ふるさと呑風便 2001’2月号
  
機 密 費

 ☆☆☆☆☆☆

 外務省の機密費が競走馬のアケミボタンやアケミタンポポに化けた。公金を横領した元要人外国訪問支援室長は、花が好きだったらしい。

 昔、キューバの日本大使館に招かれ、大使から日本庭園の池を自慢された。鯉がうようよ泳いでいる。暖かいところだから成長が早いんですよといわれた。
 先年、東南アジアを訪ねた際、某大使館の職員が遊びに来た与党代議士の夫人達を夜の接待したと聞いた。

 キューバの池の鯉も、代議士夫人の接待費も機密費で賄われたのかと勘ぐってしまう。

 去年の今頃、外務省の要人が東北の冬祭りをみたいと秋田にきた。角館町の火振りかまくらを紹介し、角館の友人から案内してもらった。元自治大臣の田川誠一先生を案内してもらい、後に礼状を先生から頂いている彼。イギリス人はよかったが外務省のは、鼻持ちならなく不愉快だったと電話で怒っていた。

 翌日の夕方。私は男鹿のなまはげ祭りに外務省要人を案内。宿泊先で名刺を渡したら、日本の外務省の役人はよこさない。一緒についてきた外郭団体の女性に、これから3人で夕食ですかと聞いたら、「いえ、私は別です」
 後日、その若い外務省高官が多くの経済協力に関する著書を出しているのを新聞で見た。読む気にはなれない。

 2月14日付け読売新聞に外務省局長級には毎月50万円づつ機密費が割り当てられているとあった。それが私的な飲み食いにも使われている。 東北の冬祭りに遊びに来たその外務省要人は、機密費を使ってきたので、多少の後ろめたさがあって名刺を渡さなかった、のではない。要人以外には用はないといった神経のエリート意識が遺伝子として醸成されているからだろう。 要人ではない松尾元室長は、機密費55億円のうち、9億円を用立てた。残りの国内機密費19億円は外務省高官の私的な飲食に化けたことも知っている。年間一千万円も会食費を使う局長もいる。

 ボタンとかタンポポと愛人の名前を公金で買った競走馬につけた自分は、まだましだと思っているのかもしれない。

 毎日新聞1月7日付けに政治部記者の七井辰男氏(秋田支局時代秋田美人を嫁さんにした男)が書いている。中央省庁再編が始動したことで、「病理的構造の芽、摘め」との見出し。「日本社会では、権力は実体として現れるというより、タテ社会上下関係の中で現れる。主体的な個人がなく、権力の所在があいまいだから、失敗した責任もうやむやになる。中略ー官僚機構は、この無責任体系に基づいて作られている。犯罪を犯さない限り、省庁の幹部が首を切られることはまずない」

 病的な外務省の構造の芽を摘むにはまず、機密費を飲み食いしてきた高官に公金返還をさせるべきである。

 秋田県庁では飲み食いの不正支出43億円をほぼ職員全員で支払っている。身に覚えがない私も、毎月1万円近く払い、あと七年もかかる。

 花の好きな機密費の松尾元室長は、ボタンの花言葉を知っていたであろうか。壮麗、恥じらいである。タンポポはまごころの愛、神のお告げ。

 我が家の財務大臣のカミサンに機密費が欲しいといったら、要人でないのでダメと告げられてしまった。


  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年3月25日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「茶町遠くて」
  ー市街地町内会のまちづくり
★中谷久之助氏(茶町梅之丁町内会長)

 ふるさと塾という名前に惹かれてやってまいりました。
 私、昭和52年から町内会長をやっています。20数年なるわけです。我が町内会は茶町梅之丁といって、何にもやらないところだったんですな。運動会もやらなければ、総会も決算書もなく、大切なお祭りの行事も、神社にお金もださなければいけないし、募金だとかをまとめて会長さんがやっていて、他にはほとんどやっていませんでした。私もそれでいいのだと思って引き受けてきました、

