ふるさと呑風便 2001 5月号

     英霊ラッパ

  ☆☆☆☆☆☆

 日本海にそそぐ雄物川。その河口北側の海辺に小型ジープで乗りつける。桜が咲き始める頃の早朝、海は凪。海上に男鹿半島の山々がくっきりと見える。ラッパを取り出して「国の鎮め」を吹く。
 このラッパは太平洋を渡ってきたもの。太平洋戦争に出兵したアメリカ兵が、激戦の跡、フィリピン・ルソン島から一旗の日章旗と共にアメリカに持ち帰った。ルソン島では秋田・第一七連隊の兵士の多くが戦死している。その日章旗の持ち主は秋田市出身と判る。日の丸の下に、武運長久と大きく書かれ、青年会の仲間の名前があった。

 平成5年の夏、仕事場に愛知県の方から、ロスアンゼルスにいる娘から預かってきた、持ち主を捜して渡して欲しいと日章旗とラッパが送られてきた。日章旗の持ち主は戦死されており、遺族を探してお渡しした。ラッパの方は持ち主不明で、愛知県にお返ししようとしたが、そちらにお任せしますとのことで、遺族会館に預かってもらっていた。

 そのラッパは、朝顔の根元部分が少しつぶれている。それは秋田・歩兵第一七連隊の兵士が肌身離さず持っていて、死闘の際の痕跡であろうか。
 千秋公園本丸跡に歩兵第一七連隊之碑が建立されている。これはフィリンピンのルソン島で戦死した隊員の慰霊碑でもある。昭和一九年八月にルソン島に投入された三千余名の部隊は過酷な条件の下で激烈な死闘を繰り返し、終戦時には九百余名の生存者しか残らなかった。

 3年前の4月29日。日本海の砂浜でこのルソン島に残された色あせたラッパで国の鎮めを練習し、秋田市総社神社境内で行われた特別攻撃隊招魂祭で吹いた。失敗だった。最初の出だしはよかったが、高音を間違えてしまった。 
 今年も第十回慰霊祭で、何故か主催者のツバサ広業・桝谷健夫社長から、国の鎮めと国旗掲揚の「君が代ラッパ」も吹いてくれといわれる。
 高校時代はブラスバンドでトランペット、学生時代もデキシーランドジャズクラブでラッパを吹いていた者として名誉挽回のチャンスを与えられた。太平洋を渡ってきたラッパでは国の鎮めを、君が代ラッパはつぶれていないラッパで吹こうと、陸上自衛隊秋田駐屯地から借りてきた。
 日本海の波打ち際で、大陸に向かって二本のラッパを吹き比べてみた。変わらない。戦場の痕跡があるラッパの方が慣れていたのか吹きやすいのだ。吹奏の失敗原因をつぶれた楽器のせいとした自分が恥ずかしい。

 桜吹雪の特別攻撃隊招魂祭。会場には国旗が既に掲げられていて、君が代ラッパはいいとのこと。黙祷の時間に「国の鎮め」を2回吹くことにする。招魂碑前の祭壇には、八重桜が生けられている。拝礼してラッパを口につける。  ん、失敗、出だしのソの音がでない。最初は何とか吹き終わり、2回目からはどうにか間違えずに吹き終えた。
 歩兵第十七連隊戦死者の英霊が宿っているラッパ。今は、自衛隊秋田駐屯地の史料館で静かに眠っている。
 当方はまだ、完全な名誉回復はならず、何時か又、英霊ラッパでお慰めしたい。
 ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年7月28日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「地方への情報インフラ」
  ーベンチャーのベンチャー支援ー
★石川直人氏(R&D創研社長)

 私は秋田市育ちではなく、生まれは雄物川町です。石川家総本家の7代目として生まれ、本来は家督を継がなければいけないのですが、自由にさせてくれた親に感謝しております。
 エンジニアになりたいと高校をでてから、明治大学で機械工学を専攻しました。本職は技術屋なんですが、昭和57年に由利工業株式会社に入りました。
 大学でも自由にさせてもらった分、死ぬときは実家でと秋田に帰ってきた訳です。
 中学、高校まで陸上をやってまして、短距離と走り幅跳びでは県の記録をもっていました。
 子どもの頃からピアノを習っていまして、エンジニアかミュージシャンになりたいと思ってました。東京へ行けば音楽を聞けると6大学のひとつ明治の工学部に入ったのですが、軽音楽サークルに入って、宇崎竜童や阿木曜子もいました。そこで友人とバンドを組んでナベプロからスカウトされました。当時のアイドル選手権の二位が松田聖子でした。
 バンドが解散したので、秋田に帰ってきました。数学の教員試験を受かっていましたが、当時3人しか採用にならず、百姓をしようと考えましたが、横手のハローワークで由利工業が募集しているのを知りました。須田精一社長と会いましたら、「秋田県の工業発展の条件」という論文を書いてこいといいます。知事との対談したのを書いて何とか出したら、4月から来いと、西目の由利工業へいきました。

