ふるさと呑風便  2001・8

     3 字 
   ☆☆☆☆☆☆

 第9次南極越冬隊員だった秋田県立大学の菊地勝弘先生のお話。昭和基地から家族に電報を打つにも字数の制限があったらしい。日本で帰りを待つ新妻からの三文字電報は有名。万感胸に秘めての「あ な た」
 女性の越冬隊員が登場してからは、新妻電報の3字は浮気しないでの「あ た し」
 
 毎日新聞論説委員の盟友・三木賢治氏がコラム「余録」を書くようになった。嬉しい限りである。
 後輩の毎日新聞秋田支局長の七井辰男氏にその話をすると、三木先輩が羨ましい、余録を書けるということは新聞記者の誇りですよと。そして、「余録の最後は必ず3字空けられてます。これは長いこと余録を書いている諏訪さんの流儀で、他の人は3字空けてはならないんです」と話す。
 その三木記者からいいネタを呑風便から貰った、と余録の原稿を書く前にメールをもらった。 
 彼は20数年前、秋田で新米記者時代を送った。私の中学同級生を取材し、「都会の空はにごってた」という本を毎日本社から出版された。
 この夏のお盆に、あれから20年後の我々中学同期生を取材に秋田に取材にきている。
 7月21日付け毎日新聞の余録に次のようにでていた。

 秋田市の桝谷靖恵さんが、隣町の特別養護老人ホームにいる今年白寿の母親に、はがきを出すのを日課にしてから3年がたった。雨の日も吹雪の日も欠かさない。土曜は休むが、代わりに日曜は見舞いに行く。夫の健夫さんが経営する布製品販売会社で経理の仕事を終えて帰宅したら、急いではがきを書き上げ、自宅の50b先にあるポストに投かんする。最終の郵便収集時刻に遅れた時は、市街地の郵便局まで車を走らせ、翌日の配達に間に合わせる。
 「バラが咲きました」「今日パーマをかけたの」「甘いスイカを持って行くわね」・・・。身の回りのたわいないことを1a角ほどの大きな字でつづる。時には写真や絵も付ける。喜ばれるのは、家族や親類にまつわる昔話。題材に窮したら、唱歌の歌詞を書く。一日50円の親孝行。         (後略)
 呑風便の編集方針は面白くて役に立つ、である。呑風便に書いた一日50円の親孝行の話を三木記者はしっかり読んでくれて、余録で紹介してくれた。お陰で桝谷さん宅には全国から感動したと、手紙や電話が殺到した。手紙の親孝行が全国に広がったらもっと役に立つことになる。
 真似しようにも親がいなければ連れ合いの親がいよう。時々でいいから50円切手をはって、手紙を出してみよう。
 桝谷靖恵さんのご主人の健夫さんは、奥さんにならい、京都のお孫さんに絵葉書を出すようになり、それには育児絵日記の返事が届けられる。
 ちなみに私の名前は3字づつの6文字。名簿等に掲載されると一人、はみ出してしまう。名前からきて3と8の数字が好きで、現在2つの野球チームに所属しているが背番号が8番と38番。モーツアルト広場の会員番号も「交響曲二短調第38番プラハ」である。最もこれは偶然。
 毎日新聞の余録を読まれて最後に2字空いていたら三木論説委員のコラム。当方のは好きな数字に致します。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年9月28日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「花火のまち大曲をどうする」2
★小西亨一郎氏(大曲花火倶楽部)

 今から4年前は大曲の花火大会の枡席は6500、十年前は5000、去年が8000、今年が1万なんです。十年間で倍に増えた。1万枡というと6万人が枡席に座ります。平成不況が八年から始まったのに、それから倍々のように増えていったのが大曲の花火なんです。新幹線の特別車ができているのが普通になってしまいました。
 3年前からNHKが毎年連続、ハイヴィジョン、衛星放送で生中継で二時間半にわたって全国中継されました。これで完璧に全国区になりましたね。大曲の花火のライバルである長岡等々が非常に悔しいと。なんで長岡がNHKの日本の祭りに選ばれないかというと、スポンサー絡みなんです。全部がスポンサー花火です。NHKから選ばれるとすると大曲か土浦しかないんです。そういうからみで土浦からもクレームがきた。
 日本の花火大会で「内閣総理大臣杯」が初めて授与されたのが、「大曲の花火」なんですね。
 1992年に開催された「国際花火コンペティションin大曲」創造花火の優勝者(今野)に授与された。そして、今年から又、総理大臣杯が大曲の花火の総合優勝者に授与されるんです。これから毎年、永久に決まったんです。そこで、大曲の花火は土浦に塩を送ったんです。つまり、総理大臣杯は土浦と大曲だけにしましょうと。あとはいっさいだめ、加藤鉱一が総理大臣になっても鶴岡とか酒田の花火に総理大臣杯はつけない。大曲と土浦の花火のように伝統のある歴史を数える花火大会だけにしましょうと。
 そうして、3者が共同して、総理府、日本煙火協会、大曲市長・土浦市長が手を結んだんです。ますます、権威のある花火競技大会になっていくんですね。

