ふるさと呑風便  2001年12月号
 

  レクイエム

 2001年9月11日。アメリカ多発テロ事件の時刻にアメリカ上空を飛んでいた民間航空機は36167機。この中の一機に乗っていた友人がいる。
 フジテレビ編集委員の瀧山誠。学生時代、中西睦ゼミの同期で、混声合唱団で歌っていた学友である。
 その時彼は、ダラスに向かう飛行機に乗っていた。
 10月3日付け産経新聞に書いている。「YNへの76時間の旅 街に響く人々の心の歌」との見出し。
「ソルトレークシティからニューヨークまで我慢の76時間だった。テロが発生した時、私はダラスに向かう飛行機に乗っていた。(中略)
 ニューヨークは悲しみと怒りに満ちていた。「悲しみは分かち合うもの」との言葉通り、消防署の前や地下鉄の駅、行方不明者を探すポスターの前、公園といたるところで花輪とキャンドルを囲んだ祈りと歌声の輪が広がっていた。
 日曜日の夕方、五番街五十一丁目の角にある聖パトリック大聖堂で事件以来、最大規模の追悼ミサが執り行われた。ニューヨークでもっとも華やかな通りが、この日ばかりは喪服姿に囲まれた。『ゴッド・ブレス・アメリカ』の歌の波が大聖堂を取り巻く市民の間から聞こえてくる。続いて聖歌隊がフォーレの『レクイエム』を歌い出すと市民も一斉に『レクイエム』を口ずさむ。ジーンと来た、感動した。そしてうらやましいと思った。
『悲しい時、うれしい時、怒りをぶつける時』その『気持ちを分かち合う歌』を共有していることに対してだ」

 11月18日。「読んだよ」と瀧山の家に電話した。
「いやー、あれは飛行機テロによってアメリカ経済がガタガタになるといいたかったんだが、日本でも悲しいときや、嬉しい時とか、その気持ちを分かち合える歌があればいいと思うなあ。昭和43年にプラハの春があったろう。学生達がフォーレのレクイエムを歌っていたのをテレビで見たのを覚えている。今、昔の仲間と歌っているよ」
彼に24日の恩師・中西睦先生の七回忌に房総にある先生の墓参りに行くのかどうか聞いた。雅子様のこともあっていけないという。
 そこでゼミの後輩・平沢了英君に電話して頼んだ。
「秋田銘酒の太平山を送る。先生の墓にかけてくれ。校歌・都の西北を歌って・・」

 私のホームページに25枚の絵を取り込んだ。戦前、雨の神宮球場で学徒動員の行進に参加された、秋田市の早田貫一先生の水彩画。過酷なシベリア抑留時代に亡くなった仲間へのレクイエムである。

 この時期、喪中の葉書が届く。百十枚を越えた。中で痛ましいのは夫儀永眠致しましたとの文面。来春は寂しいお正月だろうと心が痛む。瀧山に教わったフォーレのレクイエムのCDを買ってきて聞く。そして、主人を亡くされた奥様方に、お世話になりましたとお礼の葉書を書く。忘れな草の写真の横に、菅原洋一の「忘れな草をあなたに」の歌詞を添えて。

      木下竜太郎作詞
      江口 浩司作曲

♪ 別れても別れても心の奥に  いつまでもいつまでも
 おぼえておいて欲しいから
 幸せ祈る言葉にかえて
 忘れな草をあなたに
 あなたに


  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年2月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「我が人生」(2)
★佐藤孝之助氏 (佐孝石油且ミ長・秋田地区日中友好協会理事)

 私の過去には色んな商売がありまして、特に17年間の特定郵便局勤務があります。簡易保険の仕事の後、内務の方にまわりまして、窓口業務、電報の発信、郵便為替、電話交換手。特定局というのは何でもやらなければいけません。非常に多彩な業務ですけれども、30年代は労働組合運動が盛んな時代でした。まあ私も少し生意気なところもありまして、秋田地区の青年役員をやったり、自分の局の支部長をやったり、組合運動に情熱を燃やした時代もありました。労働組合に入るようになりました。郵便局長とは仲良く付き合ってたんですが、どことなく特定郵便局制度に対しては強く反動があったような気がします。