 以来、設備関係の仕事、TDKの設備や、横手精工を立ち上げ、東芝に研修、機械設計から、韓国、インドネシアに工場をつくり、18年の間、30代で役員になり、由利工業グループ全体で一八〇〇人、全社に所属したのは私だけでした。ずっと須田精一社長の背中をみて育ち、海外の現地法人の社長をやらせて頂きましたが、電気機械製造業の下請けの限界を感じ、日本SMTを創業し、そこは一番成績がよかった。
 バブルの時代に川反で年間一五〇〇万円の接待費を使っていた私が、リストラで経費カットや、社長や社員の給料カットもしました。来年、3年後を考えると高給取りではなくなる、社員のリストラの前に、自分自身を律するためにもと、「R&D創研」を立ち上げました。
 経営指導の研修会でも話すのですが、秋田県の産業構造は労働集約型で、誘致企業の時代ではない。リストラの対象は技能弱者か中高年となります。中小企業は体力がなく、入りを制して出ずるを計るしかありません。
 行政は一企業の営利目的のために何千万も出すことはできない。せいぜい五百万ぐらい。それでは何も出来ません。弱者救済ですから、強いところは伸ばせない。そこそこの企業は自分のところでやるだろうと対象にはならない。一歩踏み出せず、リスクも負えない。ベンチャー支援も一定の基準を満たしていなければなりません。
 ベンチャーとは百人にうち、一人が面白いとして賛同し、投資家が現れるのがベンチャー企業なんです。そこで、クライアントしてサポートしてあげられるのではないかと、R&D創研をつくった訳です。須田社長も応援してくれまして、資本金四千五百円、私のビジネスチャンスに投資してくれる人が多い。五月にスタートしましたが、生かせるのがヒューマンネットワークです。
 この仕事の面白いところは、めぼしい企業をインタビューしてみると、ベンチャーは根っからの技術バカで、経営的にみても問題があります。私は技術、財務のこともわかりますから、ビジネスプランをぶつけて、ベンチャーキャピタルから金を引き出し、先を見通したビジネスプランを熱心に聞いてくれます。

 東京鎌田に世界一の精密工場があります。そこでは茶髪の社員がお寺の鈴を職人の手の技で作っています。それが見直され、人間のもつファージー感覚と表現でできるんです。
 そういう職人を大事にして、秋田は物づくりで産業振興をすべきです。
 秋田の基幹産業は、物づくり産業を振興させ、それを教育の場に持ち込む必要があります。
 
 息子にプレステーションを買い与えました。今の子どもは玩具をばらさないんですね。アナログ的知識がない。私はアナログ技術者のネットワークをつくりたいと思っています。アナログ回路の技術者養成の梁山泊を考えています。
 今もう一度、父と子が、アンプでオーディオを作れないかと。物づくりの原点を感じさせなければいけないと思います。
 ITは道具にしかならない。アメリカやドイツの景気がいいのは自動車産業がいいからです。イタリアはアパレル産業、スイスは精密機械、世界は製造業が引っ張っているんです。ITではない。
ITで武装した製造業が強くなる物づくりの復権です。それを老舗の皆さんが気が付かなければいけません。ITは技術ではなく単なる道具だということです。

 今回、秋田県の創業支援室に6社の中に入れて貰いました。
 ところが岐阜県では創業者には無審査で300社です。そのかわり成績が悪ければ後でダメになります。
 今後は世界的な企業を育てるため、キャピタルファンドをNPOで運用し、ベンチャーキャピタルを運用する会社にしたいと思っています。

