ふるさと呑風便 2001・4
一旗
☆☆☆☆☆☆
毎日新聞論説委員の三木賢治氏から先日、電子メールが送られてきた。ちょっと長いが感ずるところあり、そのまま掲載させてもらいます。
「昨日の日曜日、何気なくテレビをつけていたら、素人が参加するクイズ番組をやっており、秋田の青年が回答者として出演していたので、応援しながら見ていました。
当初は青年はかなり優勢で四人の出場者中のトップになるのではないかと思っていたのですが、ひとつの問題への答えで流れが一変してしまい、トップどころか惨憺たる結果に終わってしまいました。その問題とは「新たな事業などを起こすときに何を上げるか」といったもので、「一旗上げる」の「はた」を答えさせるものでした。
青年は「一旗上げる」の言葉を承知していました。いち早くボタンを押し、回答する権利を得たのはよかったのですが、「はだ」と「た」に濁音を付けて答えてしまったのです。司会者は多分、好意で言い直させようとしたのでしょう。「えっ、もう一度」と再回答を促しました。しかし、青年は「だ」であると思い込んでいた様子で、もう一度「はだ」と答え、不正解とされました。このクイズはオセロゲームのような仕組みになっており、不正解となった青年が2問の間立たされている間に、ポイントとなる位置の駒を奪われ、たちまち獲得していた陣地を失ってしまったのです。
多分、秋田弁のせいだと思います。気の毒な結果ですが、多くの人には青年がなぜ誤回答をしたのかも分からずに終わったことでしょう。逆に東北の人なら、正解にしてあげてもよいのに、と同情したかも知れません。僕は秋田弁に(多少の難解さはあるとしても)愛着を感じていますし、何とも優しい響きかと思っています。次第に秋田の人々が標準語化していくのを若干苦々しくも感じていましたが、今回のようなケースがあると複雑です」
秋田県の魚、ハタハタ(鰰)を私どもは、はだはだという。一旗だって、ひとはだあげるといったほうが正しいのである。
三木賢治記者は、20数年前、毎日新聞秋田支局時代、八七人の軌跡と題して、私の中学同級生を取材し、新聞に連載された。これは後に「都会の空はにごってた」(毎日新聞社発行)という本になった。終戦の年に生まれた我々。山の中学から都会に集団就職していった16歳達のドラマは一つの戦後史でもあった。
秋田弁を優しく理解している三木氏は、再び我々、山の中学の八七人を取材し、文庫本にしたいから協力して欲しいとのことだった。喜んで協力する。恩師の佐々木勝敏先生、佐々木秀三郎先生も郷里の大内町で元気に過ごしておられる。同級生達は毎年、お盆の一四日、同級生の美佐子食堂で会っている。
秋田市には、東京へ集団就職で行ったが三日で帰ってきた正と同じく秀治がいる。
二人が秋田市川反でバーテン時代の昔、随分と他のお客につけて飲まして貰った。
彼らは東京で一旗あげれなかったが、今は二人とも立派な家を建て、自営業の社長さんだ。偉い。未だ宮仕えの小生は何時も彼らに激励される。「みっちゃんも、はやぐひとはだあげろ」と。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年6月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「秋田の職人」(2)
★渡部 景俊氏(秋田民俗学会理事)
田口さんが持っている秋田県産の箕は、鷹巣の魔当、五城目の馬場目、西仙北町のこころやり、山内村の三又、鳥海町の笹子(じねご)の5枚です。箕というのは、籾や玄米を運んだり、袋に詰めるのに便利だし、その他にも大事な意味を持っています。
太平はおいだらといってましたが、刈上げ節句の時、箕の中程に楕円形の餅を置いて、両脇に二本の鎌を内側に揃え、田の神に供え祝う信仰がありました。
それから歳の市には、箕が多く売られています。例えば大曲の歳の市は箕の市と呼ばれていました。それには太平と角館の雲然から箕が売りに出され大変賑わいました。
昔は箕一つが米一俵に相当するという時代がありました。田口さんがいうには、箕というのは、農家の富の証であるといっていました。それだけ高価で使いやすいものであるから、農家の人は買った日付や名前を書いて、大切に保存してきました。
