全国との比較をしたり、秋田県の気象情報は秋田、鷹巣と横手にありますが、雪の多いところは水資源が多いといわれます。
 どうしても4月に雪解け水が多くなります。年間、川の水の量の20%が4月に流れます。この4月に流れる水をストックするのか、
課題となる訳です。雪解け水がなくなった頃に海のほうの遡上が始まってきます。そういうことで過去にもこの時期に雪が少なくて干ばつを起こした例が何回かあります。
 主な渇水年の水田干害面積を私が調べた表があります。そして、主な渇水年の上水道への影響を昭和32年から53年まで調べました。48年には米代川に塩水が入ってくるといった問題があって能代市役所から私に何とかならないかと相談があったんです。
 川の水が渇水になるもんですから、海水が逆流してきます。海水の比重が重いもんですから、底の部分が塩水で、上が真水なんです。
取水口の水を底から取るのではなくて、表面から取ることを考えたらいいのではないかと。これは発電所でもやっているんですが、底から取ると冷たい水が下流に流れて農業に影響を与えます。
 常に表面取水のやり方でやるようにすすめました。

 秋田県の年間降水量は二千_で、全国平均は千八百_、東北では山形県の次いで降水量が多い。これは雪が水資源に大きく関連しているといえます。降水量から蒸発している散量を差し引いた地表水または地下水として利用可能と考えられる水資源賦存量は、平水年で157億d、利用可能な水資源の限界と考えられる渇水年で112億dとされています。
 渇水年というのは、一年間365日流れている訳ですが、、そのうち355日だけは、必ず流れていると。それを基準にしたのが渇水年です。ダムを建設する場合でもこの渇水年を参考にしています。
 秋田県の水利用は、農業用水に最も多く使われています。年間役40億d。ただ農業は反復利用しますので、畑地灌漑とか畜産を加えれば実質は29億dぐらいです。
 で、その水が河川水に84%、ため池などのその他水資源が16%の割合。生活用水は水道から供給され約1億dぐらい。水源別依存割合は河川水が75%、地下水15%、湧水・ため池が10%。
 工業用水の使用量は、年間役1.9億d。河川水が93%、地下水6%、その他水源が1%です。
 秋田県の水資源開発の必要性はそのとおりですが、雪解け水がなくなった時に、ダムから放流してやる。その時に、10年に一回の確率を基準にして計算します。治水の場合は100年に1回の洪水を対象にして、設計を考えますが、利用する場合は10年に1回の渇水を基準にして、ダムをつくりという考え方があります。
 これまで、貯水施設として多目的ダム14カ所あります。建設中が4カ所、農業用ダム・ため池が約1950カ所整備されています。
 多目的ダムが最初に完成したのは昭和28年の森吉ダムです。三菱金属工業が、発電所を作ってその上に県が嵩上げしたダムです。三菱金属工業が秋田市茨島、今の三菱マテリアルでしたが、あそこの送電線を作っています。
 それから、秋田県の多目的ダムということで、目的が洪水調節、不特定、特定灌漑、工業用水、発電等があります。この中で一番大きいのが玉川ダム。これはあらゆる目的を持っており、農業から、不特定、特定から、発電、工業用水。貯水量は全国で10番目、2億5千4百万dあります。このダムの高さは100bありますが、最初は114bで計算したダムでした。昭和46年だったですが、福島県にダムがあってそこに東北電力が参画し、日本経済が上向きにあった時で、その当時東北電力管内の需要が500万キロワット、その一割が用水発電が必要で、だいたい50万dぐらいあれば、東北電力としては間に合う。
 ところが玉川ダムを中心として用水発電の可能力として、どのくらいあるのかその高さを計算しておったら、佐々木知事が東北でも有数のダムだとマスコミにぶちあげてしまった。
 いろいろ研究して建設省に相談したら、100bでいいと。
 当時その20万dは秋田湾開発に使う工業用水として確保していた。ダムというのは、最初に需要を計算しなければ作られないものですから、秋田湾開発はやるのだと知事が腹をくくっちゃって建設のほうを始めたんですが、、工業用水というのは、需要がどんどん下がっていく。大規模な工業用地というのは苫小牧とかが全然だめになってきています。秋田湾開発に日本鋼管が進出する予定がだめになって、さあその水を何とするか。というところに、大王製紙が突っ込んできたものですから、その20万dを回すことになった。 大王製紙はそのかわり安い値段でとああいう契約をしてしまった。そしたら今度も大王製紙が進出しないことになった訳です。そこで20万dをどうするかという問題がおこっています。
 その用水路は秋田市仁井田に県工業用水道事務所があって、そこで出水して、臨海鉄道の脇をパイプで通って、秋田市飯島にある火力発電所まで通っています。