 秋田県に骨をうずめる宿命にありますから、秋田を面白くしたい。楽しく仕事をするには、経済を活性化しなければいけません。そのための一社でも育てたい。
 私の事業が成功すれば、秋田県も捨てたものではないのです。
   (文責佐々木)
「地方の情報インフラ整備を」
 国は経済政策に兆単位の莫大な予算を充てているが、産業に携わる人間として、なかなか効果が出ていないというのが本音だ。
 国の予算配分はバランス型、例えば、金融機関への公的資金導入は、マイナスを埋めただけでプラスに転じていない。強者弱者の両方に予算をつけ、集中させた場合に得られる相乗効果が生まれず、国際競争力も弱まっている。
 また、国は国益を考えた場合の主産業を明確に位置づけておらず、長期的な視野にたった展望がない。世界をリードしてきた自動車産業は台湾や東南アジアなどに工場移転が進み、国内では空洞化しているのが証拠だ。
 県内に目を向ければ。賃金の高い中高年はリストラされ、若者は働く場が減っている。中小企業は首都圏に本社がある大企業の下請けがほとんどで、消費者の好みによって売れ行きが左右される洋服など製造業が多い産業構造だからだ。中書企業は情報技術(IT)革命を活かし、産業構造返還を計る必要がある。例えば、携帯電話の機種は消費者の好みで売れ行きが変わるが、機種に使われる半導体などの基本的な部分は同じだ。特化・専門化が求められる。この際、「人・モノ・金」がキーワードになるが、最大の課題は金、つまり資金集めだ。
 調達先はこれから、手堅い銀行よりソフトバンクなどの機関投資家がメーンになる。ここで国には国家レベルで投資家の目をいかに地方に向けさせるか、を考えて貰いたい。このためには、中小企業が安価で使えるインターネットなどの情報インフラを整備する一方、投資家が地方でも有望な中小企業に投資しやすい環境づくりや、株式投資で得た利益「キャピタルゲイン」の減税などをしてほしい。
 国の短期的な中小企業助成金は無駄だとはいわないが、将来何が出来るか疑問だ。財政再建も急務の中、限られた予算をどう使うのか、バラマキ型ではなく、国の利益となる有望産業の育成を求める。そのためには予算の傾斜配分、法制整備などの環境づくりを早急かつ協力に進めて欲しいと思う。
 (毎日新聞秋田県版 12/6/6)
  我青春風来記 (128)
   早海三太郎
  下井草(1)

 ハワイの夜。ホテルのレストランの外はワイキキビーチ。その商社マンと飲んで、部屋に帰って夜の浜辺に出ようと
海水パンツに履き替えて、ベットに横になったら、そのまま寝てしまっていた。
 翌朝、早い時間に起こされ、ロビー横の売店で買った。二村幸子さんへ、ムームーを。
 ハワイの空港で日本空港に乗り込み、それから約6時間。機内で日本の新聞を一ヶ月振りに読む。日本社会党の佐々木委員長が辞任し、勝又委員長に変わっていた。

 羽田空港に着いたのが八月末の昼。三太郎の初めての海外旅行は終わった。
 一ヶ月振りの日本。東京はまだ暑い。この旅は三太郎の将来に何をもたららすのだろうか。考える余裕もなく、ドルを円に換えようと、ポケットに僅かに残っていたドルを換金したら、230円。これではやっと、帰りの電車賃だ。
 彼女、幸子さんは夏休みで九州に帰っていていない。
 東京駅から中央線で信濃町で下車。大きな鞄をゴロゴロ引っ張って、霞岳町の都営アパートの片桐宅へ着く。鍵を開けて、部屋に入る。暑い。
 黙って立っているだけで汗が出てくる。こんなことは、ロスでも、メキシコシティ、キューバのハバナ、アカプルコでもなかった。ここは東京。ジャパンだ。どうしても先日まで訪ねた都市と比較してしまう。

