ふるさと呑風便 2001・11
小 樽夕焼けの小樽駅。10月17日。タクシーで公園通りの「た志満」へ向かう。全国職人学会の仕掛け人の一人、伊藤一郎さんから、小生の歓迎会を開くと聞いている。小樽訪問の目的は、去年からの約束の、秋田森林鉄道の写真を伊藤さんに届けること。
タクシーを降りると、いきなり2人のロシア美人に出くわした。さすがは国際港町だ。 た志満2階.の一室。床の間に啄木の歌が掛け軸にある
かなしさは 小樽の町よ 歌うことなく人人の 声の荒きよ 啄木ひ弱な南部人の啄木にとって小樽の人々は気が荒く感じたのだろうか。た志満に集まっておられた小樽職人の会の皆様は実に心意気の高い人人である。小樽の職人、ルネサンスの騎手、旗章絵場・指物職人頭 伊藤一郎氏。街の活動家・ゴム印鋳造職人・松田和久氏。小樽職人の総領、煙火打ち揚げの頭領・佐々木徹氏。総領は全国職人学会の会長でもある。北海道職人義塾大学校の大川時夫先生。一年ぶりの再会は友情が盟友へと育む。2年後に世界職人学会を開催する話しを伺った。
小樽の宿は松田氏宅にやっかいになり、松田夫妻と愛する小樽の話が続いた。翌18日。松田さんと伊藤氏から小樽交通記念館に案内して頂いた。前庭にクロフォード像が建つ。ジョセフ・クロフォードは1842年アメリカに生まれ、鉄道技師として活躍。明治11年北海道開拓使に招かれ、北海道初の鉄道建設に技師長として、幌内・手宮間(小樽)に開通させた。 弱冠35歳の南北戦争の元大佐が残した言葉が銅像に記されている。SHOULDER TO SYOULDER TO OPEN A WAY.(人は皆兄弟、力を合わせてさあ、新しい道を拓こう)
旅は新たな言葉の発見である。
小樽は、70年代に小樽運河保存運動によって運河が残り、多くの観光客を呼んでいる。小樽運河を見て、この美しい運河を埋め立て、道路にしようとした役人の美意識のなさ、機能優先主義の発想の貧困さに怒りさえ覚えた。
まちというのは、先人の残した暮らしから遺伝子として現代人に受け継がれている。小樽の職人にも古いモノを捨て去るのではなく、いい物を残し、新しい時代、環境に適応した暮らしを受け継ぐという遺伝子がある。
小樽は国産初の機関車を誕生させた職人の町でもある。 何でも官頼みでない、分に応じて、自らで実践されている。職人の職人による職人のための学校もつくった。 小樽のまちを職人の理想郷とし、小樽のまちそのものをブランドとするまちづくりをしている。それが平成10年の全国職人学会の開催であった。
翌年の秋田開催のテーマは、「伝えよう美と技の心意気」とした。このテーマは今年の焼津大会にも受け継がれた。
昨年10月20日全国職人学会秋田大会の翌日である。秋田市山王・キッチン一番。小樽の職人の方々を秋田洋食界の職人代表・進藤茂春氏の店に案内。ここにはアメリカ製機関車の模型が置かれている。伊藤一郎さんはこれに目をつけ、小樽の交通記念館に展示したいと考えていた。
小樽への旅での約束。秋田食文化の頭領から機関車の模型を伊藤さんへ送ること。
小樽職人の心意気に負けた。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年1月24日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「雪国の地域づくり」(3)
★原田健司氏(秋田雪の会運営委員長)仙北町でしたか、課長以上は必ず3人以上交代で除雪に行くことになっています。そういう除雪グループのネットワークを秋田でも作れないかと思っています。
私も岩手県の沢内村にいってきたんですが、雪下ろしの問題にしても共同作業ができなくなっているという地域のコミュニティが欠落しているんですね。
高齢化社会を迎えて、助け合えるというコミュニティが重要になっていることをふまえて、私なりの雪国に地域づくりに向けての提言をしてみたいと思います。
平成12年の国勢調査によると、世帯数は増えていますが、一世帯当たりの数が3人と年々減っています。これが進んでいくと、48年のような豪雪がきた場合どうなるか。行政は慌てふためく。
横手市では48年から49年に2b59aの積雪がありました。昭和63年から平成元年にかけては、36aしかなくて、かまくらもつくれないと隣の岩手県からトラックで雪を運んだ。
全体的に行政も雪対策を忘れてしまって、住宅も雪という意識もなくなって、高気密、高断熱、美観だとか間取りとかばっかりです。
今、横手市・平鹿郡内で屋根の雪を電気だとか灯油で暖めた不凍液をまわして融雪装置が徐々に伸びてきています。電気だとランニングコストが高くて、屋根にやる場合は温水タイプがいい。
