ふるさと呑風便    01’6月号

   幼な馴染み 

  ☆☆☆☆☆☆

 ドキドキと心臓が高鳴っていた。本荘鶴舞球場。自分は内野のサードを守っている。由利郡中学校野球予選、対下川大内中学校との試合が最終回、ツーアウト満塁、バッターのカウントがツースリー。ピッチャーは二年生エースの佐々木勇。我がチーム、上川大内中学校は2対1でリード。いさむは大きく振りかぶった。ランナーは一斉にスタート。投げた。三塁ランナーにつられて走った。ボールは高めにいく。だめだ、と思った瞬間、打者のバットが空を切った。ゲームセット。勝ったー、とホームでいさむの肩を何度もたたいた。

 それから20数年後、私は田沢湖青少年スポーツセンターにいた。キャンプの講習を受けていた。昭和53年の春だった。そこへ電話があった。いさむからだった。
「みっちゃん、大内で民謡大会できるぞ」「なんでだよ」
「下川大内中学校が火事で焼けた」
「そうかよし、それでいこう」

 昭和49年、中学校時代の野球仲間を中心にして「明日の大内を創る会」を結成し、国道沿道に萩や水仙を植えたり、大内を民謡の里にするため、仲間に民謡競演会をやろうと提案していた。
 いさむが電話で、民謡大会ができるという訳はすぐ判った。
 開催テーマを決めた、ー大内を民謡の里にー、ー下川大内中学校の子らに愛の手をー。
 この年11月、大内町体育館で明日の大内を創る会主催「第一回大内民謡大競演会」が開催され、大盛況に終わった。火事で焼けた下川大内中学校に利益金40万円ほどの見舞金を贈ることが出来た。

 そのいさむが、実家の1軒隣の幼な馴染み佐々木勇君が死んだ。五月初め、田沢湖町で。私は本荘市の斎場で、棺の中の彼の死に顔を拝んだ。胸が締めつけられた。
 5月11日。大曲市から車で下川大内中学校前を通り、本荘市へ。葬式の時間には間に合わず、明日の大内を創る会の幼ななじみ達が集まっている会場に向かった。

 「俺は日本一の商人になるんだ」雪の坂道を雪ゾリに反物をいっぱい積んで引っ張りながら将来を夢見ている青年の姿があった。佐々木勇さん、当時22歳。10年前の冬のことであった。日本一の商人。彼にとっては決して夢ではない。10年後の今、本荘と秋田市に店を持ち、社員30名の秋田ギフトセンターの社長である。贈答品業界での年間販売高は、まだ全国で3番目。一度会ったら絶対忘れられない得な顔をしている、鉄砲玉のような行動力を発揮して佐々木さんの急成長の秘訣は一体何だったろうか。「常に挑戦の精神で、ともかくガムシャラに働いてきました。本荘に出てきたのが25歳の時で、市役所前にたった一人でギフト屋を始めたんです。友達から5万円づつ借りてやったんですが、ここまでになるとは思っていませんでした。災い転じて福となすとはいいますが、運がよかったんです。心の支えである大内の人達からほんとに助けられましたし、今でも瀧温泉のあんさん、新田の亮さん達からほんとうに助けられています。自分のような海千山千の若造を温かく見守ってもらったからでしょう」
 新田の呉服屋ササトヨの次男坊、中学時代は2年生から野球部のエース。秋商時代は剣道部で活躍した。父豊治さんの血を引き、芸達者でもある。「大内というところは、足を引っ張らずに、こぞって応援してくれる町だと、本荘の人から羨ましがられています。大内の人から笑われないようにがんばります」あの大きな眼を見開いて「大内に生まれて本当にえがったす」はばたけ大内人!