 花火大会がここまできたのは、はっきりいって、商工会議所の商人のたまものです。市役所が主催に入ったのは2年前からです。
 それまでは商工会議所だけでやってきたのが大曲の花火です。スタッフから完全に手弁当でボランティアです。1998年から市役所の方々が交通部として応援体制を全市あげてとってくれました。
 商工会議所の所長である小西龍一さんがほとんど段取りをしてます。彼から花火をとったら何にも残らないというほど、クレージーな方です。 
 佐藤勲さんという、創造花火の産みの親、今は亡くなられた花火狂だった、ほんとに花火が大好きな方々が大曲の花火をつくってきたのだと思っています。花火が好きで好きでたまらない、そのクレージーさが大曲の花火の原動力となっています。
 ボランティアの方々は花火を見てない人が多い。全然見れなくなってきました。運営面では近頃たたかれるようになりましたね。それでも、今年はすごく予算を増やしました。トイレも去年より120%増、去年まで五百基、今年は六百基ですよ。48時間警備に何千万をかけています。こんなイベントがありますか。日本全国で。(笑い)
 先の読売の記事は、事故もおきてないのに悪意に満ちた記事でした。秋田支局のデスクの方が書いたようですが、酔っぱらっちゃって大曲のセンターの総務課長とやっちゃった、ふざけるんじゃないと秋田のことをよく知らないのがペンの暴力をしたと我々はとらえています。「大曲の花火、帰客大混乱、花火客、帰りに事故 3人死傷」と。そして小さく、大曲花火、小幡煙火店優勝云々。これは私情で書いた侮辱的記事だったんですね。魁新報の大曲支局長も不快な記事だったと怒っていました。私らも涙がでるほど不快な記事でした。市役所職員全員が手弁当で交通整理、全員声を枯らして一生懸命がんばっているんです。商工会議所青年部も全員、花火を見ないでボランティアです。私だけ一人、ひんしゅくを買いそうですが、お前は花火を後生に伝えなければいけないからいいと、花火師との交流がつながらないからお前は花火を見ろといってくれています。だから非常に嬉しく思っています。
 確かに運営面では批判もあります。じゃあどうしたらいいのか。秋田民報という大曲の新聞があります。逆に大会本部からもいわせてくれと、役員がこの新聞にコラムを書いた。揶揄ったような文章を書いた、ここまで面倒を見きれないというのが本音です。
 大曲市長のところにも相当電話がくるらしいんです。テント客が車で封鎖しているから開けろと、マナー面で悪い客が多いのも事実です。市役所職員全員が48時間体制で声を枯らしてがんばっているのもかかわらず、心ない方々もまだまだ多い。弁解かもしれませんが、大曲の花火としてはこれ以上増えたら、限界の段階までなっています。
 さらに翌日の読売の記事はひどかった。「花火が終わったらゴミだらけ」この記事は大曲の花火を知っていない。ゴミは持っていってもらいたくないんです。次の日に何千人のボランティアが午前中にゴミ掃除をするんです。残った折り詰め弁当を持って帰って食中毒になったら困るんです。ゴミは会場に置いていってくださいとアナウンスするんです。ー終わってみればゴミの山、実行委員の呼びかけ実らずーこれは悪意の満ちた最低のタイトルワーク。市役所職員、近所の人々、商工会議所青年部のボランティアの人々の努力で、一夜にしてクリアというのが流れなんですよ。ほんとは翌々日なんか、ものの見事にきれいになっているんです。秋田の祭りを踏みにじった嫌らしい記事です。大曲の人は人がいいのですが、来年はマスコミの方々に警告を何らかのかたちでやります。黙ってはいません。商工会議所や花火倶楽部でもまとめて、実名で私の名前で抗議をしたほうが大曲の人もスカッとくるんじゃないかと思っています。
 やっぱりあのバカがいったと(笑い)大曲の人は納得するんじゃないかと。(笑い)

