ふるさと呑風便  2001・3 
    サービス
  ☆☆☆☆☆☆
 
 高知の新聞と地元紙に載ったまごころこもる温かい話。
 ほんとうのサービスとはこのようなものだと感涙した。

「高知の日本料理店・司にある日、会津若松の消印の押された手紙が送られてきた。差出人は元高校の校長先生。苦楽を共にした奥さんを定年前に亡くし、冥福を祈るため四国八十八カ所の巡礼巡りをし、最後に立ち寄った高知空港の日本料理店の司に入り、ビール一本と土佐名物のかますの姿鮨一人前を注文した。加えて、「申し訳ありませんが、グラスは2つで」と。
 注文を受けた若いウエイトレスは、どうしてグラスが2つ必要なのだろうと不思議に思いながら、指示に従い、まずビールとグラス2つを出した。すると、客は女性の写真をテーブルの中央に置きその前のグラスにビールを注いだ。手にしていたグラスにもビールを入れ、乾杯した。
 ウエイトレスは、お客さんは亡くなった奥さんの写真を持って巡礼巡りをしてきたのだろうと思った。そこで、鮨ができあがって運ぶ時に、箸と箸置きを2組、小皿を2枚持っていった。
 元校長先生の手紙には次のように書かれていた。
「四国への旅には、家内の写真と一緒に出かけ、食事時には一緒にビールを飲みました。しかし、お箸と小皿を2人分出していただいたのは、おたくの店が初めてでした。驚きました。感動で体が震えました。帰りの飛行機の中では、涙が止まりませんでした。本当に、ありがとうございました」(商工情報・13.2.11付け)

 この2月初め。ハワイの秋田県人会会長の足利緋寿さんから仕事場に年賀状が届いた。「他の課に移ったかもしれませんが、私の記憶には佐々木様が残って居ります・・」とあったので、覚えていただいて光栄ですと、返事をだした。
 その足利さん、四国・愛媛県の宇和島水産高校の実習船衝突事件で、まごころ秋田を発揮された。

 ホノルル日本文化センターで最初の記者会見の席上、堀田校長の口から、「事故後の支援について領事館や日本政府、そして秋田県人会などに厚くお礼を申し上げたい」
 秋田県人会とは会長の足利緋寿さんのことであった。彼女は事故後にすぐ、沿岸警備隊に駆けつけた。2人いた領事館員は事故報告を日本政府に連絡するのが精一杯。足利さんは生徒や乗組員のお世話や警備隊との通訳を4日間、不眠不休で世話をされた。生徒達がアラモアホテルに移った後も、動揺し疲れ切った様子の生徒達のもとに連日訪れ、不安の除去に努められた。(秋田魁新報・13・2・18付より)

 先日、高知の親友・浜田慎吾に電話した。日本料理店・司のかますの姿鮨、2人前を送ってくれるようにと。
 ハワイの足利さんへは、彼女のことが掲載された秋田魁新報の記事を送り、秋田まごころ大賞の候補にさせていただきたいと。

 日本の最大のサービス業であるべき政官が汚れた金まみれのていたらくの中、ほんとうのサービスとは何か教えて頂いた。金偏でなく、人偏である。高知のウエイトレスさん、ハワイの足利さん、真にありがとうございました。

ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年6月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「秋田の職人」(1)
★渡部 景俊氏(秋田民俗学会理事)

 県庁の農政部に長くいまして、退職して10年になります。
 この前、たまたま佐々木さんとある会合で一緒になりまして、今年10月に職人学会をやるので、何か職人の話をと頼まれました。
 そこで今日、「秋田の職人」について話をしてみたいと思います。
 私が職人の話をするのは、鍛冶屋さんとか箕をつくる人とかで、昭和40年頃から調査して、職人は20人ぐらい知っております。
 平成元年と2年に県から依頼されて、、秋田県の諸職という調査をやっています。意味は日常、私たちが使っている様々な生活用品や、用具類の制作加工を伝統的に手仕事で行う職。つまり職人のことです。
 これは行政用語で、私はあまり好きでないですが、「職人」とはどういう意味か、辞書で調べてみました。伝統的工芸や手工芸、具体的にいいますと、大工さんや左官屋さん、植木屋さん、鍛冶屋さんなど自分の身につけた技術でものを作ることを職業にしている人達の総称であるということです。