 これは昭和54年の3月。大内町の広報「はばたく大内人」シリーズの一人の最後として、彼のことを書いた記事である。

 私は勇の為に集まった幼馴染み達と会った後、彼の家の祭壇にぬかづいた。遺影は何んだか寂しそうな顔だ。いった。
「いさむ・・・の、ばかやろう」          (合掌)


  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年8月28日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「雄物川河口物語」
★佐々木文博氏 (SASAKIインターナショナル)

 雄物川の河口近くの側で生まれ育った佐々木ともうします。
 昔の、大正6年当時の雄物川の地図を持ってきました。新屋が河辺郡以前の様子です。昔は酒田街道といって、私の自宅前が酒田街道でした。
 雄物川の改修工事が大々的に始まったのが戦前、計画は明治19年からありました。それまで水害がひどかった訳です。記録によると寛永9年、1632年から雄物川の水害の歴史がのっております。
 江戸幕府が始まってからです。
 写真にあるように明治43年の水害の様子です。魁新報の記事にあるように秋田市のど真ん中も水害に悩まされ続けてきました。

 昭和24年の私が生まれた時は放水路ができていまして、昭和13年4月に完成しています。このような23年間もかけて大工事をなした先人のエネルギー、パワーには感服している者です。河口近くに放水路完成の大きな顕彰碑が建っています。

 放水路が完成して、祝賀会の資料が手に入りまして、寄付金が書いていまして、秋田市が千五百三十五円、土崎港町、川尻村とありまして、うちの爺さんも20円、寄付しているんですね。佐々木百太郎といい五代目なんです。
 私は、新屋生まれの新屋育ちなもんですから、ちょうど2000年で50歳ということで、新屋について種々雑多な私の想いをまとめた超生活情報誌「あらや」を出版しました。
 新屋は古いまちなものですから、古いことを新しい人に知ってもらいたいと思った訳です。それから新しいものも新屋に入ってきています。新しいことを古いお年寄りに知って頂きたいということでまとめました。 新屋には養護学校や福祉関係の施設が多い。それから味噌醤油やお酒の醸造元も多くあります。 「懐かしい雄物川の30年代の風景」というタイトルで書いてみました。
「約23年間の雄物川改修工事も終わりに近づき、昭和13年4月27日、午後3時14分、大爆音と共に、雄物川放水路が開通した。これにより、何度となく、秋田市内に大被害をもたらした水害の心配もなくなった。

 新屋が二つに分割されたのであるから、当然橋が必要であり、『雄物新橋・木造』ができたが、昭和32年、大水のため、無惨にも中央部分が流されてしまった。流される前から、雄物新橋は老巧化が進んでおり、橋の中央にはいたる所、大小の穴があいて、渡っていると穴の中から雄物川が見えたものである。その後、ついに通行禁止となった。そして『いつかは流される』という予感は住民の誰しもが持っていた。当日は、かなりの人が『木造の雄物新橋』の最後を見届けたものであった。当時小学校2年生であったにもかかわらず、最高に悲しい思いをしたことをはっきりと覚えている。
 その前の年の31年、日新小学校に入学したが、その当時も『雄物新橋』は渡れず、船場町、割山、勝平の子供たちは日新小学校に通うのに、なんと雄物川の堤防を下って秋田大橋を渡り、さらに小学校まで又上がっていったのである。1時間はゆうにかかった。当たり前のことだがこれが毎日続いた。堤防は風が強く、雨の日や風のある日は、呼吸ができないくらいの向かい風で、小さな子供には大変だった事を記憶している。しかし、反面素晴らしい事もあった。それは、日々移りゆく変化に富んだ雄物川の素晴らしい風景をつぶさに見られたことであった。