実際、屋根に温水をやっている現場を撮ったんです。瓦番による温水融雪装置の状況です。秋田市のあるお宅ですが、この装置をつけたおかげで、道路端に落ちる雪の心配がなくなり、雪かきの労力を考えるとコストの問題は解決されます。雪国の新しい地域づくりは、人口減少、少子高齢化、核家族化、環境重視、パートナーシップが時代のキーワードになるだろうと考えております。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年2月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「我が人生」
★佐藤幸之助氏 (佐孝石油且ミ長・秋田地区日中友好協会理事)私は学問もないし、このような場所で話しをするのは始めてで、みなさんに聞いてもらえるような話しができるかなと心配です。
1929年の生まれです。今年の6月がくると72歳。歳は私が決めるものではなくて暦がきめていくもので、どうしようもありません。72年間を振り返ると、今が一番楽しい時だと感じています。 百節苦行の中で生きてきたものですから、やはり今が一番幸せだと思っております。
生まれは秋田市下新城中野です。県会副議長の中泉松之助さんの家から百bぐらい離れた所に住んでおります。私は松之助さんのお祖父さんから懇意にしてもらっていまして、お父さんの時から選挙に携わっておりまして、自民党とか社会党とかといった意味ではなくて、地域の代表として応援しています。駄目なときはダメだといってきております。自民党であろうと嫌な政治家は嫌だとはっきりいってきております。(ここで講師席に水が運ばれる)
なんとなんと、私が、講師だなんて。(笑い)
私の父親は中国で土建屋でした。
今、ここ階段を上って来るとき、非常に懐かしさを感じました。13年前に、これから自分はどういう風に生きていったらいいのか振り返った時点で、やはり中国ということを忘れられなかったんです。自分の一生の中で中国での両親の思い出がありました。それを取り戻すためには中国語をマスターしなければいけないということで、中国語を教えるところがないかと探しましたところ、ここ佐々木さんのふるさと塾で中国語をやってましたので、ここの門をたたきました。以来、佐々木さんは中国人だけでなく、グローバルでどこの国の人とも仲良くなれる方でして、(笑い)こういう人と溶けあって勉強した思い出が深くあります。この部屋の下にバーがありまして、中国語を勉強してますと、下からカラオケが聞こえてきました。(笑い)楽しかったですね。(笑い)。日中友好協会がここから分離して、公民館に移った時、私は佐々木さんが大好きで、一人、佐々木さんの擁護にまわったものです。(笑い)当時の協会理事長は日中友好に何も尽くさないのに、肩書きが欲しいだけで、ここに着てだだ挨拶をしていくだけで、私は嫌いでねえ。(笑い)事務局長だった佐々木さんはじっとこらえていたようですが、違いますか。ー違いますよー(笑い)。
私はそういう風にとらえてますが、そういう訳で、ここで勉強したことが役立っています。
外国へ行くと言葉が何と言っても表現力です。それがないと聞き取ることもできないし、いろんな人と友好もできない。ここに来て一番よかったことは、言葉を学んだことだけでなく、秋田大学の留学生との交わりですね。当時、彼等から黒板で言葉を習って仲良くなって、今でも彼等が帰った北京、審陽、長春に電話してます。今では立派になって教授や、公司の社長などになって現場で活躍しており、心強く感じております。日中友好協会で里親制度を佐々木さんが発想されまして、留学生がここに来て寂しいだろうから、里親になる人を捜して、親として留学生を面倒みましょうということに私も共鳴しまして、ここで留学生と私共が集まって、紐を用意して、誰に当たるかくじを引いて(笑い)、親子を決めた思い出がありますね。
その時、私は審陽というところで、昔は奉天といいますけれども、遼寧省の首都で人口800万人の大都市です。そこで私の15歳の時、両親が引き上げの途中で亡くなっているんです。私ら子供3人で引き揚げてきたという、苦い思い出のある所です。そんな訳で里親制度に全面的に協力して、審陽出身の留学生を一ヶ月に一回はご飯を食べたり、家に呼んだり、留学している間、不自由なことがないかと面倒をみたり、精神的なことでも相談にのったりで、堅い絆が結ばれまして、今でも中国に行けばお父さんと呼んでくれる元留学生がいっぱい、5人ほどいます。このような交流の中で、日本は中国に対し、非常に迷惑をかけたという謝罪の意を込めて中国からきた人に、日本の良いイメージを与えるために、日本に対する信頼度を増すようにというのが、佐々木さんの考えでしたので、私も協力してきた次第です。