 ダム建設する時に、お金を出して始めて水利権を得る訳です。それは工業用水であれば、通産省が担当、上水道、生活用水であれば厚生省が担当です。
 私は一時、その50万dを男鹿南秋地域の八郎湖の水質改良のために使えないかと、そうしたら通産が目的外使用とのことでだめですよと。その当時、男鹿南秋が水不足でして、米代川から八郎潟に入れようと、馬場目川にダムをつくる予定でした。これをコスト計算しますとやはり、雄物川からもっていったほうが一番いいと私がまとめた経緯があります。
 今でもそう思っていますが、20万dを使うには秋田市の水道局が金足まで水道を引っ張っていけばいいんです。それを延長して男鹿南秋の水不足の解消に役立てられます。
 男鹿市の水道は八郎潟の残存湖を水源にして飲んでいるんです。
 天王町は地下水が豊富ですが、宅地開発が盛んに行われたんですが、下水道が完備されてないので、下水道が地下に浸透して、地下水が汚濁しています。
 大潟村は県営の萩形ダムから馬場目川に変更して、杉沢発電所を作って水を持ってきてます。杉沢発電所は償却年数も過ぎてしまって、地震か洪水が起きて発電所がストップしたら、大潟村の水はますますだめになる危険性をもっています。ですから、大王製紙のためだった20万dはそういう視点で考えなければいけません。

 県の企業局でつくる発電所は発電では完全に儲かるようになっています。それを観光や、土地造成にまわしています。
 次にダムの種類ですが、アーチダムと重力式コンクリートダム、フィルダム、これは堤体材料として岩石、砂利、砂、土質材料を使用するダムで、秋田県では皆瀬、田代町の山瀬ダムがあります。アーチ式は秋田にはありません。地質がよくないとできません。黒部ダムはアーチ式です。
 多目的ダムというのは、水を治める方と使う方の両方ある訳です。 洪水は6月末から9月頃までが期間で、この間はダムを開けておかなければいけないんです。ですから、秋にダムを観光に出かけた時には赤い土がダムの底に見えます。あれは洪水のために上げる訳にいかないんです。これは制限水位といいますが、制限水の下でもって工業用水だとか上水道、農業用水として使うわけです。洪水期間が過ぎると利水権者は自由に使って結構なんです。
 それがそれぞれのダムでどういう事業が入っているかで、ダムの水の使い方、運用計画を立てます。
(続く)
  我青春風来記(131)
     早海三太郎
  下井草(4)

 毎日グラフの記者に三太郎が話したキューバのことが次のように掲載されてつづく。
「カーニバルは夜、始まる。革命記念祭典、といっても、カストロの演説だが、それは夕方5時半から、町はずれの革命広場で行われた。夕方とはいえ、摂氏36度の暑さ。しかし、広場は、カーニバル見物をかねて全国から集まった10万人の大聴衆でうずまった。
 高い壇上にあがったカストロ首相は、夕陽を背に力強く語る。あるときはアジリ、あるときは聴衆に直接話しかける。そのたびに、観衆は立ちあがって、
熱狂的な拍手を送る。演説は、なんと3時間半に及んだ。日は、もうたっぷりと暮れていた。
 革命後8年目。まだキューバは試行錯誤の段階にある。しかし、若者が新しい国造りの理想にもえ、真剣に仕事にとりくんでいる。その情熱が、わたしには羨ましかった」三太郎の名前入りの記事が毎日グラフに載った。記者の質問に答えただけなのに、自分が書いたように掲載されたのは何んだか、面はゆい。
 さらに原稿料までもらってしまった。下井草のアパートに毎日新聞から郵便が送られてきた。中に郵便局の振替が入っている。それを持って新宿駅西口にある新宿郵便局へ行った。金額は数千円。外へ出たら雨になっていた。小田急デパートで傘を買った。
 電車で高田馬場へ行き、中南米研究会同期の友人を電話で誘い、駅前の浅草バーで飲んだ。生まれて初めて頂いた原稿料はそこで消えて、傘も店に忘れてしまってた。
 秋田魁新報社の文化部長井上隆明さん(前秋田経済法科大学長)からもキューバから帰ってきたら、何か原稿を書いてくるようにいわれていた。キューバに行く前、新聞社を訪ねた時、井上先輩は「これからは、北ではなく、南だ」といわれたのを覚えている。

 9月初め。秋田行き寝台列車で北へ向かう。寝台車の中で原稿用紙を開いた。せっぱつまって書くのは全く、昔も今も変わらない。(続く)
  呑 風 日 誌 抄
 8月1日(水)課対抗野球試合。雄和球場。対工業技術センター。本職の三塁を守って攻守、満塁で二塁打。7対2で快勝。山王・風月で美酒。大館保健所で一緒だった高橋新ちゃんと館で二次会。
 2日(木)彌高会館。秋田ウラジオ会総会。佐藤忠作会長から環日本海、野菜の話をたっぷり拝聴。