 さて、平成元年と2年に、155人を対象に調査しました。調査員が延べ51人で、私も2年間にわたって、6人を調査しました。 一人は石工(いしく)です。男鹿の五里合に嵯峨礼次郎さんという当時、80歳で、その方は石屋を子どもの時からやっていました。石屋はまず石を捜すこと、つついた場合、この石はどのくらいの大きさで、石の善し悪しがわかるように覚えなければいけない。石を割る技術を覚え、石の裏表を知るようになるには10年も20年もかかということです。
 石屋はまず石を捜すこと、つついた場合、この石はどのくらいの大きさで、石の善し悪しがわかるように覚えなければいけない。石を割る技術を覚え、石の裏表を知るようになるには10年も20年もかかということです。
 寒風山の麓は安山岩系統の石がたくさんとれます。あそこは火山岩です。ところが行って驚いたことには、端的にいうと八橋の野球場の半分ぐらいの広さが円く陥没したようになって深さは3bから5bぐらいあります。それだけ石がとられているということです。
 秋田市旭川の土留めの石垣を、「おら若いときやった」という話をしてました。
 石垣の石というのは一尺、一尺2寸の長方形です。石を積むときに間に砂や砂利を入れて、直角にきちんと積む。石を割るときにはハンマーで穴を空けて、先の尖った鉄をハンマーで叩く。そうしてまっすぐに割っていくのです。
 
平成2年は、秋田銀線細工です。3人調査しました。一件は細川久之助さんで、大町5丁目の細川貴金属。それから大町2丁目、竹谷祐助さん。3番目は竹谷徹三郎さん。この3人の金線細工の事細かく話を聞いて、記録にとって県に報告しました。
 皆同じ様な作り方です。竹谷本店には、角館で彫金といいますか、それを20年やって竹谷本店にきて銀線細工をやっている人もおります。面白いといったら語弊があるでしょうが、太い銀線をロールにかけて、平べったいものにするんです。それから模様を作るんです。二つのパーツをくっつけるのは硝酸に何かを溶かしたものつけて、ガスバーナーで火をバアートとやれば絵描きと同じようにつくわけです。そういう模様を組み合わせて、ブローチの花を作ったり色んな模様を作ります。このもとになるパーツを作るのが難しい。程良い彎曲につくるのに5年も10年もかかるそうです。
 この銀線細工は長崎の平戸が発祥です。そこから秋田へ入ってきました。おそらく他の県にはないようです。これにもっと関心を持ってもらって、事業を掘り起こすようにしたらいいなと思います。
 先年、全国の女性教師の大会が秋田でありました。その際、秋田の特産品がお土産に銀線細工を考
えたら良かったのではないでしょうか。1万円そこそこのブローチでも、一つのPR効果もあったと思います。

 それから土崎の鍛冶屋さんです。武藤吉之助さん。この方は男鹿の脇本で、昭和50年来の付き合いです。鍛冶の仕方、鍛冶の作り、色々な問題点を聞いてきました。

 それから鋳物の武藤金悦さん、秋田市添川の、今、出席している、長男の方でしょう。あの節はお世話になりました。(笑い)平成2年に行った時に、お父さんから、この方にも聞いてきました。
 お父さんは「なんぼ上手に作っても魂が入っていなければいけない」ということをよく私にいっておりました。「ただ格好だけ良くたってだめだ、魂が入っているかどうかはおら方見ればわかる」こういうお話でした。

 それから職人の技術です。まず鍛冶やさん、秋田市土崎の武藤吉之助さんです。この方は現在85歳で、伝統工芸の賞をもらっている方です。秋田県打刃物工業組合という鍛冶屋さんの組合、23人ですが、一頃は85人ぐらいおったそうです。
 鍛冶は火を扱うものだし、よく相づちをうつといいます。親父さんがいれば、奥さんか息子さんが相づちをうつ、鍬なら鍬を打ちます。何故打つかというと鉄の板を広げていくことと、打つことによって固いか柔らかいか判るそうです。あるいは厚さが判るそうです。ただ単に叩いているのではなくて、その反応によってそこが厚いか薄いかが判る。5ミリならでの一定の強さが保たれるように、相づちを打ちながら叩くんです。
 これは大仕事で、今は機械で叩いています。鍛冶屋さんも機械化されてきています。

 職人は14歳ころから住み込みで、朝4時頃から起きて晩は6時頃まで働きました。10年間働いて初めて親方から一人前に認められるけれども、お礼奉公といって2年間、お礼のための手助けをして初めて、一人前になって巣立っていきます。その間、食い扶持は一切親方が持つのです。
 私の知っている畳屋さんは余り切なくて、新屋の実家に夜中に逃げたそうです。そしたら親方がきて連れ戻したという、昔の職人の徒弟制度は厳しい。厳しくなければ、伝統技というのは伝えられないのでしょう。