中国の留学生は、内陸部の人が多かったものですから、佐々木さんと二人で、海をみたことがないだろうと、出戸浜で地引き網を体験させました。当時、私は出戸浜にドライブイン秋田湾を経営しておりましたので、そこからマイクロバスで留学生を迎えにいって、地引き網をやって、秋田湾でドンチャン騒ぎをしたものです。それは今でも、中国へ行くと、地引き網はよかったと喜ばれています。
コミュニケーッションはやはり草の根の底辺での交流が大切だと私は感じております。口先だけでコミュニケーションはできないです。お互い、ねじりはちまきをして網を引くとかが国際交流だと思っています。私が、梯子から落ちて大怪我をして、日赤病院に入院していた時、里子になった中国の女子留学生が東大の大学院に行ってまして、私の入院を聞いて東京から駆けつけてくれて、お父さんといって泣きつかれたのには困りましたね。
私はこのように学問もないので、中国から引き揚げてきてからは、ご飯を食べて行くには学問よりも働くことが急務でした。親がいればそれなりの教育も受けられたと思いますけれども、兄弟の面倒もみなければなりません。朝の四時頃から起きて飯を炊いて、弟、妹を一人前にするには大変な気持ちでしたけれども、そんな家庭の中で惨めさのなかでも、よくぐれないできたと思っております。自分なりによくやってきたなと思います。職業はガソリンスタンドの経営者です。これは脱サラをやって始めた仕事です。
昭和41年に脱サラをやりまして、これからはエネルギー時代だと週刊誌をみたら書いていまして、転業しました。
それまで私は数えてみたら20種類ぐらいの仕事をしました。引き揚げてきてから、一番最初に度方をやりました。昔の女子医専というのがありまして、今の有楽町から楢山に行くところに女子医科専門学校がありました。その学校の解体工事にいって、天皇陛下のご真影をほごしにいった記憶かあります。私は女の子たちがきゃっきゃっとやっている時、裸で鉢巻きをして、一人でご真影をほごしたものです。それから、駅前にあった十七連隊の校舎の解体作業に通いました。
そこを辞めてから闇屋もやりました。東京へ酒を輸送する仕事です。酒などを持っていって、金太郎飴を買ってきて、ノコギリ商いというんですな。清酒を3升ぐらい持っていって、当時は清酒は買えない時代でした。何時か、汽車で赤羽の所で降りようとしたら、自分の酒をみたら、盗まれていたりね。(笑い)それで金太郎飴も買えないでダダで戻ってきたこともあったんです。
こんなことはダメだということで、後で校長先生になった人と弘前にリンゴを買いに行ったり、汽車を降りるとみんな走っていってリンゴを買い付けます。汽車に戻ると親分達が占領して我々は小さくなって座っているだけなんです。そこで汽車時間がないからとタダでリンゴ持ってきたこともあったんです。その人は校長先生になって泥棒をしてはいけませんなどといっていたんです。(爆笑)
いつもその先生と会うとあの時、タダでリンゴもってきてなと、それもインドリンゴのいいのなんです。(笑い)それが高く売れて非常に儲けたこともありました。迷惑かけて、悪いことをして儲けたのはこれぐらいですよ。(爆笑)
混沌としていた時代でした。リンゴ売りから、乾物売りにも出かけました。ありとあやゆる商売をやりました。そうしたら、私と同じ席にいた人が、いつまでもこんかことをしていたらダメだと、郵便局に入らないかと言われました。
当時、郵便局に入る人はいなかったんです。何故かというと休みがとれなかったんです、特定郵便局というのは。局長権限ですべてとやっていた時代でしたから、全然休まれなかったんです。
私たちが入ってから休みがとれるようになりました。特定郵便局に入って一番最初に郵便配達をやりました。長靴履きながら、何で俺はここまでたどり着いたのかと、歌を歌いながら配達したものです。(笑い)それ3年ぐらいやりましたね。それから、君はなかなか人扱いもいいしというので、私を特別に簡易保険の勧誘に抜擢されましてね。いつも成績が一番よかったです。(ホー)それを12年ほどやりました。(つづく)
呑 風 日 誌 抄
10月2日(火)山王・八条。ソリューションシステムの佐々木伸一社長と、由利町の木内さん・マスターの大野氏と埼玉県人会。
3日(水)秋田市の黒松林を愛する佐藤孝之助さんが、幻のキノコ・松露を5個、飯島の松林で発見。残念ながらこの夏に松林に植栽実験の場所からは松露はとれず、小動物が穴を掘った跡があるといわれる。5個の松露は坂本バイオで培養してもらうこととする。