 台湾での大曲の花火の話。乗りかかった船で私は行かざるを得なかったんです。
 台湾での花火は、1997年に台湾の方との話し合いで決まりました。大曲青年会議所と台北郊外の中湾青年会議所との話し合いです。彼らは何回か大曲の花火を見に来てたんです。こんな素晴らしい、芸術的な花火は見たことがないと、私が台湾に行った時に、むこうの国会議員でJCメンバーであった趙永清という方が、小西さん、大曲の花火を台湾でやれないかという問いかけに、やりましょうといってしまって、握手したんです。(笑い)
 帰ってきて大曲青年会議所で問題になりまして、それは口約束で契約してきたんじゃないよなと、いずれ台湾で大曲の花火をやりたい、いくらかかるのか。理事長をやった翌年に、責任とって国際交流会議の議長をやれ、花火の調印をほんとにやれということで、98年に中湾青年会議所と仮契約を組みました。我々の国際交流会議が台湾に行って、向こうの市長とか色々な方々と会って、現地調査して、翌年99年に行ったら、花火のために整地しましたと、素晴らしい河川公園になってました。
 これは本気だなと、正式契約をして、99年の大曲の花火に台湾の国会議員や県会議員が相当押しかけて来ました。で、優勝した今野君の創造花火・カルメンを上げてくれとか要望がありまして、そういうふうにすごく盛り上がった時に台湾大地震があったんですね。
 一時、中止になるんじゃないかと慌てたんですが、台湾側でこんな時に台湾人に芸術的な花火で元気づけてくれないかとうんと前向きなんですよ。一時しぼみかけたのが、さらにスポンサーが向こうで集まったんです。あの国はすべて前向きに考える国。ほんとは12月31日の夜にやる予定だったんですが、大地震から100日目にあたるので、1月1日の8時から2時間、大曲の創造花火が台湾の夜空を彩りました。これが第一回でした。これが台湾全土で報道され、「台湾人に勇気」と第一面にばんばん書いてくれたんです。
 今度は2月、3月にスポンサーをいっぱいつけるからまたやってくれといわれました。台湾人にとっては大曲の、日本の花火が鮮烈だったと初めて認知されました。
 今度は日系企業が頑張って金を集めてくれました。すごい金額が集まったみたいです。大イベントに成長して、第2回目は台湾の建国記念日の“国慶節“にあがるんです。今回も李登輝さんと会ってきました。我々名も知れない者と一時間も会見してくれました。台湾研究所といって三千人の職員が勤務している民間のシンクタンクの総裁、名誉顧問をされてまして、そこでお会いしました。 文化大使として、花火をやってくれてありがとうといって頂きました。ほんとに緊張しましたね。
 日本人はもっと誇りと自信をを持つべきだといわれました。秋田のことも詳しく「あきたこまち」を知ってましたし、秋田県は玉川温泉が有名だとペラペラの日本語をで語ってくれました。
 私共も、大曲の花火につよい誇りを持ってますし、これからも世界に大曲の花火を自信をもって打ち上げていきたいですね。それが花火のまち・大曲のまちづくりにつながっていくと思っています。
   我青春風来記(130)
      早海三太郎
  下井草(3)