 4日(土)天王町・出戸浜海岸。昔、佐藤幸之助さんと始めた秋田地区日中友好協会恒例の日中友好地引き網大会。海を知らない中国の留学生達の為に始めたことだが、この日、波が高く、捕れたのはくらげだけだったらしい。
 昼、秋田パークホテル。松露探検隊7人の作戦会議。松食い虫防除と松露栽培の二兎追作戦。炭博士鈴木勝男さんが炭俵3俵と坂本賢二博士培養の松露菌十瓶を新屋海岸に一カ所、飯島方面二カ所に炭と松露菌を埋める。さて、来春、早ければ今秋のお楽しみ。
 6日(月)アキタニューグランドホテル。秋田稲門会役員会。ADビル地下のぽらんの6日会へ。岸部章一先輩と雄和町の伊藤巧一さん、陶芸家の松本健司さん達と光る町づくりの話。
 9日(木)ぽらん。同志社大学人力車友の会一行11人の歓迎会。1日に新潟から人力車を引いてきた学生達に感激する三浦義明さんの配慮で、同志社OBの北嶋昭氏、千秋資材の大歯省三社長、明和会理事の佐々木一男氏達が集まってくれた。学生達はこれから青森、盛岡を回って仙台へ向かうという。バングラデシュでリキシャに乗った経験から、東南アジアで人力車対抗をやれと勧める。学生達は皆、元気で反応が早くて好感。
 10日(金)大分と秋田の縁を、結んでくれている札幌の八木美智雄さん。大分・コツコツ庵のTシャツ、宇佐市の平田さんの数珠をお土産に持ってきてくれる。我が家でじっくり酒。
 11日(土)秋田駅前・総合保健センター。ワールドゲームズボランティア研修会。15日から27日までアトリオンウエルカムセンターでようこそ秋田のボランティア。在秋田市のアメリカ人漫画家ティム・アーンスト氏の個展。私のホームページに彼の作品を掲載する。メトロポリタンホテルで八木さんとあゆかわのぼるさんを待ち、添川の工藤幸彦家へ。芝生の庭で、昨秋、全国職人学会の裏方で頑張ってくれたバウハウスの森川恒さん達といわば同窓会の生ビール会。
 12日(日)中通小学校にて早朝野球練習。500歳野球チームで2塁を守り、打撃も好調
 13日(月)大内町の実家で墓参。
 14日(火)昼。毎日新聞の三木賢治論説委員を大内町の道の駅で待つ。早大生の長男長女と一緒。恩師の佐々木勝敏先生宅を訪問。夕方から美佐子食堂で恒例の中学同級会。恩師・佐々木秀三郎先生も出席され、大勢集まる。三木記者が再度我々同級生を取材して本にされる。同級生87人の軌跡をたどってまとめた「都会に空はにごってた」(毎日新聞社発行)から20年近くたった。
 15日(水)ワールドゲームズ秋田・ウエルカムセンター(駅前アトリオン)で今日からボランティア。館内でお揃いのTシャツをきて、イベント案内役。クロアチアの女子選手を茶道コーナーに案内。クロアチア語で綺麗はリエパ。
 17日(金)割山町町内会副会長の金和雄さんから散髪。本荘の現代の名工・加賀屋利雄氏の話。
 19日(日)熊谷市の市会議員で学友の栗原健昇がワールドゲームの視察。大江戸ラーメンの後、陸上競技場でのファストボールの試合を観る。げんこつバレーで迫力あり。協会の理事長中村泰道先生から説明を受ける。午後3時から遅番でウエルカムセンターへ。
 20日(月)松村謙三先生の命日に毎年モロコシを送って頂いている石川商事の石川善春社長へ。
 昼。アキタニューグランドホテルにて、秋田稲門会会長・副会長会議。支部会長に小玉正己大先輩から高齢を理由に固辞され、長門伸一会長の推薦を決定。
 21日(火)大内あすなら郷舎の小林新君と、山王・八条、川反・たか乃家、横町のドラゴン。
 24日(金)銀線細工伝統工芸士の進藤春雄さんからペンダント.。
ペルーのビリヤード選手へ進呈。
 ふるさと塾。角館商工会の門脇重さんから角館町のユニークな町おこしの講演。二次会がコットンクラブ。武藤邦人ママが商工会議所青年部のファミリーマラソン担当。参加する約束をしてしまう。
 25日(土)午後7時から割山集会所。町内の納涼祭。演歌師の山本実さんから来てもらい生オケ大会の司会。大町の楽楽館へ。ペルー協会主催のワールドゲーム参加選手ラモンの歓迎会。銀線細工を進呈。メキシコのビリヤードの選手3人も来ていて、昔覚えたチェゲバラの歌を歌う。二次会が川反・芳乃野。秋田ボランティア活動の草分け菅原雄一郎氏が先客。
 27日(月)山王の民謡酒場三味線茶屋すがわら。ワールドゲームウエルカムセンターでのボランティア仲間の打ち上げ会。17人が集まる。皆さんお疲れさまでした。
 30日(木)昼、大江戸ラーメン。シンガーソングライターのケーシーランキン、マネージャーの三浦義明氏と。県立美術館の素心会絵画展へ。佐々木青洋先生、宮下正弘先生の絵。ホームページに掲載したいもの。夕方。県立プールでケーシーランキンライブ。打ち上げがむつみ造園土木の花庭巧房にて、ギタリストの前田達也氏も。
 31日(金)夕方、泉彌高神社の例祭。終わって、添川のさとみ温泉へ。大内の小林新氏、本荘市石脇にある石川神社の現当主、住友重機勤務の石川宗介氏と一献。