 しばらくそうやってきましたが、最近はそういうわけにもいきません。決算書ぐらいはつくります。総会も毎年はやりません。

 今の町内会というのはあの会、この会といって、しこたま色んな会があってね、とても一人ではやりきれないのですけれども、現在は私一人で、何々部長は欠員だとか、兼任だとか適当に書いてやっています。各町内には事情がありますから、理解してもらっています。我が町内には昔から住んでいる人は5人で、あとはマンションです。三つできています。全部で140世帯ほどあって、一つのマンションは出入りが激しく、難しいマンションで、他のマンションは管理組合をつうじて、町内会の方をやってもらっています。

 そういうふうに町内会をやってきてるわけですが、お陰様で余裕がでてきました。

 前々から私、考えていましたが今回出したこんな本ではなくて、茶町梅之丁の記録を残しておこうと。昔の大町3丁目、鍛治町、上肴町の記録がありました。茶町記録というのはないわけです。

 これは俵屋火事のせいじゃないかと思っています。大町3丁目記録があったのは、那波家あたりで俵屋火事で助かった家ですから記録が残ったのではないかと勝手に思います。

 そういうことで私はちょうど平成十年から秋田市から市史編纂委員会の旭北地区調査員というのを委嘱されました。そういうことも含めて、町内の記録をと拍車がかかってきました。

 昔のことはいろんな文献をみて、それから他の町内会のことを引き抜いてきてもってこようと考えました。それから現在私が知っていることを生まれたときからのことを基礎にして、つくろうと。調査員をやっていて、家の古文書を記録に提供しているうちにはまってしまいました。調べていくほど新しいことがわかってきて、今度止められなくなってしまった訳です。(笑い)

 お恥ずかしいですが、昔の文献から拾って書いたけれども、それでも一つの文献にたよらずに、図書館に何回も足を運んで、別の文献も調べてやりました。

 最初、ばあっと書いてみて、私の弟にも見せたら、「兄貴、活字になってでるとしたらいい加減なことではダメだよ」といわれ、私もこれ初めてやるもんですから、弟は印刷所にいてこんなことをよくわかっています。なるほどそうだなと、2回も3回も洗い直して推敲というのをやって、こうやってつくったつもりです。これでも満足はいってません。やはり恥ずかしいところもあります。

 これを我が町内分だけつくって配ったところ、あんまり薄っぺらなので、周りの町内のこともやって、関連したエピソードまで入れてと考えたわけです。

 他の町内会のことに関しては、茶町梅之丁のことを書くにあたっては、那波さんのことには非常に僭越だと思い、私のわかっている範囲で記載して幅広くちょっと書いたわけです。後になってみれば、近隣の町のことを書かなければ、評価の度合いも少なかったのではないかと思います。

 新聞で発表されてから、あちこちから欲しいときまして、もしうちの町内会のことだけであれば恥ずかしいことだったかと思います。これが出来たときに、茶町梅の丁史という題でした。何だか面白くない。ある時、ネーミングにこの言葉を思い出して、弟だとか友達に話したら、そりゃあいい、素晴らしいと。茶町とぎくて、と言うのが秋田弁ですが、遠くてといったほうが一般的でいいと思いました。ちょっと品良く構えてしまいました。

 茶町遠くてというのを後につけてしまったので、その意味ですが、昔から受け継がれてきた風習で、思いがけなく来客があった時など、お茶請けに甘いものがなくて、持てなしが不十分なときに言い訳によく使われた言葉です。

 この本をもらった人から、この言葉にはこういう意味があるとか手紙をもらいました。お彼岸になれば親戚同士、お寺でぼた餅のやりとりをしたもんです。そして甘みが足りないと、おや、これ茶町とぎごと、といったものです。
 というのは、昔、茶町でなければ砂糖が売ってなかったんです。

