ふるさと呑風便 2001・10 NO151
華
5打数5安打。新聞のスポーツ欄に載った記事。東京6大学の立教大学・長嶋茂雄選手の名前を初めて知ったのは小学校5年生の秋だった。
中学生になっても野球部に入って、新聞の打撃欄で見るのは大毎オリオンズの山内一弘選手の記事。オリオンズが7対3で勝ったとすると山内選手が打っただろうと打撃欄を見て一喜一憂していた。地味な山内選手と違って、新人の長嶋選手は国鉄スワローズの金田正一投手から初戦で4打席4三振でも華があった。
その頃、熊本のある少女。巨人ファンの父親に連れられ、福岡の平和台球場で長嶋選手の華麗な姿を見た。すっかり長嶋さんの虜になった。十数年後のその少女は長嶋さんのいる東京へ。そこで巨人嫌いで落語好きの田舎学生と知り合った。新宿にある寄席・末広亭に連れて行かれた。本人は覚えていないが、連れて行った男はよく覚えている。
古今亭志ん朝の「船徳」を聞いて、なんとうまい噺家だろうと感心した。志ん朝師匠には江戸の粋というか、芸に華があった。
以来、志ん朝師匠が落語界、いや日本にいるというだけで誇りに思うようになった。
その古今亭志ん朝が10月1日に亡くなった。日本に志ん朝がいなくなった。芸の華を失ってしまった。
同日。甲子園球場。阪神ファンの声援をうけて、長嶋茂雄のユニフォーム姿が消えた。昭和55年10月21日。この日は、読売巨人軍から長嶋監督が解任された日。当時、週刊サンケイ記者の佐々木理は高校時代は野球部で同級生。熱烈な長嶋ファンだった。彼は、毎週一ページに「背広の長嶋」と題して書いた。理が後に編集長になった時、背広の長嶋さんはホテルオークラで彼の祝賀会を開いてくれた。
野球嫌いの土井脩司氏。当時の彼はまだ大学留年中。ベトナム孤児救済運動後、ベトナム絵画展をしていた。風来坊だった私は、中野坂上の彼のアパートに潜り込んでいる。その彼、突然のように花の平和運動を始めると言い出した。 花の企画社を立ち上げ、千葉・成田空港に隣接する林業試験場跡地に花の農場を作った。そして、「花と緑の農芸財団」を設立し、理事長に長嶋茂雄氏が就任された。
成田での「花と緑の感謝の集い」の会場。私を農芸財団の評議員にしてくれた土井常務が、長嶋理事長を紹介してくれた。長嶋さんが監督に復帰する数日前だった。握手をして、車に乗り込んでいった長嶋さんを見送って思った。 華のある人は周りの人を明るくする。十月初め。花と緑の農芸財団で長嶋さんの帰りを待っている心友・土井脩司理事長代理に電話した。彼は今、千葉県芝山に真・善・美に根ざした自然と歴史と文化を呼び起こし、豊かな恵みを育む太陽と大地に感謝する「花と緑の農芸の里」を建設中である。
ー長嶋さんの好きな花はなんだっけー「桜だよ、富士山に桜、そして米が好きなまさに日本人だよ。明るいヒマワリだと周りの人がいっているが、バラも好きだなあ」
ー長嶋さんが辞めてよかっただろうけど、女房はガッカリだよー「そんなこといわないでよ。長嶋さんは日本に必要な人なんです」
長嶋さん。いつまでも日本の華でいてください。
ふるさと塾地域づくりゼミ★平成11年1月24日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「雪の地域づくり」(2)
★原田健司氏(秋田雪の会運営委員長)ダムが満水になっている時期は5月の初め、新緑の頃です。融雪水をキャッチして、足りないときにせめていって、洪水が始まるまでの間に抑えます。
旭川ダムの場合は、利水はなく洪水調節、洪水を抑えます。
ダムの計画する時にはダムばかりではなく、河川改修の両方で費用対効果を考えます。
ダムによっては効果の薄い50年に一回しか起きない洪水で計画します。皆瀬ダムはロックフィル形式ですので、200年に一回起きる洪水の計算をしています。
萩形ダムは60年に一回の洪水を計算しています。
水をめぐる今後の課題としては、水資源の保全があります。
河川、湖沼の水源は、地域の景観、生態系を構成する場として視線環境の重要な要素です。河川の水質保全も重要ですし、湖沼では八郎湖の富栄養価が進行して、その水質改善が大きな課題になっています。