 毎日グラフの記者は三太郎の話をメモしている。キューバの7月26日記念日に撮った写真の説明をした後、「原稿は書かなくていいのですか」と聞くと「いいですよ、こっちでやっときましょう」
 後日、毎日グラフの「フラッシュ67」欄に登場。八年目の祭典 キューバの情熱と題し、2ページにわたって、カストロと、10万人の群衆の写真が掲載され、三太郎の名前入りで、話したことよりまとまった内容で掲載された。
「わたしが、キューバの海外友好団体ICAPの招きで、ハバナを訪れたは七月二十四日であった。同二十六日の革命記念日の祭典に出席するためである。全世界から、約三百人の若者が招待された。祭典は、毎年ちがった場所でひらかれる。ことしは、キューバの東端サンチャゴデクーバで行われた。この町こそ、一九五三年、カストロがバチスタ政権打倒ののろしをあげた場所である。この蜂起は失敗に終わったが、それから六年目の五九年一月、革命軍はハバナへ勝利の入場をすることになる。七月末は、ちょうどこの町のカーニバルの季節。カストロが蜂起したのも、その祭りの騒ぎを利用しようとのねらいであった。」(続く)
 呑 風 日 誌 抄
 7月2日(月)秋田市職員会館。支部役員会にて石川錬治郎支部長の辞意表明。秋田稲門会総会。今年度事業は設立90周年記念誌発行。有望な新入会員多いが野球をやれる奴は少ない。来夏、大学グリークラブの公演主催。
 3日(火)河辺町加藤病院の敬愛する加藤征夫先生と日本語の話。向かいの戸島球場にて、課対抗野球試合。対リハビリセンター。一塁を守り、二安打し快勝。
 館にてイギリスに帰る国際交流員のクレアとウイリアムの壮行会。お世話になった教育委員会の能登谷氏、協和町の山谷さんも出席。
 4日(水)秋田市八橋・西来院。秋田戊辰の役戦没仙台藩士の慰霊祭。午後2時から仙台藩士がさらし首になった大町5丁目橋の川反観音像前にて川反先人慰霊祭。雨が止む。仙台藩志会の伊達篤郎会長一行を佐竹家菩提寺天徳寺へ案内。前田亮雄住職と恩讐を越えて歴史的邂逅であった。
 川反先人慰霊秋田委員会の
直会。秋田乃瀧。観音像の台座に彫られた歌を詠まれた歌人の瀧廣明社長も出席される。
 二次会は観音像の寄贈者勘左エ門とたかの家へ。5月に自殺した盟友の佐々木勇氏と中学同級生・佐々木喬氏の店。勘左エ門と勇の偲涙。喬氏の親戚・深井、中村の仲良し両夫婦を紹介される。
 6日(金)県庁第二庁舎。統計研修会。秋田県立大学の菊地勝弘教授の講演「観ようと思えば見える」東京で寿司屋をやってる小堺一機の父親と南極越冬隊で一緒だった先生。小生が秋田ふるさとづくり研究所として出した各市町村の地域づくり指標の講演。
 7日(土)朝、秋田総合農林事務所の相馬氏と新屋浜へ。松露の栽培予定地を探す。その後、秋田湾の松林へ。松露探検隊の隊長格の佐藤孝之助さんと松露取りの名人・中川勝雄さんが栽培予定地を案内。
 10日(火)仙台の殿様・伊達篤郎先生から調査依頼されていた佐竹家に北海道の伊達家から嫁入りの件。秋田歴史を楽しむ会の伊藤武美会長か手紙。系図を調べたら角館町の佐竹北家に嫁入りしていることが判明とあった。
 11日(水)武産塾道場へ。合気道の稽古が2回目。横山館長が釣ってきたワラサを秋田大学合気道部の学生や門人達と頂く。
 13日(金)大町ビル。秋田木炭研究会設立記念の集い。
 90歳の炭博士、岸本貞吉先生の講演「いま、木炭はなぜ必要なのか」フォーラム「木炭を知り木炭を生かす」
 パネラー・鈴木勝男会長、佐藤清太郎副会長、炭を使う西目りんごの佐藤雄己氏他。
 15日(日)割山町町内会総会。懇親会で肥後朝顔の種を大竹文化部長夫人にやる約束。
 17日(火)千秋会館。本荘高校先輩の工藤昇県代表監査委員の慰労会。飯塚明秋田市教育長が来賓。小松正夫文化課長達と二次会が外野席。
 19日(木)県立球場。本荘高校対十和田高校。従兄弟の息子斉藤伍也君が捕手で活躍。5対4で勝
 21日(土)八橋球場。ネット裏で佐々木正人夫婦と観戦。対男鹿工業には母校が10対3でコールド勝ち。金足農業と秋田商業戦も観戦。夜、毎日新聞の三木賢治論説委員会から呑風便にのった1日50円の親孝行のネタを頂いたとメールが届く。
 23日(月)近所の豊寿司にて母校後輩の佐藤修(商工会連合会)、堀川頌彦(秋田宅建センター)の両氏と一献。
 24日(火)大町・いずみ。七井辰男毎日新聞秋田支局長、中学野球部後輩の佐々木博君と久しぶり。三光不動産の竹萬重幸秋田支店長にグリークラブ開催の船頭役を依頼。
 25日(水)山王・館。ラグビーの吉田典雄氏、秋田市役所ラグビー部の新出監督、毎日新聞の浦和高校ラグビー部出身の野口記者と。二次会が山路。新出監督歌も巧いわ。
 27日(金)ふるさと塾。川反塾舎。「水の郷あきたをつくる」秋田源流釣友会の菅原徳蔵講師。白神の源流に目覚め、秋田を郷の里にと頑張る貴重な県職員。
 29日(土)神宮球場での学徒動員雨の行進に参加された秋田市寺内の早田貫一先輩から話を聞く。自分の一生でたった一ついいことをしたと思うのは、中国で終戦時に小隊長の時、二人の朝鮮兵を乾パンをやって逃がしたことだといわれる。
 31日(火)秋田駅前・人情酒場久保田。秋田ふるさとづくり研究所主任研究員の生ビール顔合わせ会。秋田公立美術工芸短大の山本毅教授他。
 秋田木炭研究会の反省会会場の大町ビルへ。