ふるさと呑風便  2001・7月号
     秋田蕗
   ☆☆☆☆☆☆
 宮崎県佐土原町石崎浜荘。宮崎市の北、太平洋岸にあるこの国民宿舎の玄関先に一本の山桜が植えられている。
 これは佐土原町地域づくりシンポのパネラー達の記念樹である。平成5年の冬、町職員を対象にした「地域振興会議」が石崎浜荘で開催された。8人のパネラーはほとんどが佐土原町出身の方々。例外は私と、宮崎県観光課長の長沼武之氏の二人。いかにして町に人を呼ぶかというテーマで、佐土原町にアトリエがある画家がいわれる。「東南アジアからくる留学生達が帰国する前に、アトリエの庭に木を植えてもらいます。そうすると彼らは何年後かに自分の植えた木を見に来ます」

 早い。それを聞いた東京在住の元高校校長先生が提案された。「パネラーから一万円を出してもらって、町に託し、記念の木を植えましょう」

 佐土原町は鹿児島・島津の支藩で、天皇陛下の妹・島津貴子さんは現佐土原藩主の弟夫人にあたる。復元された佐土原城を案内された後藤典夫町長(当時)は、歩きながら私にいわれた。「協和町との姉妹提携を近く結びましょう、議長も賛成してますよ」
 会議後、観光課の戸敷正さんがマイクロバスで町を案内してくれた。畑の中に気になるビニールハウスが至る所にある。戦前に沖縄の伊良部島からきた人達が育てた伊良部百合とウナギの養殖場。伊良部百合は年2回花を咲かせる。
 後日、戸敷係長から伊良部百合の球根を送ってもらい、百合のまちづくりをすすめる秋田県由利町に託した。

 平成13年6月3日、協和町町民センター。宮崎県佐土原町・秋田県協和町有縁交流提携の調印式が執り行われている。佐土原町の新町長は、あの戸敷正氏である。彼は元町長の後藤さんと何度か協和町を訪ねている。戸敷町長は壇上でのあいさつの中で、「この有縁提携のきっかけは秋田県の佐々木三知夫さんと宮崎県の長沼武之さんが、鳥海山の山頂の山小屋で、協和町で亡くなられた佐土原藩士の遺族を捜そうと話したのが最初でした」
 調印式の後、雨の中、町民センター前に佐土原町の木である山桜が5本植えられた。植え終わってから戸敷町長と握手。祝賀会で彼は私に語る。「町長選挙に出馬したのは、ここ協和町との交流のことがあったからです」
 後藤元町長を破った町長は協和町との有縁交流に関心が薄かったのだ。
 佐土原藩士遺族探しの窓口役だった協和土建の茂木義次郎社長宅。祝賀会の二次会に長沼さんと招待された。茂木さんは何度も佐土原町を訪ねている。社長を私に紹介してくれた下関の佐々木耕二大林組所長も必ず佐土原に同行される。茂木宅には佐土原町で鰻やをされている満添さんもおられた。秋田蕗を店の前に植えたいといわれる。

 後日、あの佐土原町でみた鰻養殖場で育ったであろう鰻が送られてきた。
 私は、秋田市仁井田の秋田蕗農家、熊谷清勝さんから頂いた秋田蕗の株根を送った。そして、後藤元佐土原町長に手紙を書いた。「後継者の戸敷さんは立派な町長になります。近く満添さんの店前に秋田蕗が大きく育っていくでしょう」
 今度、佐土原町の山桜と秋田蕗にも会いにいきます。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年9月28日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「花火のまち大曲をどうする」
★小西亨一郎氏(大曲花火倶楽部)