 それから竹工、箕ですね。これは秋田市太平に田口昭平さんという人が、箕の専業農家です。箕は太平と角館の雲然が二つの産地でした。昔は西仙北町にもあちこちに箕を作る人がいました。
 ところが需要の減少で、現在は田口昭平さんがただ一人、専業としてやっています。
 箕の販売は、毎年青森へ行って販売されます。昔は箕を専門に売る母さん方がいて、方々村々へ行って売った訳です。
 私は若美町ですが、親父が箕を売りに来るので買うものね。それは太平の箕でした。
 箕を買うと、買った日を書きます。そして「渡部」と名前も書きます。今、箕は一つ一万五千円らしいです。昔もそんなに安くなかったから、農家の人は、農具としては貴重品でした。
 太平に勝手神社というのがあり、それが箕の神社です。太平の黒沢が箕の産地だった理由は三つあります。
 一つはあのとおり山があります。材料のイタヤの木があります。
二つめは、田んぼが少ない。収入を確保しなければなりません。職業として取り上げた。三つめは城下町秋田市に近いことです。
 太平の箕づくりは冬から春にかけて、全く手で作ります。機械は一つもありません。手作りのため1日に1枚程度です。見ていると本当に気が長くなければ出来ないと思いました。箕の大きさは大中小の三つあって、中が標準です生産量は、昭和30年頃は5万枚、現在は2千枚ぐらいです。
 何故箕というのが重宝かというと、籾や玄米を運び、袋に入れるのに先を狭くしてできる。軽いし、大抵の農家では2、3枚持って大切にしてきました。(続く)

我青春風来記 (126)
   早海三太郎
  メキシコU(7)

 メキシコ空港のカウンターにいた隣の日系人に助けられた。旅行会社からチェックされた航空券を見たらといってくれた。急いでトランクをあけて、キューバから使ってきた航空券を取り出す。カウンター越しに見せると、これでいいですという。
 メキシコの旅行会社社員のの英語を生半可に聞いていたのだ。ほっとした。これで日本に帰れる。
 バンクーバー経由のカナダ太平洋航空機に乗り込む。窓から外を覗く。メキシコはサボテンの緑と砂漠の土色のイメージだ。やらた人好きのする民族。ロスからメキシコシティまでの長距離バスの乗客ホセ、女子大生マリア。ホテルモンテカルロの幽霊、キューバで会ったメキシコのマリアアントニオ、アカプルコのアルモニア兄妹。再び訪ねたい国メキシコ。
 そんな想いにふけっているが、灼熱の飛行場に止まったまま一時間。やっと整備不良
で離陸が遅れるとアナウンスがあった。これではバンクーバーから日本行きの乗り継ぎ機に間に合わないだろう。
 さすがアスタマナニャーナの国メキシコだ。
 
 2時間遅れで北アメリカへ向かってやっと飛び立つ。午後2時。バンクーバーに着いても乗継機には間に合いそうもない。心配しても仕方がなく、三太郎はトイレに入る。 小さいのだから、鍵をかけるのは面倒としなかった。用を足して出ようとドアに手をかけた瞬間、外からドアが開けられ、大女の顔が目前。ワアッーと悲鳴をあげられ、英語で鍵を閉めてくれとか叫ぶ。こちらだってビックリだ。相手は金髪で鼻の高いのスチュアデスだった。客席に戻ると、通路ははさんだ隣に、若い日系人女性が苦しそうにしている。スペイン語でどうしましたかと聞く。どうも飛行機に酔ったらしい。鼻の高くない別のスチュアデスさんを呼び止めて、飛行機酔いの薬があるかどうか聞いたら、あるという。小鼻のあどけない日本人女性に薬を持ってきてもらった。彼女は喜んで、「ワタシハ ススキダキヨコデス」と。