それから箕造り道具、職人さんは道具というものを常に大事にしております。やたら他の人に触らせない。しかし、調査のため、田口さんが使っている道具を写真に撮らせてもらいました。最初にヤマナタ、ネマガリ竹や藤を切る時に使います。ノコギリ、イタヤやヤマウルシなどの太めの木を切る時、加工用のヨコツチ、太いイタヤの木を割る時に使い、これは普通の農家でも藁を打つときに使います。円く長い部分と手にもつ部分と二つになっております。
小刀、これも特殊な小刀で木を削るためで、角度があって使いやすくできています。削り台、マキリ。それからツカミ、からむときに内竹と外竹を固定するときに使う、コテ、これはみさきを絡むとき、先端が尖っています。これも鉛筆のようにまっすぐでなくて、ちょっと角度がついていて使いやすい。
このように箕を作る職人は、道具を自分で考えて、近くに鍛冶屋さんがいるので、頼んで使いやすいように作ってもらいました。
キリ。これは普通のキリです。これも大きめのキリです。竹切りノコギリ、竹を切る時のノコギリです。柄のところが曲がっていて持ちやすい。箕づくりの板、こういう道具を写真を撮って、寸法をとって、重さを計ってきました。
つぎに職人気質についてです。鍛冶屋さんを十軒以上、銀細細工は4軒、石工は1軒、昭和50年から職人さんを廻って感じたことは、どの職人も職人としての誇りと自信を持っていました。つまり天職だということを感じました。親から子、子から孫と代々続いています。土崎の武藤鍛冶屋さんも今は四代目です。長男と次男の二人で鍛冶屋をやっており、こんな例は珍しいです。
それから、自分の職業を大切に守り通す。職人としての誇りを持ってるから、自分の代で終わりたくない、子どもに引き継ぎたいという信念、情熱というのものを感じます。それぞれが皆、難しい言葉でいえば、哲学を持っております。哲学といえば何だかというと、信念だと思います。断固としてこれをやるんだと信念があるということです。ですから、話を聞いて感動することが多々ありますね。気持ちがうたれます。ちゃらんぽらんな気持ちで職人さんと接するとほんとに恥ずかしい、自分の生活が恥ずかしいと思います。
信念を持って、誇りと情熱を持って職人さんはやってきておりますが、問題がない訳ではありません。まず一つは、鍬でも鎌でも石工でも、手作業のものは機械化されて、需要が減少してきています。特に鍛冶屋さんの場合、鍬や鎌は今では機械化されて需要が急に減ってきています。
それから原材料、元になる材料が減ってきています。
箕づくりの場合も、若いときは裏の山にいけば、ふんだんに取れた材料が今はなくて、遠くまで行って、お金をだして買ってきています。それも年々、入手が困難になっています。
3番目は騒音。騒音問題は何かというと、これは武藤鍛冶屋さんの場合ですが、特に鎌を作るとき非常に音がうるさいそうです。
武藤鍛冶屋さんは土崎の踏切の手前の右側ですが、向かいも周りも全部住宅になり、だからうるさいうるさいと苦情があってほんとに頭にあがっています。そのもとになるのが、鎌をつくる時の騒音です。その為、すでにに鎌をつくるのを止めています。
他の所では、秋田市内では手形の消防署の近くに佐藤さんという鍛冶屋さんがいましたが辞めてしまいました。現在は牛島の踏切を越して右側に高橋さんという鍛冶屋さん、今65才ぐらいですが、この前電話したら、体調が悪くて仕事をしていないといってました。それから四ツ小屋の町外れに、鍛冶屋さんがいました。本荘市でも町の鍛冶屋さんは、騒音で町外れにいっています。
それから、老齢化しています。
昭和36年に、秋田県利器打刃物工業会という会が組織されたんです。会長が土崎の武藤吉之助さんです。その当時は80軒あったんです。秋田の鍛冶屋さんは鍛治町といって、佐竹の殿様が職人町としてあそこに、つくった。そしてここは鍛治町、鉄砲町と職人町を指定しました。ところが、今は売れない、つくるのに難儀する、うるさいといわれる、後継者がいなくなってきている。
五城目に長谷川さんという鍛冶屋さんがあったけれど、何回か訪ねて、一緒に酒を飲んだりしました。これから何とすると聞いたら、俺の息子、秋田工業高校にいってるけど、鍛冶屋はつがない、といってました。自分の子どもさえの鍛冶屋をやらない、まして高齢化、後継者がいない。
つまり、鍛冶は3Kだといいます。汚い、きつい、格好悪い。そういうことで若い人が嫌うから後継者難となっています。年をとって終わればそれで終わりとなります。いわゆる、職人の技を発揮する職業が衰退していきます。これは全国的な状況です。