 ある夜勤の時でしたが、書の欄にこれからはエネルギーの時代との紙面に巡り会えたのです。強い感動を覚えました。瞬間的でしたが、俺はこれで生きていくと決心しました。心配する上司や友人もおりましたが、私も全く無知な油商売には不安もありましたが、まずもって羽ばたきたかったんです。

 書の欄には特異な元売りがあると書かれており、それが出光興産でした。3社特約店を置かない、誰でも2社特約店になれるとありました。早速、秋田出光出張所にお願いにまいりました。
 出光から資金はありますかと聞かれまして、「資金はないです」と答えました。どうやって営業しますかといわれ、「商売とは資金はいらないでしょう。仕入れの金さえあれば、販売力で返せます。私の財産は10何年郵便局にいて、多くの友人という財産を持っています」と必死になって主張しまして、「それが商売の原点ではないでしょうか」といいますと、「きみはなかなかいいこというねえ」といわれ(笑い)ただちに取り入れてもらいました。何よりも商売には人間としての大きな信用と商売の気魂だと強調しました。
 同業の大きな会社から反対があったようでしたが、郊外だから大した商売もできないだろうと判断されて許可をもらって、家内と2人で商売をはじめました。  
 退職金90万円と僅かなぼろぼろの家がありましたので、今の7号線沿いに田んぼと交換して頂きました。銀行の信用もなく、中古自動車を買って自分で色んな資材を運んだものです。小さいながら販売室ができました。一夜漬けで、危険物取扱者の試験を取り、友人知人の応援もあり、開店になりました。昭和41年7月1日です。本当に嬉しかった。

 あの当時、土崎方面から追分けまでスタンドは僅か3カ所しかなかった。自動車の普及が急激に進み、レジャー時代に入っていました。男鹿に行く人、山に行く人と、手動式の給油機だもので、お客さんに対応できないほどの販売数量でした。 母ちゃんとドラム缶を回して汗だくで頑張ったものです。夜遅く売り上げをみて、こんなに儲かるもんだべがと商売の面白さに感動したものです。
 46年総合燃料商社を目指してプロパンガスセンターを買収しました。48年には飯島に第二スタンドを建設しました。。 その直後に48年にオイルショックがありまして、その後は石油業界も乱立の規制、距離規制と厳しい規則ができ、建設に歯止めがかかりました。
 現在4カ所のスタンドを経営しておりますが、一番失敗したことは他にそれたことです。
 50年代に入って、俄に秋田湾構想が取りざたされました。天王町の海岸一帯がにわかに脚光を浴びたわけです。 私もすぐスタンド建設計画を立てて土地の手当ても済み、いざ建設計画となると数量規制のために許可ならず断念しました。
 そこで取得した土地利用もありましたので、外食産業に取りかかりました。
 天王町の出戸浜に海の見える「ドライブイン秋田湾」というを始めました。
 あの当時は何をやってもの儲かる時代でした。油の商売が出来ないのならこっちの方だと、コックさんと一緒になり、毎日皿洗いから、鍋物なら何でもよしとばかりに厨房で働きました。チャーハン・ピラフはお手のものですよ。

 当時、日中友好協会の行事として、留学生に地引き網レクレーションを始めたものです。地引き網をやってその後はドライブイン秋田湾の二階でカラオケ大会をして、留学生との交流を深めたものです。 今でもあの地引き網や大曲の花火の思いで楽しかったと中国に行くと言われます。
 ここで皆さんに、一言外食産業の厳しさをお知らせしたいと思います。難儀の割には儲からない商売です。早朝の仕入れ・鮮度の要求・味道楽の厳しさ・価格の競争・冷凍食品の氾らん、それに不採算の要素は厳しい日本海の半年は寝て福を待つだけです。
 私の見た範囲では個人的に成功した人は残念ながら皆無に等しいです。儲からなくても楽しくやっているのは各市町村の無計画族の給料泥棒だけです。彼らは損得を別にして、作ることに意義があるのです。