呑  風  日  誌  抄
 2月2日(金)秋田市大町・地ビールのあくら。環日本海友好交流の懇談会。太田宥子会長、小松正夫、佐々木義廣、嶋田信子、佐藤俊彦委員と。富山県の話等。山王材木の佐藤俊彦社長とNSビル地下ニューサボイで卓球の話。
 3日(土)夕方。山王・しの八。阿仁町町議の山田博康さんが熊肉と阿仁の床下正宗持参で、一献。
 サガンで二次会。その間、女房が家で一人で豆まき。福は内、鬼は外、みちお外。
 4日(日)女房と秋田市御所野の東京インテリア、土崎温泉アッタマリーナ。
 5日(月)秋田魁新報、住吉記者の書いた「照る日曇る日」に岩手の野猿学者、中村民彦氏のことが掲載される。野猿博士からの電話あり、猿情報は岩手の中村氏へ。
 6日(月)秋田駅前人情酒場。ソリューションシステムの佐々木伸一社長、薬剤師会の鳥海良寛氏と、佐々木氏、何億の仕事がイスラエルから入った話。川反にて、ルーマニア語教室、ありがとうはムルツメスク、美しいはフルモアサ、スペイン語に似ている。馬鹿はプロスト。ちなみにスペイン語で馬鹿とは、トント。
 10日(土)カミサンと土崎温泉アッタマリーナ。
 11日(日)生涯学習センター。大雪。神武天皇御即位皇紀2661年紀元節。ツバサ広業主催。
 ビデオ鑑賞が、国家創世記伝「大隈重信」であった。大隈重信はで長崎外国事務局判事時代、31歳。イギリス公使パークストと堂々と渡り合った。
 高校時代の恩師・小林孝哉先生からいい話。東京にいる教え子の女性たちが会を作った。名称が「あげき会」、生徒に愛され尊敬された小林先生は生徒達にいつもいっていた。「あかるく、げんきで、きもちよく」それがあげき会となって、他のクラスの生徒達も入会しているときいた。先生にふるさと塾での講演をお願いしたい。
 雄和町での地域づくりフォーラム。「衰退する秋田をいかにして元気にするか」英国国立ウエールズ大学助教授の井崎義治先生。湯布院とアメリカ・サンアントニオ、ラスベガスの例をだされる。
交流人口を増やし、非日常体験、楽しさの提供が必要だという。
 秋田市大町・ペペロンチーノ。佐賀の大草さんが秋田の仲間と西木村に紙風船を上げに来られた。
二次会が川反・鳥八。
 14日(水)渡部慶一毎日新聞秋田支局長が仙台支局長へ内示。2人で通町・唐なすにて送別会。この日まで義理チョコ計3個。
 17日(土)NGO列島縦断フォーラム東北ブロック大会。ジョイナス。農業技術による国際協力を聞く。大町ビルでの懇親会。開発途上国農業開発機構のオイスカインターナショナル開発課長の萬代保男氏も来ていた。二次会に誘い川反・レディ。昔、風来坊時代、猪もでる松山の開墾地に関谷大三郎さん宅にいた。萬代氏も行ったことがあるという。息子の隆夫さんが横浜港からスリランカへ農業開発に旅立つのに見送った。それから彼はマラリアで死亡。萬代氏と隆夫氏を偲んで献杯。
 21日(水)中国・極東ロシア経済交流セミナー。平安閣。日本貿易振興会主催。「ロシア極東の経済産業状況と交通網整備」
 22日(木)湯沢温泉。嫁来いトラクターデモをやった湯沢青年会議所副理事長の快男児、阿部剛さんの依頼。昔の仲間と飲みたいからと、コミュニティ放送・湯沢ユートピアにて、地域づくりの収録。終わって佐藤正一郎羽後町長、稲川町の川連漆器・藤原信好さん・稲庭うどんの佐藤信光さん達。
 23日(金)ふるさと塾。講師は秋田中国経済交流促進協議会の佐藤孝之助さん。中国留学生のお父さんでもある。「我が人生」と題し、美しい爺さんになりたいとの感動的なお話。佐々木啓助事務局次長と割山の佐々木文博さんから誘われ、ペーチカを見に行く。
 24日(土)東由利町有隣館。辻幹雄11弦ギターコンサートへ。雪上野球10周年記念前夜祭でもある。素晴らしい演奏会。東由利町出身小野耕輔作曲の「お山の細道」も演奏してくれた。
 雪上野球にも参加される辻親子、元気の出る町の阿部幸悦町長達と辻黄桜温泉にて懇談会。小野克弘東由利をおもしろくする会会長、小松幸輝総務部長達とパブレストラン「ブフ」マスターが本荘高校のボート部出身だった。
 明日のたけし軍団との先発は当会の野呂克彦投手に決定。秋田市の彼に予告電話。末広旅館に帰ったら従業員は誰もおらず、部屋もない。空いてる部屋の布団に潜り込む。
 25日(日)末広旅館では、予約されてないことがわかった。夜勤の人の部屋の布団に潜り込んだことになる。朝食後、東由利町野球場へ。積雪1b。秋田県選抜雪上野球大会開会式にて挨拶。面白インターナショナルチームでミネソタ大学のモック先生とバッテリーを組むが東由利チームに予定どおり敗退。辻軍団も頑張った。
 別会場にて、たけし軍団と選抜チームとの対抗試合を観戦。吹雪でコールドゲームになりそうだったが5対4で秋田チームの勝利。たけし軍団の井出らっきょうのチンプレーは伝統のある雪上野球を汚した。黄桜温泉にて交流会。石井千万太郎日本雪上野球連盟会長の挨拶。交流会にて大森町の大森ワインと東由利町特産、フランスカモのパックが生まれた。雪上野球は地域興しイベント。
 26日(月)今までの歯科医が破壊者で、山王有明歯科へ。有明先生は八戸の小倉ゼミナールの小倉秀彦教授の親友。すっかり治して貰うこととする。