 全国で″花火の街といわれるところは三河の岡崎、長野、江戸(両国)、茨城、秋田の大曲だと思うんです。大曲の花火も佐竹候が茨城の常陸太田から来るときに六郷町で、雄物川が洪水になりまして、その時に火薬職人が、地元の綺麗な娘と火遊びしちゃった。そして、六郷にずっと住んでしまった。それで雄物川沿いに花火やさんが広がった。六郷から神宮寺まで170軒の花火屋さんが昔あった。それが江戸中期の頃、それがだんだん淘汰されて、今は大曲近辺に5軒です。その親方に集約されてしまったというのが流れです。小松煙火店も5代目です。今野煙火店も4代目です。そういう意味で歴史的にはながいですが、あの火遊びが大曲・仙北に″花火″という文化をもたらしたんですね。(笑い)

 いろいろ文献からチェックしますと、これはあくまでも小西説なんですが、六郷で花火職人がいなくなったというのは事実なんです。
 秋田県の第一号の花火師として火薬職人の免許を与えられたは、実は六郷の大久保さんなんです。大曲ではないんです。六郷なんです。そういうゆかりの者が六郷に潜んでいたのです。しかも上手いんです。その大久保家というのは、あまり前面にでないので有名ではありませんが、、先祖の血を引いて上手な花火師です。このような学説を大曲ではつくっているといわれていますが、花火ロマンスとして伝わる話ではないかと思っています。

 この話はついに、大曲の花火のガイドブックに書かれまして、ホームページにも大曲の花火の由来としてすっかり書かれてしまいまして、公認になっちゃったんですね。歴史なんていうのはこんなふうにつくられて、できていくんじゃないかというのが最近の思いです。
 今、秋田の大曲の花火にはウリが多いんですよ。全国の花火大会と違って大曲の大会はとても注目されています。
 今、大曲界隈には小松君、今野君、新山君、久米川君の4人の若手花火師がおるんですが、彼らは花火師の誇りをもって、生まれた頃から花火師になるという意義をもっています。

 例えば、小松君は、岩手大学出身ですが、体育会系で抜群のリーダーシップを持っている。若手花火師の間でリーダーなんですね。また、小松煙火店は東北でも1、2を争う売り上げ規模を持っている。営業プレゼンがうまいんですね。今野君は、花火屋の大学、火薬工学科がある福井工大で火薬学を学んでそうとう優秀な成績で卒業しています。花火を科学的にアプローチした男です。三河の岡崎の磯谷花火店にいっては、東工大で花火の空中浮遊の論文を書いた者もおり、花火職人の勘とかじゃなくて理論でアプローチし始めて、以前とは雲泥の差くらい勉強し、誇りをもって商売を継いでいます。 今野さんの場合は、世界一の型物師、英語のABCを出したり、数字の1、2、3を出したり。花火というのはどっから見ても同じ形にならない、花火というのは回転しながら上がりますから、同じ形にするのは不可能なんです。それを上下左右対照に花火の中にインプットしてできる世界一の花火師なんです。ディズニーランドの花火は彼にしかできません。完全にラスベガス型で演出にかけては天才級です。

 そういう特徴をもった花火師が4人いるんです。新山君の場合は鳴り物、いわゆる日本の古典派、日本一の花火の師匠長野の青木さんの所に門下生としてはいって4年間、彼の大学は青木さんなんです。割物だったら大曲の新山といわれます。
 一番若い大曲火工の久米川君、俺は芸術で勝負してやると大阪芸術大学にいった。彼も将来花火屋になると色んな勉強をしています。
 大曲にはこんな素晴らしい若手花火師が4人もいるんです。

 彼らにしかできない道を制してやろうと、自分の領域をもたないと生き残れない、同じような花火をやったんでは勝てない、全部個性をもった花火屋道を追求しています。ですから、我々、花火の見方もこういう分野、こういう花火だったらこの男だなと、非常に面白い展開になっています。全部が20、30代ですから、これからの大曲の花火は結構そういう意味では明るい感じがします。