森林が水の保全整備に大きな役割を果たしていることはご承知でっしょうが、良好な森林状態によって、水源涵養機能が高められているわけです。効率的な水資源の有効利用を図るためには、融雪時期を遅らせ、融雪期間が長くなることが望ましいわけです。そこで私は、雪と林相との間に因果関係がないかと考えました。いわゆる融雪時期が、流域の林相、樹木別(針葉樹、広葉樹、混合樹)で調査して、その違いがわかるのではないかと。
調査流域として、流域面積がほぼ同じ3カ所、広葉樹主体の三内川と針葉樹が多い藤琴川、馬場目川を選んで、期間は昭和47年から51年までの五カ年間調査しました。その調査結果は、融雪の開始時期、融雪日数が、三内川と藤琴川がほぼ同じ、馬場目川は融雪の開始時期が一週間ほど早い。融雪日数も16日少なかった。
三内川と藤琴川については、融雪期の流量、融雪期以外の流量、年平均流量の3項目で比較すると三内川が融雪期の流量が少なく、融雪期以外と年平均の流量が多く、藤琴川よりも水源涵養機能が優れていることが伺えました。
この涵養機能が劣っている原因は、いろいろな要因が絡み合い、原因究明は相当難儀ではあるが、この3流域内の林相から共通していえることは、三内川流域は広葉樹が主体で、藤琴川流域、馬場目川流域は針葉樹のウエイトが大きいことです。
営林局から地図をもらって流域の樹木の樹齢年数を分けて、やったら、どうも広葉樹の多いところほど水源涵養機能が高い。
この調査が当時話題になりまして、当時「雪をみつめる人の会」(現在「秋田雪の会」)の麻生さんという会長さんから頼まれまして第一回シンポジウム(昭和53年3月30日)で「雪と水資源」と題して報告しました。その時に現在雪の会会長の奈良洋さんが魁新報におられて取材にこられていました。針葉樹が悪いといったようにとられてしまいました。(笑い)私は、広葉樹は針葉樹に比べたら水の長持ちがよいといったんです。これは現象面でとらえているので、調査流域が西向きだとか南向きだとか、地質の問題、傾斜の問題とかいろいろ絡み合っているんです。確かに馬場目川の上流、杉沢地区には針葉樹が多いんです。
この当時、あの白神山地の青秋林道反対運動がありまして、その先頭に立っていた藤里町の写真屋さん、鎌田さんから私の発表したデータを使われてしまったんです。
確かに春先、針葉樹の現場を見てみると雪が残ってないんですね。
広葉樹には葉っぱが残ってないので雪が早く解けると思っていましたが、最初根元から雪が解けていくんですが、遅いんですね。
標高600b以上のところの広葉樹を切って、針葉樹を植えても育っていかないんですね。県職員として昭和53年当時、発表したのは環境保全としてではなくて、現象面としてそうですよといっただけでした。これが縁で「雪をみつめる人の会」に入会することになりました。
お目にかかったのは麻生千代治さんという方で、高校の理科の先生をやってて、小坂高校時代に色々、雪の実験とか生徒と実習していて、県内の同好の士を探したら10人おり、その当時、48年豪雪で、雪害の影響がきまめて深刻でした。そこで、麻生さんは、雪や寒さに関する調査研究の成果を県民生活に役立たせる市民運動をおこしたいと考え、田大学の梶川正浩教授、由利工業高校の秋生茂先生、横手工業高校の梅川信彦先生が賛同され、昭和50年7月に「雪をみつめる人の会」が誕生しました。
最初は会誌「雪ー学際」を発行でした。そして、何か社会還元できないかと「秋田と雪」をテーマに第一回シンポジウムを秋田市で開催しています。53年3月でした。そこで発表した縁で、私もまだ若かったものですから、純粋な気持ちで入会しました。(笑い)だんだんと県民から注目されるようになったものですから、会員も増えて雪国秋田の市民団体として、「秋田雪の会」と改組しました。
初代会長が麻生さんで、その時に会則がつくられました。
活動目的として、この会は雪や寒さに関心をもつ人々が、互いの交流を深め、その成果をもって新しい地域づくりに寄与することを目的とする。(会則第3条)