これでいいかというとこれは困ります。鍛冶の場合は、例えば包丁を研ぐとか、ナタを作るとか、鍬だってつくっている。
この前、手形にある畑に行ったら、隣のカアチャンにいい鍬だというと、これは牛島の鍛冶屋さんから買ったといいます。六千円もしたという。スーパーの鍬はすぐ壊れる、鍛冶屋の鍬や鎌は高いけれども、長持ちするよといってました。
実際、一回一回心気を込めて打って作っているからです。
私の知っている範囲での、職人さんを取り巻く色々な問題があります。
今までのべたとおり、ではその対策はあるかというと、確かにその技術がなくなりつつあるのはあります。
箕づくりの田口さんには子供二人。二人とも後は継ぎません。田口さんは俺の代で終わりだといっています。近所に内職みたいに作っている人はいますが、お年寄りで、この技術は早晩なくなってしまうと思います。
他の諸職でもあると思います。無くなっていいかというとそうでもありません。箕の場合は、箕の里資料館を造り、箕に関する原材料から道具や行程を示して、保存する。
鍛冶屋の場合は、鍛冶会館を残したい。河辺町の鍛冶屋さんが最近亡くなり、後を継げない息子が町に相談したところ、鍛冶関係の会館をとのことです。一番いいのは現在の鍛冶屋さんをそのままそっくり残しておけたらいい。
できれば職人団地とか、諸職の里とか、岩手の手作り村のようなものをつくられたらいいと思っております。南部鉄のように実際に職人が作って販売できるようなものが秋田にもあればいいなと。
行政が手助けできるものはやって、販売面とか原材料を安く手に入れられるようにするとかが必要です。将来、職人会館のようなものを作って、職人の技を伝え残していってもらいたいと考えています。
我青春風来記 (126)
早海三太郎
メキシコU(8)
メキシコからカナダ・バンクーバー。三太郎を乗せた金田太平洋航空の飛行機はアメリカを飛び越えて向かっている。機内放送があって、もうすぐグランドキャニオンの上空だという。窓の下を見下ろすと、まさに地球の割れ目のような赤茶けた渓谷が続いている。
メキシコの日系女性のススキダさん。乗り物酔いの薬を飲んで元気になった。彼女、広島のお爺さんに会いに、初めて日本にいくのだという。
バンクーバーは緑の多い美しい街だった。案の定、日本行きの飛行機は既に出発していた。日本航空に乗り換え、ハワイ経由で日本に向かうと航空会社から説明があった。ハワイのホノルルで一泊し、翌早朝に羽田に発つ。これはかえって儲けた思い。夜のワイキキ海岸で泳げる。
ハワイ行きJALの機内の隣席は商社マンだった。ススキダキヨコさんの席は後ろの方。彼女が三太郎のところにやってきた。東京の住所を教えてくれとスペイン語。彼女の手帳に新宿区霞ヶ丘の住所を書き込んだ。三太郎は日本に帰ったら、松村謙三先生宅の近く、鷺宮の方に引っ越す予定だった。
後日、広島から彼女の手紙が来た。鷺宮のアパートに廻されてきた。日本語のカタカナ文字とスペイン語のちゃんぼんだった。
三太郎は一度は商社マンになりたいと思っていた。だが、キューバで革命の建設に目を輝かせて汗を流している若者達とあって、国づくりは面白いだろうなと感じていた。
隣席の商社マンに色々と訪ねた。彼は小さな商社に勤めていて、バンクーバーで木材輸入を手がけていた。日本から売れるものは何でもやっているという。ハワイに着いたら一杯やりましょうという。
ハワイ・ホノルルの日系ホテル。三太郎の部屋にやってきたその商社マンは、職業別電話帳を取って、しばらくページをめくって、何頁がバリバリと破って、ポケットにいれ、「さ、飲みにいこうか」
呑 風 日 誌 抄
3月4日(日)秋田市文化会館。企業文化フォーラム。カミサンと秋田温泉プラザ。
7日(水)川反迎賓館。川反先人慰霊秋田委員会役員会。中島康介会長、滝広明顧問、観音像寄贈者の石の勘左エ門社長・高橋正氏他12人ほど集まる。役員で迎賓館の菅原社長へ、赤坂の迎賓館の衛視長から頂いた迎賓館絵葉書を進呈する。慰霊委員会では本年7月4日に仙台藩志会一行を迎えて、川反観音像前で慰霊祭を執り行うこととする。お賽銭を管理してくださる角の山内さんに寸志を、将来仙台の国分町との交流を推進することとする。勘左エ門、久しぶりに皿回しを披露する。
9日(金)有楽町・山吹。昔、商工課で一緒だった清水川友吉さんの定年送別会。昭和49年のあの頃は皆若かった。