 彼らは小さい時から花火屋としての誇りを持って、自慢だという意識がこれからの大曲の花火が永続する最高の要因だと私は思っています。
 女性の花火師もいました。久米川君の姉さんでしたが、彼女は関東火工に嫁ぎました。全国でも大手の花火会社ですが、インターネットで愛をつかめて結婚しました。そのきっかけとなったのが、我々花火狂の会、大曲花火倶楽部がやっている3月の新作花火コレクションです。それが一つの縁でした。
 大曲花火倶楽部は3度の飯よりも花火が好きな連中が集まりして、これは大曲市だけじゃなくて、県内外約70人ぐらいの会です。
 1992年から、30社の若手花火師、我々は花火作家といいますが、若手花火作家の登竜門として、発表の場として、3月に最も難しい小玉15発、4寸が10発、5寸が5発の中で、テーマに会わせた花火を飛ばす。そのような大会は夏の大会と違って、入れ替えがあります。半分が入れ替えです。成績のいいとこが残留、成績の悪いところが翌年来れない。大変シビアな大会でして、花火屋さんも真剣に取り組んでいます。
 この花火大会の面白いところは花火屋さん自らがアナウンスメントします。ステージに上がって、自分の花火を上げる前に審査員、観客に向かって、「こういうコンセプトでこういう花火を出します。こういうふうに展開できたら拍手をしてください」といってから打ち上げます。来年で10回目になります。私は最初から運営部長としてやってきました。
 予算はバブルの頃まで1200万ぐらいになりました。市はそっぽを向いています。場所だけはありがたく貸して頂いてますが、ファミリースキー場です。全く行政の力を借りずにやってきました。一口20万円でやってきました。これは花火大好きの大曲ではないと出さないんじゃないかと思います。スポンサーになってくださった方々は、やはり花火が好きな方々です。「20万でこういう大会が継続できるのであれば、うちも苦しいけれども出すよ」といってくださる方が多いです。お祭りでも寄付しない方でも花火が好きなために出して下さいます。ほんとにありがたく、スポンサーと花火屋さんには顔向けできません。花火屋さんが来て説明して、スポンサーとの交流会で、朝まで飲み明かす。朝まで花火の話なんです。それで非常に花火屋さんと仲良くなりました。彼らとは必ず夏に再会します。

 お陰で全国の花火屋さんと知り合いになりまして、1992年に花火カレンダーを作りました。一万五千部強を作り、全国の花火カレンダーのシュアの8割がうちです。一部千円以上で売っています。とうとう趣味が高じて会社に花火ライブラリー事業部をつくってしまいました。
 ドイツに行った時にジュッセルドルフ七百年祭が雨で中止だった時、1988年でした。その年にある花火屋さんが、小西さん、誰かいいカメラマンを知りませんがとなり、私の友達を紹介し、その時20何人の花火師が集まって、カレンダーをお前の所で作るかとなったんです。それが瓢箪から駒で、1992年に初めて作りました。あくまで芸術にこだわって今までやってきました。
 これまで全国の花火大会に行くときに家のものにも気を使ってましたが、カレンダーだけでなく、花火あられを開発したし、花火ボトルというお酒も開発しました。大曲では花火グッツはうちの専売特許になってしまし、それが商売として順調で、年々順調に伸びています。ですから、最近はどうぞいってらっしゃいといわれます。(笑い)(続く)
  我青春風来記 (129)
   早海三太郎
    下井草(2)