 あまり皮肉ばかりでは世の中が成り立たないと思いますが、総ては血を流す苦労が伴います。ドライブインの商売も何だかんだといいながら17年間経験しました。
 今はあの朝な夕なに映し出してくれた素晴らしい秋田湾の景色だけが深く脳裏に焼き付いています。
 そんな訳で、あの付近の山、海の自然環境の変化については誰よりも知っているつもりです。
 中国から引き揚げて来たとき、一年ぐらい塩の不足な時代に製塩業に拘わったこともあります。

  この春、魁新報に砂防林防護柵に間伐材を利用するとの記事が掲載されました。これはおかしいと思いました。天王・土崎間のあの景観を台無しにした鉄製の防護柵に怒りを抑えきれないのに、またも無用な県費を投入しようとするのかと、県林務課に対して、木材防護柵に反対の読者投稿をしたところ、何と83歳のおばあさんから同調の投書がありました。私はそのおばあちゃんと結婚したい気持ちです。(笑い)
 その後、秋田農林事務所の宮崎課長に面談し、景観を阻害する無駄な経費は避けて頂きたいと話しました。
 今から50年前、あの松林は私も、カーチャンも若いとき、汗水流して植えた松林なんです。
 出戸浜から堀川、秋田港までだいたい二千町歩あります。その防風林、いわゆる砂防林ですが一部海岸地帯は健康保安林になってます。塩害を防ぎ、酸素を供給する資源なんです。
 防風林に暴風柵は必要ないんです。自然なままの松林と、柵を作った所の松林に違いはありません。無駄な経費は使うなと思っています。あの松林には多くのキノコが採れます。ハツダケ、キンダケ、センコウダケ、松露。
 松露は貴重なキノコとなっています。私たちの時代は燃料がなくて、松葉を利用してご飯を食べたものです。松葉でご飯を炊くと非常においしいんです。ですから、その当時、松林には松葉ひとつも落ちていないんです。山に夫婦でいって寝ても、身体にゴミ一つ付かなかったんです。それから、海岸地帯まで300メートルぐらいは砂丘地帯でした。
 そこで生息するものは何かというと、浜野菜のハマボウフです。料亭では酢物にしたり、非常に香りのいいものです。 砂原に茶褐色の芽をだして、葉を出して花を咲かせて、砂が飛ぶのを防いだ。だからハマボウフというんです。
 終戦後建築資材が不足して県の方で海岸の砂を一台50円で入札したんです。昼夜を問わず砂を運ばせた。気が付いたときは砂が何も無くなっていました。それで県の方で大変だと海岸にブロックを並べた。残念なことに、その後もずっと続いています。防波堤は箱を造って沖まで船で運んでいくんですよ。栓を抜くと埋まっていきます。その中に大量の砂を全部入れていきます。

 もう一つは、大王製紙が来るために造成した。県や市の専門家に聞いたんですが、どこから埋め立てするのかと、どっかの山ですなと言いました。実は、汲み上げているんですよ。埋め立てとは低い所へ高い所から土を持ってきて埋めるものです。くみ取りしたものを盛土したものなんです。
 日本海の冬は非常に荒れます。そうしますと、流砂現象が起きます。波に砂が運ばれます。出戸浜の方の砂が低い所に運ばれて、壊滅状態になって、秋田湾には砂がなくなってきて、ハマボウフも無くなっています。そんな自然が変わっていくことに憂慮しております。
 そこで松林に対して、過保護な防風対策している。何故、松林が堪え忍んで生きているのに保護しなければいけないのか、と訴えているわけです。砂防林には自然に対応した風格を伴った生き方をしているのに、莫大な経費を使って砂防林に防護柵を作る。業者を助けねばといって(笑い)。無用な助け方なんです。
 間伐材を使って無理矢理、柵として作られるんです。砂防林に対して、かえって風がよどむようになって、柵に保護された松は死んでしまい、逆効果なんです。
 松というのは生まれつき非常に根性が強く、そう簡単には死なない。松は塩害で一時的に赤くなっても、又ぶり返してくるんです。
 ですから、青々としている松に間伐材を使って柵を作る必要はないんです。