6日(土)秋田市新屋・秋田晴酒造、川口和夫社長の長女・故左和子さんの弔問。川反観音建立委員会に父上の代理で出席してもったこともあった。ご両親の前で、かわす言葉がない。(合掌)
夕方、大町ビル。秋田地区日中友好協会理事会。活動報告。
7日(日)秋田商業高校体育館。秋田市スポーツ大会のちびっ子レスリング試合へ。幻のモスクワオリンピックのレスリング代表であった宮原章氏のお嬢さんも出場。 小学2年以下は試合時間が2分でフォールなし。女の子が強い。
12日(木)中小企業団体中央会でお世話になった秋田市添川・小玉司郎さん宅へ。奥様の通夜。元同僚の・工藤利典氏と。古い中小企業会館時代が懐かしい。
13日(土)秋田市手形・井上英子先生宅。三浦書店の三浦義明社長と本出版の為の聞き書き調査。 ニューグランドホテル。筋萎縮硬化症(ALT)秋田支部発足20周年記念の集い。故松岡事務局長の夫人で松岡佑子さんの「出会いと別れ」の講演。亡き主人との思い出の花、寒椿の花を押し花に。松岡さんは今、ベストセラー・ハリーポッターの翻訳者。懇親会で前秋田市長の石川錬治郎先輩に石川達三文学賞設立の提案をする。ビューホテル。スナック多良の20周年記念パーティ(高野征雄実行委員長)
たらちねの 多良の肴がタラバガニ たらふく食っても たらにします
14日(日)岩城町亀田城へ。岩城CG(コンピューターグラフィック)フェステバルの作品展示。画家の高橋おさむさん石井護先生とが中心となって全国に募集した。
秋田市羽川。栽松翁・大友円左衛門の彰功碑を見る。
15日(月)千秋公園のあやめだんご。しらせを秋田に誘致する会の佐野元彦会長、渡部幸徳副会長。オスロ大学の太田教授夫妻の歓迎会。秋田大学でシロクマの肝臓の研究をしている妹尾教授の話が興味深い。秋田に白熊牧場をつくりたいもの。白熊が亡くなって肝臓が妹尾先生に有用される。
17日(水)秋田空港から千歳空港まで55分。北海道は10数年ぶり。秋田にへそ神社をつくろうと北嶋昭宮司達と富良野を訪ねて以来。小樽へ秋田銘酒・天寿を持参。去年の全国職人学会秋田大会で会った小樽職人の会の方々が「た志満」にて歓迎会。感激。
18日(木)小樽の朝。松田和久氏の車で伊藤一郎さんと合流し、交通博物館へ。館内の機関車しずか号が美しい。観光客が多い運河沿いを見て札幌へ。北大付属植物園の南極で生き残ったタローの剥製と再会。道庁赤レンガ館内の開拓記念室にあった明治後の北海道地図に国後島は久保田(秋田)藩の支配管轄地とある。北海道新聞の鈴木隆仁記者と駅前で一献後、北海道地域づくり仕掛け人代表の水口正之さんが仲間をススキ野に大勢集めてくれた。よき出会い。
19日(金)札幌時計台・札幌ラーメン。一緒にボルネオへ行った青森県北海道事務所の久保英一氏。 20日(土)朝、勝平コミセン。陶芸家横山邦夫さんの陶船同好会の展示会へ。栗田養護学校の畑にグループ森の仲間と小さな森をつくる。文化会館にて全県ハーモニカ祭り。イヤタカでの秋田ペルー協会へ。秋田県立大のカルロス助教授の講演。「ペルーの今」
21日(日)新屋日吉町の葉隠墓苑へ。佐賀藩士慰霊祭。武雄市長からの佐賀の銘酒を届ける。町内会から25人出席して頂く。
22日(月)榮太楼旅館。秋田有徳会(松由久仁夫会長)。竹下登総理秘書官だった内藤武宣先輩が主宰された会で、松由会長の慰労会も兼ねて開催。薬剤師会の鳥海専務とジャズ喫茶ロンド、高陽幸町のラベンダーにて皆でカラオケ。
23日(火)秋田駅前・人情酒場久保田にて、小松正夫の会を設立。去年の全国職人学会でがんばってもらった、染師小松正夫(ただお)、永六輔さんと友達の小松正雄(小松クラフト)、秋田市文化課長の小松正夫の3氏。同名3人で。秋田の文化向上に尽力を。
24日(水)山王・館。仙台稲門会野球同部の中野三樹氏、秋田稲門会野球部の大島昌義氏と一献。
26日(金)千秋公園・あやめだんご。ふるさと塾とAIグループの合同勉強会・講師は秋田市通町で白神酵母菌を使ったパン屋さんを開業した東京・八王子の大塚節子さん。情熱的な話を伺う。
27日(土)羽後岩谷駅前東京庵。明日の大内を創る会の面々と久しぶり。美佐子食堂で二次会。
28日(日)大内町役場前。明日の大内を創る会で始めた元祖とろろ飯大食い大会。今回で17回目。 菊地久昭君と山芋・自然薯のパイプ栽培畑を見学。
29日(月)仙台市青葉通。シンボル、欅の街路樹。造園土木会社の人が痛んだ樹に包帯をしていた。※ どんぷう後記
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