 キューバから帰ったのが、8月末で田舎には帰らず、電話で無事に帰ったと報告。赤に国に行くなぞとんでもないと反対した親父もおふくろもほっとしたことだろう。東京へ出てきて、5回目の住まい、新宿区霞岳町の都営アパートの片桐さん宅。相棒の熊谷さんがペルーに移住するからと、ここに居候させてもらって半年。大学4年の二学期からは一人で住もうと考えていた。下井草のアパートは尊敬する松村謙三先生のすぐ側であった。近くに幼稚園があり閑静な住宅地。大家さんは元学校の先生。その裏手の鉄製の階段を上ってすぐ左手の部屋。小さな流しに、ガスコンロがある。窓は大家側になっていて6畳の部屋の中は暗い。三太郎はここに1年以上いることになるが、ガスコンロは一度も使わず、隣の住人とは一度も顔を合わせることがなかった。
 近所にクラブの後輩大澤徹君がいて、引っ越しを手伝ってくれた。下井草駅近くの家具屋から机とベッドを買って入れ、、机の前の壁にチャーチルの言葉を書いた張り紙をした。「青春の時、一秒たりとも無駄にするな」

 キューバへ行く前にお世話になった方々に挨拶まわりがあった。キューバ行きを実現させてくれた山本満喜子さんもカストロと会えたことを喜んでくれた。
 日立制作所からトランジスターラジオを寄付させてくれた財界の黒幕といわれた大塚甚平氏には、キューバの葉巻をお土産にと頼まれていた。 毎日新聞からはコダックのカラーフィルムを大量に頂いた。毎日新聞本社を訪ね、本山秘書課長にお礼の挨拶にいくと、何か書いてみないかといわれ、毎日グラフの記者を紹介された。撮ってきたフイルムは毎日新聞で現像してくれる。
 地下の喫茶店に案内され、キューバの革命記念式典の話をすると何かメモしている。 7月26日の記念日。カストロ首相は目の上にいた。キューバの若者が革命の建設に目を輝かしているのが羨ましかった等と話す。(つづく)
  呑 風 日 誌 抄
 6月1日(金)新興住宅地秋田市泉地区のふるさとづくりをと建立された泉弥高神社の月次祭へ。毎月1日、北嶋昭宮司と神社氏子総代の方々が集まって祭事を執り行っている。14、5人程お酒を持ち寄って懇談会がいい。
 2日(土)秋田市文化会館。秋田青年会議所主催の面白秋田交流会ワークショップへ。Aグループ10人と、メンバーに一人が「道ばたに花を植える」と提案したので、6月16日の花ゲリラに誘う。
 3日(日)早朝7時。勝平浜クリーン&プラント作戦。参加者は佐々木文博氏、渡辺哲夫氏他数人、釣りに来た家族ずれも手伝ってくれた。市役所でやってんですかと聞かれ、渡辺現場監督は「いや、日頃の罪滅ぼしに飲み仲間でやってんですよ」空き瓶が随分と多い。去年植えた砂山にコスモスとキンケイギクを植える。
 寺町・妙覚寺。三浦義明氏の御尊父敬一氏の葬儀。父の意志を継ぎ地域文化の向上にがんばると喪主挨拶。直会で岸部章一氏と話。
 午後2時。協和町の町民センター。宮崎県佐土原町・協和町有縁交流提携調印式。宮崎県元観光課長の長沼武之氏も来られている。記念植樹が終わって、戸敷正町長と有縁、友情の握手。懇親会で宮崎県から浅野梅若社中に民謡の弟子入りしている中原晴香ちゃん(中学1年)が招待されている。二次会が、茂木義次郎・協和土建社長宅でやっかいになる。
 6日(水)秋田市大町・ぽらん。東京6大学秋田野球連盟理事会・6日会。能代での対抗試合の相談。
  9日(土)大内町へ。加賀沢の坂道でスピード違反で捕まる。
36歳で亡くなった兄拓夫の33回忌。残された夫人は二人の娘を立派に育てられた。