 皆さんに言いたいことは、72歳ですけれども、歳がいけばいくほど、きれいなおじいさんにならなければいけないと心がけております。
 若さを持つためにはやはり、自分で何かを求めながら生きていく。
 子供も一人前になったし、そろそろ後ろを振り向かなければいけないと毎年中国にいってます。審陽の両親が死んだ場所はここらだとうとそこに花を供えてきています。秋田で留学生の一番最後の子どもで、王さんというんですが、、医科大学の教授になっても、花や供え物一式を用意してくれています。お父さんお父さんといって私を医科大学の迎賓館に泊めてくれます。(笑い)
 これから一番大切なことは女の人と手をつなぐことです。カーチャンとつなぐと寿命が短くなりますから(笑い)、よそのカーチャンと手をつなぐ。(爆笑)それが一番健康の元です。ダンスの話です。(笑い)ダンスの集いにいって、ジルバとか踊ると、川反で女の人とダンスをするよりは安い賃金でできます。(笑い)
 ダンスとは綺麗なマナーで踊れば、健康になって、綺麗なおじいさんになれるわけです。
 これからもふるさと塾で習得した中国語を生かしながら、広大な中国、もっと広くグローバルな視点にたって、友人達と親交を深めていきたいと思っております。


 呑 風 日 誌 抄
11月2日(金)鹿角市・長年寺。
 鹿角ふるさと塾の田中幸徳氏と南部藩士の墓参。十三年前、田中さん達が開催された戊辰戦争南部藩士慰霊祭に出席した。
 3日(土)秋田市山王・ふきみ会館。ツバサ広業主催の明治節記念式典へ。「イスラム過激運動と日本」と題して、東京国際大学の渥美堅持教授の講演。民族運動として、アメリカ同時多発テロは日本が変わる神風といわれる。
 4日(日)息子・洋平の運転で河辺町の少年自然の家へ。ここに炭焼き小屋が造られた。秋田木炭研究会(鈴木勝男会長)によるもの。炭焼き体験後、栗を炭で焼き、バーベキュー。
 近くのへそ神社・絆堂へ。屋根の銅板が緑青を張って御堂らしくなっている。ここに20数年前、娘と息子のへその緒を第1号、第2号として預かってもらっている。
第2号の洋平、絆堂の階段に落ちていた一本のマッチの燃えかすを拾ってポケットに入れる。
 雄物川河口へ。夕焼けが美しい。国土交通省茨島出張所に標語を頼まれ、景観を損なわない木の看板だったらと引き受けた。小さな木の看板に書かれていた。
 雄物川 夕陽に映えて 美しガ浜   勝平浜を愛する会
 イヤタカへ。経営コンサルタント鈴木憲一氏の招待で、日本バーテンダー協会秋田支部のカクテルパーティへ。釣り東北の佐々木清治社長と久しぶり。
 9日(金)フクチャンの横山隆一先生が92歳でご逝去。去年の早稲田フェスタあきたで、フクチャンの絵を著作権無料のお礼に秋田銘酒福禄寿を一生一升送る約束。
 福禄寿を二升、鎌倉のご自宅へお送りする。(合掌)
 10日(土)秋田市・ジョイナス。秋田算数数学教育委員会・21委員会主催の第2回あきた算数数学フェステバルへ。算数には全くもって弱いが、「統計に見る良かれ悪しかれ秋田県」を出す。
 21委員会の数学にも強い親分・須田精一会長の挨拶がいい。。