10日(土)山王・みずほ苑。秋田県地域づくり団体発表会。最優秀賞がヤートセ秋田祭、優秀賞が蝦夷(かい)ほたるの会(仙北町)十文字映画祭、角館トライアングル。仙北町の蝦夷ほたるの会は、町の将来に責任を持ち、住民ができることは住民自らが行うことを目的とし、自分達の活動がマスコミに登場しないようにしようと決めたということは立派。時間外手当を貰ってきて、挨拶をする若い役人は不立派。全国職人学会inあきたの工藤幸彦幹事長が特別報告、後ろで大漁旗の旗を持つ。
就職が決まり帰省している息子洋平と女房と、山王の「王芳」でラーメンチャーハンの就職祝。
11日(日)朝。夕日の松原(秋田市飯島〜天王町にかけての砂防林)のクリーンアップ作戦「松食い虫から守る」へ息子と参加。むつみ造園土木の佐々木吉和社長が昔からフェオス秋田としてやってこられたこと。佐々木社長と残雪の砂防林の枯れ枝を取り除く。息子は不法投棄の電気製品を運ぶ。松食い虫にやられた松の幼虫を見せて貰う。
12日(月)秋田キャッスルホテル。通訳の渡部道子先生の送別会。70人の盛況。二次会はぽらんで三田会の長谷山靖さん、立教の三浦義明さんと川反・鳥八。
15日(木)ふきみ会館。毎日新聞秋田支局長の渡部慶一氏の仙台支局長栄転壮行会。由利本荘出身マスコミ関係者を中心で柳田弘本荘市長、加藤鉱一岩城町長、横手市の佐々木部長、稲本俊輝経済法科大学経済部長。岩手の猿学者、中村民彦氏も駆けつけ16人。座配役の魁新報那須優氏達と館。
16日(金)みずほ苑。9人の海外技術研修生送別会。坂本バイオに紹介したトンガの青年からトンガ語を習う。アイラブユーは簡単でオファー。ありがとうはマロー。乾杯はオファートン。
17日(土)ふきみ会館。秋田NPO支援センター主催「NPOと議員の集い」キーワードは自立。
彌高会館。大正琴の花かげ会15周年祝賀会。大盛況。立派な佐々木松嶺先生の挨拶。元岩城町長の前川盛太郎さんから、夢とホラの接点を考えよといわれる。
19日(月)敬愛する村田設計事務所の村田弘さんと昼食。先々話。
20日(火)元秋田市議の井上英子先生宅。児童福祉司としての歴史を本にまとめる相談。外へ出たら、八代英太代議士秘書で旧知の滝沢氏とバッタリ。選挙のローラー作戦をやらされている。小林孝哉先生宅にふるさと塾講師のお願い。カミサンと秋田温泉プラザ。
23日(金)ふるさと塾。講師は秋田経済法科大学の佐渡友哲教授。「環日本海交流をいかに」をワークショプ形式ですすめる。ツバサ広業・舛谷政雄さん、テニスの高井善憲さんと三味線長屋すがわら。
24日(土)アキタニューグランドホテル。佐孝石油の佐藤孝之助社長、むつみ造園土木の佐々木吉和社長、秋田県団体中央会の齊藤信次事務局長、炭博士の鈴木勝男さん、坂本バイオの坂本賢二博士。松林に生える幻のキノコ、松露を探し、炭とバイオで松食い虫を予防し、松露の栽培する作戦。
横町のドラゴンで松露探検隊を発足させる。春になったら孝之助さんの知り合いで、松露取り名人と松露の探検をすることに。
25日(日)大内町農業改善センター。大内民謡の里づくり競演会へ。ー民謡の里大内町に民謡資料館建設の夢をのせてーがテーマ。役場裏庭の丘に楠木正成公の四男、正家公の墓がある。その前に植えた楠がいったん枯れたが、根本から枝を張り、伸びていてくれた。
阿倍力先生の大内にある伝説・砂鉄鉱山跡の発掘話は興味深い。競演会の副実行委員長としての閉会挨拶はできず、秋田市・膳菜やへ。渡部慶一毎日新聞秋田支局長の仙台支店長、七井辰男新支局長の歓送別会へ。盟友渡部氏が秋田を去るのは寂しいが、更なる成長を期待したい。山路で二次会。 26日(月)川反・鳥八にて、ひげをはやした大学後輩の畠山文夫氏とうどんの話、山王・館で多献。
28日(水)秋田倶楽部。秋田稲門会役員会。来年夏、グリークラブの公演の開催計画。若年役員達と川反・おでんの江戸中。
29日(木)川反・秋田乃瀧。ソリューションシステムの佐々木伸一社長、熊谷印刷の熊谷正司社長と英語教師ディビットと。秋田美人を嫁さんにして人口を3人も増やした元アメリカ海兵隊員の就職等について。斎藤育男社長も。
30日(金)東北電力秋田支店。秋田デレクターミーティング。秋田の特性、酒、樹、温泉をまとめたホームページを作成。バウハウスの森川恒さんと山王のラーメン・団十郎の一周年記念へ。職人学会の時、入船亭扇橋師匠がお世話になった料亭「入舟」の和食職人、牧野誠悦さん達と旨酒、市川団十郎から色紙を貰ってやると公約。