 夕方、仁賀保町・ホテル菊水。千葉の心友・土井脩司氏が来ている。白瀬中尉をよみがえらせる会の会報100号記念パーティに出席。土井氏は長嶋茂雄監督が帰るまで、花と緑の農芸財団の理事長代行を務めることになったという。白瀬中尉の墓参り。白瀬の会には全国から多数集まり、地域づくりの師匠である日本ふるさと塾の萩原茂裕先生も挨拶された。渡部誠一郎氏の代理で功労賞記念品を受け取る。二次会参加後、渡部幸徳代表宅に共同通信の橋田記者と。
  10日(日)大内町楢淵寺。父恭治の27回忌。親父が死んだ年に息子洋平が産まれた。静岡、寒川、横浜から姉妹集まる。直会は岩谷駅前のポポロッコで家族カラオケ大会。「亭主関白」を歌う。
 13日(金)空手着・白帯で武産塾合気道修練道場へ。初めての稽古。横山清一館長から指導を受ける。空手と全く違う、つい力をいれてしまう。「合気道とは自分と相手の気を合わせること」
 14日(木)三井アーバンホテル秋田。ランドスケープ交流秋田大会。秋田造園協会主催の「花と緑の環境文化の創造」へ。鈴木エドワード建築家は「嬉しいこと、小さな感動の積み重ねが大事」と。司馬遼太郎さんのいう自然と寄り添う文化の創造であろう。歓迎会では秋田観光案内人・千葉美栄さん達の秋田紹介がいい。佐々木吉和・むつみ造園社長に誘われ二次会、杉村文夫専務と三次会。 
 15日(金)自宅に宮崎県佐土原町の戸敷町長からお礼の電話。彼は萩原茂裕先生の薫陶を得ており、佐土原町を品性あるまちづくりをすすめるだろう。
 16日(土)早朝・花ゲリラ作戦。花ゲリラ娘の鎌田和子さんが来てくれた。西洋朝顔、コスモス、枝豆等を植える。午後、前秋田市写真協会会長の伊藤大さんと寺内の早田貫一先生宅へ。シベリア回想絵画の写真撮りの為。
 17日(日)秋田ねぶりながし館。秋田地区日中友好協会役員会。事業計画、事務局問題で議論。
 かみさんと秋田温泉プラザ。
 18日(月)青森市へ出張。駅前井戸端で味噌付け焼き鳥。ワシントンホテル前の「たむら」へ。皆浜村出身の田村規清氏と一献。
 22日(金)ふるさと塾地域づくり実践セミナー。川反塾舎。講師は秋田バリアフリーネットワーク代表の佐々木孝先生。「みんなにやさしいまちづくり」なるほどと納得することばかり。
 23日(土)能代市民球場。能代6大学選抜チームとの試合。第一試合は8対17、第二試合は8対4で一勝一敗。得失点差で負け。料亭「金勇」にて表彰式。稲門会同士で二次会。大島昌良主務と能代キャッスルに泊。
 24日(日)最終便で女房と上京。学芸大学前の娘江津子の所へ。
 25日(月)一便で熊本へ母の介護にいく女房を羽田に見送り。
 文部省で仕事をすませ、新宿末広亭へ。円窓師匠が聞けた。夜の部の小三治師匠と扇橋師匠は聞けず、雀の叔父さんへ。東京秋田稲門会設立総会へ。18人も集まってくれた。会長が里見和男氏、幹事長が若林正彦氏、事務局長が石田護朗氏、私は参与。息子・洋平を呼び、二次会は末広亭前の「薩摩おごじょ」特攻隊の母といわれた鹿児島・知覧の赤羽トメの娘礼子さんの店。高倉健の映画「ホタル」のモデルでもあった。
 28日(木)秋田市大町ビル。秋田木炭研究会発起人会。炭博士の鈴木勝男さんが会長。炭で地球を救う。二次会はオルガニート。そこに特攻基地・知覧におられた料亭主人と住職がおられた。赤羽さんの本を送る約束。
 29日(金)山王屋台。秋田県中小企業問題研究所(稲本俊輝所長)の研究会。佐藤久男さんが新主任研究員。公認会計士・高井宏司氏、顧問税理士で秋田ギフトセンターの故佐々木勇社長の話になる。パームコートにて東京秋田稲門会副会長の荒谷氏と一献。