 三太郎はキューバへ行く前に訪ねた衆議院議員会館での松村謙三先生の言葉を思い出していた。「キューバから帰ってきたら、話を聞かせて欲しい。一緒に飯でも食おう」
 三太郎は、霞岳町の都営アパートから出て、新学期を新しい所で迎えたいと思っていた。そうだ、松村先生の側がいいと。電話帳で探した。先生宅は中野区上鷺宮、西武新宿線の下井草駅から近い。杉並区下井草5丁目に双葉荘というのがあった。電話すると二階に空室があり、松村先生宅は、すぐ近くですよという。決めた。大学にも通学が便利。 三太郎にとって6度目の引っ越しとなる。 (つづく)
呑 風 日 誌 抄
 4月1日(日)酒屋唄を呑む会。秋田市新屋・秋田晴酒造(川口和夫社長)にて、57日間、酒屋唄を聞かせて仕込んだ酒「ヨーイトナ」を絞り込む。
 第二回秋田まごころ大賞受賞者の鈴木富雄さんと本荘市・グランドホテルへ。本荘喜寿の会(佐々木青洋会長)に招かれる。「この日本をどうかしなければ」と青洋会長の挨拶。恩師印藤良生先生や諸先輩多数おられる。歌とトークショーの意義深い会合。「あの日あの時」終戦の日に講師の武田勇四郎さんは満州開拓団におられた。2ヶ月間の避難の途中、作家の宮尾登美子さんに助けられ、命の恩人だったと。木島久雄氏は今でも話せないことが多いが、やはり極限の満州避難生活で、岩塩が美味かった、孤独が一番怖かったと。小林工業の小林忠彦会長は厳寒のシベリア抑留生活の中で、皆を励まそうとさわやかな歌「タバコの唄」を作詞作曲されている。
 3日(火)朝、県庁横の外来者駐輪場へピカピカの県庁バッチを胸につけた新人二人が自転車を留めて来る。「そこはとめるところじゃないだろ」というと、「あっ」といって戻っていった。最初から特権意識で腐っていく。当方はちなみにバッチなどは一度もつけたことはなかった。
 4日(水)ツバサ広業の桝谷健夫社長の靖恵夫人からいい話を聞いた。寝たきりになった百歳になる母親に2年前から毎日50円の親孝行をされている。絵葉書に50円切手を貼り、毎日、家族のこと、仕事のことなど書いて送る。一週間に一回、施設にお見舞いの際、自分の書いた葉書を回収されアルバムにはっている。これは日記がわりにもなろう。母は今日も娘のさりげない、愛のこもった手紙を毎日心待ちにしている。
 6日(金)秋田ADビル地下・ぽらん。六大学野球連盟の6日会。毎日新聞秋田支局長の七井辰男氏と出席。それから慶応の長谷山靖氏と3人でオルガニート他へ。七井支局長、旧知のお客へ帰ってきましたと挨拶。
 7日(土)那波商店の那波宗久氏へ、児童福祉施設「やすらぎの家」の件で佐藤郷男さん、成田幸夫さんと相談。本荘のインターネット博士石井護氏からホームページの容量を増やして貰って大江戸ラーメン。金浦映画祭に吉永小百合さんを呼ぶ相談。夜、靉にて彌高神社の北嶋昭宮司、司法書士の綾小路先生と一献。
 8日(日)井上英子先生宅。三浦書店の三浦義明社長と児童福祉司の話を聞く。寺町の浄弘寺(矢田正康住職)にて、花まつり。いい歌と音楽と読み聞かせの会。
 9日(月)県庁中庭に移植された桜木が咲いた。絆創膏が樹木に巻かれているので早く咲いたのかと思ったら、早咲種の「キンキマメサクラ」であった。
 11日(水)鷹巣町北士館道場の七尾専次郎先生と福祉ラーメン。大江戸ラーメンが旨かったと。
 13日(金)横手市から高速道で自民党総裁選挙立ち会い演説会の聞く。小泉純一郎候補が最後に昭和天皇の御製の歌を詠まれた。荒廃した戦後日本に松の木にたとえて鼓舞した歌という。ツバサ広業の桝谷社長に聞いたらさすが、すぐに教えて貰った。
 ふりつもりみ雪にたえいろかえぬ 松ぞおおしき人もかくあれ
 18日(水)炭博士・鈴木勝男先生からITマット(座布団)を頂く。川尻町の花庭巧房みどりでのカレン・ヌンス絵画展へ。
 19日(木)平安閣・昼。秋田電気同友会例会にて講演。「地域づくりとサービス精神」夜、待夢里、この日、ペルー協会元会長・堀江正男先生の命日で馴染みの店。北嶋昭事務局長・工藤幸彦理事、菊地国晴理事と偲ぶ酒であった。
 21日(土)朝、雄物川河口にラッパをもって君が代ラッパと国の鎮めの練習。割山町内会副会長で金床屋の和雄さんから脳動脈瘤の手術した話、町内を石井会長のいうナナカマドのまちづくりへの相談。女房と秋田温泉プラザ。
 22日(日)大町ビルにて秋田地区日中友好協会総会。役員に復帰させられる。一緒に復帰された佐藤孝之助さんのいうことは聞きます。ジョイナスにて秋田いのちの電話総会へ。彌高神社の御輿渡祭で神社まで御輿と一緒に歩く。終わって斎館にて直会。
 24日(火)秋田県青年の家「ユースパル」にて満塾。秋田経済法科大学理事長の佐々木満先生を囲む会。「21世紀はサービスを買う経済への過渡期にある。科学技術にふるまわされない正しい教育が必要」とおっしゃる。
 25日(水)秋田県立大学の元南極越冬隊員の菊地勝弘先生へ。中谷宇吉郎先生のお弟子。帰りに港セリオン前の交差点。一時停止違反とのことでパトカーに捕まる。
 陸上自衛隊秋田駐屯地の広報官の三浦久夫氏からラッパを借りる。
 26日(木)割山町集会所にて町内会総会。環境保健部長として「花と緑のまちづくり委員会」を結成し、花と緑のまちにしようと提案。金副会長の弟弟子で本荘の名工、加賀屋利雄氏に電話し、豊寿司にてご馳走になってしまう。
 27日(金)ふるさと塾。「キーワードは心と志」講師の小林孝哉先生の熱情溢れるお話に感動。
 本因坊へ佐々木敬助次長と。
 28日(土)秋田市通町大工町の市へ。マダムカーペンターズ(越後谷慶子会長)の市でさくら役。
 29日(日)総社神社境内。第十回特別攻撃隊招魂祭。黙祷の際、国の鎮めを太平洋を渡ってきたラッパで吹く。2回繰返し、前回よりはうまくいく。懇談会にて、藤本光男先輩の命により、君が代ラッパを吹く。アルコールが入っていたせいか、これはうまく吹けた。