この新しい地域づくりに寄与するという言葉がでてきたのは凄い感覚だなと思っています。役員ほとんどが理科系の方々なんです。
現在の会員数は、団体会員が35団体(県、市町村、銀行、建築設計事務所等)個人会員が96人。
活動概要としては、シンポジウム。雪をみつめる人の会の時代から県内7市町村で開催しまして、参加者は延べ八百人に及んでいます。グループの中で、鳥海山の雪渓観測グループがあります。鳥海山の雪渓を観測することによって、積雪期や融雪期の気候推移を知ることを目的に55年8月から始めています。
このグループはアラスカまで家族で観測にいって、全国的にも注目されています。
それから、建築教育研究サークルといって、県内の工業高校の建築科の先生方が中心になって、建築物の設計についての雪に関する県内の基礎データを集めています。
横手市に雪国くらしとすまいの研究所があります。ここと共同で平成3年から4年にわたって雪の貯蔵庫による野菜の貯蔵実験をしています。
竹下さんが首相の時のふるさと創生事業の1億円でつくった研究所ですが、雪中から掘り出す保存野菜の新鮮さを示す実験なのですが、鉄骨で枠を組んだうえにビニールで覆ってシートを張ったりした上に雪をかぶせるのですが、地面の湿気を防げないのでうまくいってませんが、室蘭工大の先生がこの研究を続けております。山形県がこの先生をうまく使って、米の貯蔵をやっています。今の横手市長がこの実験に一生懸命に取り組んでいます。
後は写真展、それから、つららをたろっぺだとか、雪や寒さに関する方言の調査をしています。
会長が中田直敏さんといって県会議長の時、日本雪氷学会全国大会を誘致しました。その時の運営委員長が今、県会議員をやっている武田英文さんでした。私が裏方をやっていたんですが、富山大会へ行ってノウハウを吸収してやった訳です。他の県は企業や県がお金をだして協力していたんですが、秋田雪の会にはお金はありませんで、全部で350万ほど必要でした。東北電力に協力をお願いしたら350万円を上回る金が集まりまして、全国から研究者350人も呼んで、秋田市の文化会館で4日間開きました。
同時に、秋田雪の会のメイン行事である児童生徒の雪に関する研究発表大会も行いました。これは研究者の方々から全国に例がないと非常に注目されました。
後は見学会として、新庄市の国立防災科学技術センターや湯沢市の地熱開発現場を訪ねました。
会誌「雪輪」というのを発行しております。これは県立図書館に置いて、いつでも見れるようにしております。
児童生徒の雪に関する研究発表ですが、児童に雪に興味を持ってもらおうと昭和59年に秋田県生涯教育センターで始めました。その後毎年開催しております。平成2年からは雪に関する作文、詩、絵画等も募集し始めました。
ただ、雪に関する研究は年々減ってきています。雪の多い年と相関しているようですが、それと先生方の取り組みが弱くなっているように感じています。今、教育委員会が科学を心する事業を展開している訳ですが、私どもは10数年前からやっていることです。いわれるように理科離れの傾向がありますが、今年は雪が多いので、2月25日のの研究発表を楽しみにしております。
秋田雪の会の活動に対していろいろな受賞があります。1991年に中田直敏会長が日本雪氷学会功績賞受賞、雪の会として岩手県沢内村の雪国文化賞、山下太郎地域文化奨励賞を頂き副賞が30万円でした。12年度は雪対策功労賞を青森で受賞します。
今年、設立20周年に当たるものですから、規模を大きくして記念事業を予定しております。これには県からきらめく地域振興助成金を30万円頂き、記念誌をつくる計画です。雪国フォーラムの開催がメインになります。「雪国の新しい地域づくり」ということですが、関心深いのは高齢者にやさしいまちづくりの推進というテーマでNPO法人秋田バリアフリーネットワークの理事でで北林さんという方です。高齢者や障害者と一緒に、車椅子で街をを疑似体験をされています。
それから岩手の沢内村の方で、高齢者に配慮した雪のシステムの確立というテーマがあります。