 朝、家を出るとすぐ堤防にでる。すると雄物川には何艘もの細長い船が浮かんでいて、砂利を取っている。長い竿の先に網状のチリ取りもたいなものが付いていて、それで砂利をすくうのである。船の中には採取した砂利がいっぱい積んであった。大きさは3センチから5センチくらいか?、恐らく建築つかわれたのであろう。
 秋田大橋の上からは、時折大きな魚が見えた。鯉がボラか、水門の入口には長さ5a〜10a位の小さな魚が何匹も一塊りになって太陽の光でキラキラ輝いていた。すぐ家に帰って釣りにいったが決して釣れなかった。なぜだろう。
 冬になると朝、細長い船が2、3艘いて、今度はヤツメウナギの「ど」を引いている。それはラグビーボールを一〇倍位大きくして、半分で切ったような形をしている。中にヤツメが入ると逃げられない仕組みで、何日か前から仕掛けて置くのである。船の中を徳長(腰までの長靴)をはいた人が「ど」の中からヤツメを取って木箱にいれている。
 午後になると今度は、自転車の後ろにヤツメの入った木箱を積んで売りにくる。当時一匹100円位だったと思う。いつも二匹位買ってきて、家の水槽に入れておく。水槽な中をぐるぐる回って泳いでいた。ヤツメは味噌かやきに限る。豆腐とネギを入れて。あのコリコリした歯触りが何ともいえない。特に寒ヤツメは最高であった。
 雄物川は当時、冬に2、3度は必ず全部凍った。子供は恐る恐る氷の上の上がって遊んだ。今では考えられないことです。雄物川が凍ると今度は馬そりの出番。凍った雄物川の氷を切って馬そりで『雪屋』(地面を掘り、地上に低い屋根を組んで、中におが屑を入れ氷を貯蔵した。夏に取り出して氷りを冷蔵庫代わりに使った)まで運ぶ。当時、自動車はほとんどなく、馬そりは一日何回も雄物川と雪屋を往復した。特に堤防を上るときは、馬も大変で鼻穴から白い息を出して、必死に頑張っていた。その時、子供たちは『どっこ』や『竹スキー』をはいて、こっそり馬そりの後ろにつかまって、しばしのスケーティングを楽しんだ。もちろん馬を引いている人に見つからないように。
 今となっては、砂利取り、氷を運ぶ馬そりは消えてしまった。又、ヤツメを取る姿もほとんど見られなくなった。」

  ここに大正6年の新屋の町並みの地図です。これには松林がありますが、江戸時代には松林はほとんどなく、砂が飛んで田畑が埋まってしまう状態でした。
 ここに砂防林を造成したのが栗田定之丞です。新屋栗田町に神社が建立されているのはご存じと思います。
 祭神は、栗田定之丞如茂大人(ゆうきしげうし)。その昔、新屋村は海岸からの飛砂に悩まされ、人家が埋没し、人々は移転を余儀なくされた。村人達もグミや柳を植えて砂防につとめたが、思うように成果が上がらずにいた。寛政9年(1797)に栗田定之丞は藩命を受けて、まず山本郡方面の砂防林植栽に着手し、栽培方法などの工夫により、その造林に成功する。その後、河辺郡に転じ、文化4年(1807)新屋村海岸砂防林植栽を始めた。村人達を説得し、一身を捧げてこれに従事した。村人達も定之丞の熱意に打たれ、全村あげて協力した。勝平山の植林は、新屋南方の林が完成した後の文政5年(1822)から開始されたが、完成したのは定之丞没後の天保3年(1832)であった。植栽松樹はおよそ三百万株に及び、ついにその成功をみるに至った。
 文政10年(1827)定之丞は病をえて60歳の生涯を閉じた。砂防林事業にあたり定之丞に献身的に協力した大門武兵衛と佐藤藤四郎の二人が、翌文政11年、割山の旧新川通(船場町、渡部豆腐店裏の小丘の辺り)に小祠を建て、栗田大人を祀った。村人達も深くその功徳を追慕し、天保3年(1832)藩儒奥山君鳳に碑文を請い、「栗田君遺愛碑」を建立した。そして安政4年(1857)村人達は、藩に請願して、特に一社を建て、栗田大明神と称することを許され、今の雄物川放水路の中程あたりに建立した。その後、雄物川改修工事計画により、明治45年社殿を現在地に移転した。祭礼は8月1日。(もとは旧暦7月1日)(勝平のあゆみより)

 栗田定之丞が松の植樹をすすめる際、佐竹家からは一銭もでないので、村人達は定之丞からいわれて只でやったので只之丞ともいわれたそうです。もし、植林が成功しなければ自分の首をかけると村人にいい、まさに命がけでかかっていたのです。

 今、土崎に湊御蔵というレストランがありますが、そこの前は昔、川だったんです。そして左側にあったのが勝平山です。(秋田カントリークラブあたり))平安時代、大地震が発生し、秋田城が崩壊し、地割れ、山崩れが所々にできて、大きな雄物川もどこかへ消えたようにみえなくなったとあります。