 こういうふうな、言い訳によく使われたものです。今でもちょこっという人もいるくらいです。私も当然聞いています。これを知っているおばあちゃん達がこの本をみて非常に喜んでくれました。このことを詳しく書けば良かったと今、非常に後悔しているところです。だけどもこんな形にできました。私共の町内のこととしては、調べていったら、意外なことにぶつかりました。

 一つはすずらん通の角地で今、空き地になってますが、今度レストランになるらしいです。そこは私共が子どもの時は、野村生命で保険会社でした。その昔は、日東館といって観商場でした。物産展示の場所でした。日東館の歴史をみれば、色々なことがあります。商品を実演を見せて販売するようにと、金持ちの人達が金を出し合ってつくったものですな。当時は斬新な商法でした。後に今の北都銀行本店の場所に観商場、物産館ができましたが、我が茶町梅之丁は観商場であったわけです。

 その頃ちょうど、秋田駅が向こうの長沼にできた。ほんとは川よりこちら側に奥羽線を通すとがんばった人もいるんです。向こうにいってしまったものですから、商業圏が駅前にいってしまったのですな。

 今の国学館高校、昔の敬愛高校は、女子技芸学校といって、そこに商工会議所が入ったり発展途上の場所でした。

 強首の大地震の時に、電話局の交換台がダメになって、一時、日東館に移ったことがあります。
 茶町の昔は、佐竹侯が秋田にきてから、町割りをしてこのあたりを茶町としました。その町割りをやった人の子孫が我が町内にいました。船木靭負という人が、安藤氏の時代からの人で、佐竹侯になってからも久保田の町割りをした功績があって、千秋公園の秋田八幡神社の境内に立派な石碑があります。この子孫が城町で庄屋をやっていて、茶町梅之丁にきたわけです。明治の頃ですが、船木四郎治という人で、秋田の市会議員をやった人で、その人の息子が私の家の隣の大きな薬屋、大島衛生堂の番頭さんでいました。戦争中は子宝に恵まれて、12人もいて私共の遊び仲間でした。

 もう一つ昔のことで、寺子屋ですな。有名なのは何と言っても赤津寺子屋です。これは日本でも7大寺子屋といわれたくらい大きな規模でした。これは学校みたいでした。百何十人もいました。昔の郵便局あたりにあったわけです。秋田県教育の元祖といわれています。色々な古い文献をみてみますと、赤津寺子屋というのが必ずでてきます。実は私の家も古いものですから、家から赤津家に養女にいったものがいます。ユキという人でそこで先生をやっていました。菅原神社に筆塚といって石碑にありますが、調べてみますと横にどんどん広がっていきます。だから面白みがあってやめられないんですな。(笑い)

 赤津さんの寺子屋は明治の学制改革でなくなったのですが、廣要堂という寺子屋が茶町梅之丁にあったと石碑にあるんですな。ところが、その場所がわからないんです。実はこの子孫をみつけたんです。八橋のおでんつあん、土人形を作っている道川さんが子孫です。道川清兵衛という人が先祖で、ちゃんと過去帳にもあるんです。そこの人に本をあげたらとても喜んでもらいました。面白れかったすな。(笑い)

 こういうのが私の町内会の古い三つの自慢できることです。

 後は那波伊四郎商店で、私もそこに40何年間勤めましたから、那波本家のことも通じて、詳しく勉強してきているつもりです。文献では本家のことを間違ってかかれている場合もあって、私ぐらいは当主の三郎右エ門さんのところに何度も行って、「これでよぐあんすか」と話をきいて分家の那波紙屋のことも書きました。

 明治11年に茶町にきました。ご本家から女の人がきて養子をもらって、紙屋ができた。那波伊四郎商店といいますが。元祖は、俳句で有名な吉川五明といって、那波家から吉川惣右衛門という豪商のところに養子にいって、川尻に引っ込んだわけですその人の五代ぐらい後に伊一郎、伊三郎、伊四郎といたらしいんです。その伊四郎が紙屋に養子にきたんです。それが初代です。それで面白くなって、ついでに紙屋の系図までつくりました。今の社長だって詳しくはわかりませんから。(笑い)