 午後、秋田空港。インターネットに強い石井護先生と中京大学の幸村真佐男教授を出迎え。昔のCTG(コンピューターテクニックグループ)の仲間で、日本のCG・コンピューターグラフィックの草分け。岩城町でのCGアートフェステバル2001に特別審査員としてきてくれた。謝礼はなし、銘酒飛良泉でいいといってくれた。亀田城でのコンテスト、妙慶寺へ幸村家先祖の墓参。厚生年金センターにて懇談会。車椅子CG画家高橋修=あやますみ君に(奥さんがますみさんだが、雅号は、あやまあ、すみませんからとったという)に曼陀羅を書けと勧め、世界のCG作家になれると激励。
 11日(日)石井護さん、バウハウスの森川恒社長と幸村氏を秋田市寺内の菅江真澄の墓に案内。
紅葉の美しい千秋公園のあやめだんごへ。途中、第一会館の秋田長野県人会へ。日赤病院の宮下院長の絵をホームページに掲載依頼。あやめだんごに戻り、幸村教授のCG作品をあやめだんごに寄贈。
 12日(月)山王・橙家。ツバサ広業の舛谷政雄氏が神岡町の名物豆腐を一ヶ月前から予約し、豆腐の日12日に持ってきてくれた。 神岡豆腐たけ丸君の仕掛け人・商工会連合会の佐々木義文部長と3人で、若き料理人田崎宏一氏の目にも美味しい様々な豆腐づくしをご馳走になる。旨酒、よき友友。
 13日(火)川反秋田乃滝。川反コミュニティ館の主となる佐藤久男氏を囲んで、藤高幸三、那波宗久、相場進、高橋真木夫、川嶋俊為の5氏と。美しい秋田を創る。
 17日(土)県立児童会館。障害者小規模作業所支援のあんべ光俊コンサート。杉の木園の澤田修明氏と。小規模作業所でどんぐりグッツを作ったら面白い。
 18日(日)雄和町スカイドーム。タッチラグビー大会。みっちゃんずとして9回目の出場。右膝捻挫が直らず、監督に元日ハムエースの工藤幹夫氏を指名、現役ラガーマン二人も参加、2勝もする。
 23日(金)秋田コミュニティ放送に呼ばれ、秋まごころ大賞の話をする。青少年交流センターの近藤博先生とタイに定年後に暮らす話を伺う。。早田貫一先生宅にシベリア回想鎮魂歌のホームページ掲載の報告。ブルーの西洋朝顔の種を頂く。
 24日(土)イヤタカ。あゆかわのぼる著「平成あきた大点検」出版記念会。56人も出席してくれた。二次会は山王・パームコート。
 25日(日)ふるさと塾佐々木啓助次長と川反コミュニティ館にパソコン。大江戸ラーメン後、女房と土崎温泉あったまりーな。  27日(火)学友・小田豊二の「どこかで誰かが見ていてくれる」が送られてきた。日本一の切られ役福本清三さんの聞き書きで、ふるさと丹後まで同行して書き、底の仕事に光を当ててくれた本。
28日(水)大町ADビル地下ぽらん。みっちゃんずの納会。
 工藤幹夫監督の息子壮史君が秋田商業高校のエースで親子鷹。
 29日(木)秋田市中央公民館。デキシージャーカーズの練習に参加。青少年センターの飯塚久雄所長からカヌーの話を伺う。
 30日(金)イヤタカ。ふるさと塾人間道場。50人程集まってくれた。デキシーバンドとティンルーフブルースを吹く。今年のカラオケ大賞は佐藤孝之助さん。二次会が久保田、多良、屋台ラーメン。
どんぷう後記
 この暮れ27年間も住んだ秋田市割山から引越しました。
 秋田市千秋矢留町7ー32-102へ
 電話 018ー834ー5835
 本年もご愛読ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先洋青木々佐 字題