 天長7年(830年)の地震の前、勝平山は旧雄物川河口と日本海との間にそびえる信仰の山でもあったんです。大地震で勝平山が壊滅状態になって、住民は南下して天坪野、割山にのびてきて、今の緑町、笹町一帯に移り住んだと思われます。
 その後、天慶の乱といって、当時の蝦夷(えみし)が各地で反乱を起こし、秋田城の司令官であった城介も汚職を働き私腹を肥やしていた為でした。
 天慶の乱の後、開拓事業が進み、大和民族の移住が盛んになり、勝平山麓から民家はことごとく新しく開いた雄物川南側に移って、新屋千軒というわれる元をつくった。
 江戸時代の資料にありますが、「新屋村は昔、勝平山の下にあり、しかるに砂に埋もれ、山崩れて、今の地に家居を移転したり。旧村百三段(ももさんだん)といへるを、今の地に新屋という」とある。新屋の名は、新開地の意味から称されたといわれています。
 雄物川放水路の工事現場から、縄文時代後期の土器が発見されているんです。このことは、この新屋の地に縄文人が住み暮らしていたと何よりの証拠です。実は、私も小学校5、6年生の頃、雄物川放水路の新屋側の岸で土偶と土器を発見しているんです。 
 又、面白いことに、京都の三十三軒堂に勝平山から切り出した木材がいっていると故老の話も残っています。
 私の生まれ育った雄物川近くは非常に面白いところです。

 雄物川に放水路ができて、土崎方面に流れる水門の所に建設省の茨島工事事務所あります。毎年、河口に材木が流れ着いてきます。管理している茨島工事事務所ではそれを集めて燃やしていました。ただ燃やすのはもったいないので何かイベントができないかということで、当時私は勝平小学校のPTA会長をしていまして、私にきまして雄物川河口ふれあい祭りをやりました。木を集めて燃やし、それから地引き網をやり、採った魚とあらかじめ用意した魚で皆に配ってバーベキューをやりました。出店を出して、砂丘にステージを造って、小学校のブラスバンド演奏、先生方のバンド演奏をやりましたが、五百人も集まりました。
 たそがれ時にたき火を燃やし、ビールを飲む人もいまして、最高に盛り上がりましたね。(笑い)
 できればもう一度、やってみたいと思っております。