 たかが町内なんですが、そんないきさつで、那波伊四郎商店はしばらくの間、座売りといって、土間があって、畳敷きの座があってその上でものを売っていたんです。先代は慶応大学でてバリバリの人でしたが、自分の店は昔ながらでしたな。東京で新しい商売の勉強には、自分が行かないで、私におめ行ってこいといって社長の代わりに行ったものです。東京で習ったのはお客さんより高いところで売るのはとんでもない話で、お客より低い位置にいるのが本当だと。だから、よく秋田の商売は殿様商売だといわれました。

 結局、今の年雄さん(五代目伊四郎)が来てから座売りをやめております。
 あとは分家の那波薬屋さんとか、はかりやさんがあります。今はマンションになっていますが、はかりやさんは半官半民の商人でして、お上から保護をうけたものです。計量検査所のはかり検査のまえに、はかりやさんから検査してもらったものです。無償でやってくれて、有り難かったものです。

 先に話した大きな薬屋だった大島衛生堂。その跡取りでもあったのに、劇作家の青井舜二郎がいます。今の農業会館跡の佐文というところから佐藤文雄といって画家で有名な人がでています。この二人は幼なじみで幼稚園から秋田中学まで一緒で茶町からでた著名人です。青井舜二郎が小説で竹下夢路のことを書いているんです。秋田美人や、佐藤文雄のことも書いているんですな。

 町内会の自慢できることを探せたのは町を活性化するための第一歩ではないかと思います。

 秋田市の市史編纂委員会の調査員をやったのがきっかけで、色々記録を調べていって、このふるさと塾のように地域の活性化のためにがんばることほど楽しいことはないなと思っています。