 呑 風 日 誌 抄
 5月1日(火)井川町の国花苑へカミサンと花見。青い沼に映える八重桜が美しい。大潟村の菜の花ロードを見て、土崎温泉あったまりーなへ。夕方、彌高神社例祭へ。境内で神楽、「浦安の舞」昭和天皇御製で「あめつちの 神にぞ祈る朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ日を」宵宮祭の直会。
 2日(水)秋田市中通・旧知のたかはし歯科医院の高橋是崇先生へ。歯の治療お願い後、音楽家でもある先生から11日の秋田まごころ大賞授賞式にハワイの足利さんにハワイアンができないか相談。
 9日(水)午後、本荘市斎場。仙岩峠で死んだ幼なじみの秋田ギフトセンター社長・佐々木勇にお別れ。奥さんに泣かれ、胸が痛む。
 11日(金)大曲から大内町を通って本荘市へ。勇の葬式には間に合わず、「川の字」へ。ふるさとのよき仲間である明日の大内を創る会や幼ななじみ達が集まってくれた。佐々木正人君が勇さんが集めてくれたという。石脇の彼の自宅へ弔問。秋田市への車中のラジオから、さだまさしの「防人の歌」が聞こえてきた。♪おしえてください この世に生きとし生けるものの・・私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますかー
 榮太楼旅館。第3回秋田まごころ大賞授賞式。ハワイ沖で遭難事故にあった、えひめ丸の訓練生達をお世話し、全国に感動を与えたハワイ秋田県人会会長の足利緋寿さん。この5月にハワイへいかれた雄和町の岸部章一さんが彼女と会われた。遭難した子供達が保護された沿岸警備隊のゲート前で足利さんは叫ばれたと聞く。「今、あの子たちは私を必要としているのよ」。式には50人程出席して頂いた。出席者一同と足利さんのお陰で、涙と笑顔と音楽があふれる良き邂逅であった。
 二次会は秋田市文化課長の小松正夫氏、大潟村の相馬喜久男氏と大町、すがわらへ。学生時代からの悪親友、若林正彦が仕事で秋田に来ている。相馬氏と3人昔行った川反一番館の弥生へ。
 12日(土)若林と千秋公園。御隅櫓の展望台、第17連隊の顕彰碑等を見て秋田空港へ見送り、秋田駅前一番館へ。五百歳野球中通クラブの総会、人情酒場久保田、次は多良へ。
 13日(日)中通小学校。五百歳野球中通クラブの早朝練習開始。
 15日(火)東京六大学秋田野球連盟理事会。大町ADビル地下ぽらん。能代に選抜チーム遠征試合、甲子園で試合計画。打川猛副会長と、毎日新聞の小倉新人記者を誘い、川反・網元、杉にて故石川公正先輩を偲ぶ会の相談。
 22日(火)北秋田郡合川町、伊東農園を法人化して張り切っている伊東毅さん。彼から3年もののブナの木3本買ってくる。秋田市泉の木内昭さん宅。仙台の伊達の殿様、篤郎先生が29日ご来秋されるので、その受け入れの相談。近所の渡部薫を呼びブナを一本やる。
 25日(金)川反塾舎にてふるさと塾地域づくり実践セミナー。講師はむつみ造園土木の杉村文夫専務。「庭づくり 地域づくり」の話。庭園の見方、感性の素晴らしさに感服。階下のレディで二次会。
 27日(日)昼、アキタニューグランドホテルにて九州秋田県人会。二十五人出席、そこへ携帯に電話、フジテレビの女性ディレクターから、田中外相と同級生だそうでと。何で知ったかと聞くとホームページだと。自分のHPには彼女とスペイン語クラスの合同写真を載せているが田中真紀子とは書いていない。夕方、勝平コミセンにて新屋勝平地区市民憲章推進協議会総会へ。そこへフジテレビの春日アナから電話。電話取材される。今日の夜十時半からの番組だという。
 総会では環境衛生部会の会合で、6月3日朝、勝平浜でクリーン&プラント作戦決行の話をする。船場町の佐々木文博さん宅で勝平浜プリクラ作戦の打ち合わせ。自宅でテレビを見たら、田中外相が英語だけでなく、スペイン語も話せるのだという番組。画面に佐々木三千夫と出て、「スペイン語は話せると思いますよ」と。「クラスで彼女に話しかけたら親父に殺されるといわれてましたから、話したことなどありません」といったことはカット。
 28日(月)秋田ベルコ会館。櫻田喜八郎氏(75)の葬儀へ。北秋田財務事務所時代の上司。豪放磊落で野球好きで大変お世話になった。船山昭弘さんや県税事務所時代の懐かしい方々の顔が見える。   29日(火)秋田市八橋、西来院。一時。仙台藩士殉難の碑前で伊達篤郎先生が講師の、NHK仙台のカルチャースクール「正宗の源流を訪ねて」一行18人を出迎え。伊達先生、殉難碑の前で一行に「ご低頭」といわれて拝礼される。午後2時、川反観音像前で川反先人慰霊委員会の中島康介会長、斉藤育雄理事と迎える。仙台の伊達のお殿様を佐竹公の菩提寺・天徳寺に案内、前田亮雄住職から書院に案内され、秋田佐竹の初代藩主義宣公と伊達政宗公とは従兄弟だったと知らされる。夕方、榮太楼旅館。秋田県タッチ協会総会。タッチラグビー大会を11月18日に開催。吉田典雄理事長、佐藤康秋田テレビ総務部長と二次会を川反・秋田乃瀧へ。斉藤育雄社長も。
 30日(水)秋田市新屋・アトリエももさだ。美の国あきた雄物川クリーンアップ懇談会。建設省秋田工事事務所主催。秋田市でクリーンアップ作戦をボランティアで実施しているグループが集まる。合気道・武産塾合気道修練道場へ。横山清一六段師範と会い、来月から合気道を始めることにする。
 31日(木)昼、ユーランドホテル八橋。「しらせを秋田に誘致する会」の役員会。ニュースレター、人脈図などをつくる計画。