  呑 風 日 誌 抄
 1月1日(月)大内町の実家で21世紀。朝、とろろ飯を3杯以上食べないと今年も健康に過ごせないという風習がある。4杯食べて秋田市・彌高神社へ初詣。北嶋昭宮司と泉彌高神社へ。祭旦祭に出席。神社参詣帳を持って、新屋日吉神社へ初詣。
 3日(水)秋田市千秋久保田町・靉。秋田箱根駅伝の会。テレビ観戦をしながら、箱根駅伝出場者達と多献。今年は法政が活躍し、ゴールを切った後、大東文化出身の由利タイヤの阿部部長が同僚だった法政監督に携帯で電話し、健闘を祝す。駅前鎌田会館にて二次会。三船新次先生の祝賀会の話。
 大学ラグビーで法政に負けた慶応の上田監督から、法政OBの渡辺哲夫氏に法政はデフェンスが強いとメールが届いた。
 7日(日)秋田市下浜・大友康二先生宅。秋田まごころ大賞授賞式の相談。今年は戦後から音楽で県民を励まされたNHKのど自慢アコーディオン奏者の鈴木富雄さんが授賞。副賞に大友先生自筆のまごころの詩を木版をすることに。審査委員の国土庁と叙勲を受けられた能登文敏、新野直吉両先生に面白い記念品を考えることとする。5曲の歌詞を用意すること。ふるさと、浜辺の歌、青井山脈、高校3年生、そして秋田県民歌。
 8日(月)しばし男やもめ。大友先生の奥さんから頂いた透明の袋入り七草をディジカメで撮る。女房から電話で七草粥をつくる。味は、中から輪ゴムが出てきたがまあまあ。
 10日(水)大内町公民館。大内民謡里づくり委員会。今年も副実行委員長になっていた。春一番3月25日に民謡競演会を開催。
 11日(木)白根病院に行ったら胃カメラを飲む羽目になる。ふるさと塾人間道場カラオケ大会初代チャンピオンの父親、検査技師の藤崎さんから親切にしてもらう。医師からは胃はキレイと。
 12日(金)秋田ニューグランドホテル。秋田青年会議所新年会。二次会は川反・鳥八。土崎の前秋田商工会議所青年部長・近藤隆平氏と林工務店・林康夫専務と3人。二次会は3人で飲るのがいい。
 14日(日)夜、雪で秋田行きをやめたと、新潟に息子の墓参りに来たペルーの太田光成さんから電話。十一弦ギターの辻幹雄さんから二月二十五日の雪上野球の前夜祭としてライブの相談。会場の東由利町は音楽家小松3兄弟を生んだ音楽の町だからいいアイデア。東由利町の小野克弘事務局長。たけし軍団との雪上野球相談。
 16日(火)夕方、秋田市手形のあきたNPOセンターへ。17日、5時46分。阪神大震災犠牲者追悼の為の大きなローソクが届いている。菅原雄一郎会長と山王「館」にて二人で新年会。
 17日(水)秋田市土崎の大和ホテル。高橋十郎さんや阿部直耕さんがつくった異業種交流会「ほくわ会」の新年会。「縁義」との題で講演。良き仲間がおられる。 阪神フアンの吉田寮さん紹介の土崎にあるスナック・ルイ。新入団の反骨投手・藤田太陽のお母さんの店は次回に行くこととする。
 19日(金)天王町・秋田県教育センター。「地方分権推進職員研修会」元北海道鷹栖町長の小林勝彦氏の講演。分権は与えられるものではないと。ニセコ町のまちづくり条例、敬愛する前山形県金山町長で岸宏一参議院議員の話。
 彌高会館にて、恒例の県庁大内会新年会。OBや大内町役場の課長以上の方々との懇談会。二次会は幹事3人で駅前「久保田」
 20日(土)アキタニューグランドホテル。秋田県日中友好協会女性委員会総会。懇親会へ。婦人委員会は昔、事務局がふるさと塾事務所と一緒だった。沢石昭子会長とあの頃は楽しかったと話す。
 23日(火)彌高会館。宮城県人会へ。川反観音像を建立した縁で呼ばれ、初めて出席。木内昭前会長達と駅前民謡会館内にある「たまり」で二次会。宮城県民歌を調べることとする。
 25日(木)秋田市大町・ADビル内・三浦義明さんの店・ぽらん。東京6大学野球連盟主催で元法政監督故桜田昭一氏を偲ぶ会で挨拶。佐々木満会長の献盃。毎月6日に集まる話がすすむ。東京の染宮製作所の染宮公夫社長が来てて、オルガニートへ。まごころ大賞受賞者鈴木富雄さんの店。朝日新聞の友野記者が取材。
 26日(金)ふるさと塾。「雪国の地域づくり」と題して、秋田雪の会運営委員長原田健司氏の講演。水の話から非常に為になった。ツバサ広業の舛谷政雄さんと山王・サガンへ。大内出身のママ、鹿児島から嫁さんを迎え人口を増やす息子の宏一氏を紹介される。
 27日(土)明徳館にて栗原達男写真展へ。保健婦さんの佐藤ユキさん達・ハーモニカ同好会の方々をふるさと塾に案内。駅前・メトロポリタンホテル。元高校駅伝中央高校監督で準優勝の三船新次先生の陸上競技祝賀会へ。秋田高校時代の教え子の会、27会の面々と藤田貞子さんの外野席へ。
 28日(日)大町ビルでの春節を覗き、秋田空港へ女房を出迎え。 30日(火)榮太楼旅館。第2回秋田まごころ大賞授賞式。五十人以上集まってくれた。司会進行が小国輝也氏。大友康二先生がまごころの挨拶。受賞者の鈴木富雄さんが会主の秋田ナツメロ会の皆さんも応援に駆けつけてくれた。副賞に書家佐々木青洋先生が額入りの楽と書かれた色紙、ハーモニカ演奏まで頂く。歌手を目指していた小林工業の小林忠彦会長が東海林太郎の「赤城の子守歌」を披露され、歌と音楽の楽しい授賞式であった。二次会は鈴木さんの店。オルガニートへ。途中、奥さんに副賞として焼芋買って向かう。