これはスノーバスターズという除雪ボランティアを組織しています。平成2年に沢内村の青年がボランティアで始めたら、岩手県内に広がって、15市町村でボランティア活動をすすめています。
これは単なる除雪だけでなくて、除雪体験ツアーを企画して、首都圏の野球部の選手だとかが無料で体験にきています。それから秋田の西仙北高校と交流があり、夏は沢内村の高校生が西仙北町の施設の介護のボランティアを行い、冬は西仙北高校の生徒が沢内村に除雪ボランティアに行く。これが3年続いています。
そういう意味で岩手県は除雪ボランティアがネットワークされているんですね。
秋田県はどうかといいますと、一体秋田県のボランティアというのを調べたんですが、古いのあるますが除雪ボランティアはないんです。大館市が平成5年に沢内村に視察にいったんですね。そこでハチ公レンジャー部隊として企業だとかに除雪ボランティアを組織しています。市役所職員が除雪ボランティアを行う時は有給休暇扱いにしています。(続く)
呑 風 日 誌 抄9月1日(土)本荘市石脇の石川善平衛子孫の石川宗介氏と長岐和行弁護士宅へ。頼もしい先生。
秋田市大町・ポラン。ケーシーランキンライブ。何とか盛況。デキシージョーカーズのドラマー・宮下澄人医師が賛助出演。
3日(月)秋田空港・女房を出迎え。時間を間違え、秋田県警航空隊へ。川村義春隊長と空中写真件。冬、八幡平に飛ぶと絶景だとの話。秋田の空からの写真をホームページに掲載する約束。
夕方、町内会役員会。勝平地区運動会の件。今年は走っても転ばないようにしないといけない。
5日(水)合気道・武産塾横山道場へ。受け身に失敗し、右膝を痛める。
6日(木)昼、アキタニューグランドホテル。稲門会秋田県支部役員会。16日の総会の件。
夕方、イヤタカ。秋田ペルー協会役員会。県立大学教員のペルー人二人を総会に招待することに。
7日(金)右膝が痛くて歩けない。駅前整形クリニカオルトへ。レントゲンを撮ったら、右膝捻挫。
3週間は痛みはとれない。お酒をやめたら早く治ると湊先生。
県庁第2庁舎。21世紀の北東アジアの交流について、中国・吉林大学の盛山正義教授の講演。
9日(日)早朝。勝平グランド。割山町内会のテント張り。割山町は250世帯。今年は走れず、運動会リレーに県警アパートの桂田選手に出てもらうが、最下位。
11日(水)忘れられない日。アメリカ同時多発テロ。
12日(木)秋田経済法科大学。「北東アジアにおける日本外交の役割」の講演会。講師が中野有氏(アメリカ東西センター)。アメリカの視点から北東アジア開発銀行の設立、地方版ODAは環日本海時代への人材育成、IT革命から心と心を結ぶIS(社会)革命を主張された。内容のある講演。
13日(木)秋田市八橋のイタリアン料理・異人館。九州出身同士ということで、女房と田崎宏一こずえ(鹿児島出身)夫婦と食事。ツバサ広業の桝谷政雄氏のご配慮。
15日(土)毎日新聞の上田宏明記者と仁別国民の森へ。森林博物館横に鎮座する森林鉄道の機関車を見る。もう一車あったが、山形県真室川町に持っていかれて、今でも町のイベントの際に走らせているとの事。秋田でも森林機関車を走らせたいもの。
16日(日)秋田総合保健センター。稲門会総会。奥島総長に金浦町産のなまこの缶詰一ダース進呈。人生劇場の5番の歌詞を手帳に書いてもらう。政治が動く政治が変わる」と題し、福岡政行教授の講演。義と情を大事にという。
交流会が秋田キャッスルホテル。総長室の井原徹氏から先日亡くなった元秘書課長伊藤功氏への弔電のお礼状を頂く。心のこもった文面の礼状に感激する。総長の口上入り人生劇場の歌を録音する。 19日(水)秋田市勝平の事務代行・ハートメッセージへ。秋田市大内会の名簿作成を依頼。女房を土崎温泉アッタマリーナへ。寺内の早田貫一先生宅。青い西洋朝顔でいっぱいのブルーシャトー。秋田県出身シベリア抑留死亡者1282人の名簿をお渡しし、シベリア回想絵画展をホームページに掲載の相談。
武産塾合気道道場へ。三浦義明氏と見取り稽古。見取り稽古とは、秘書時代に剣道を習った、レスリングの八田一朗参議院議員の言葉。
20日(木)秋田大町ビル。秋田木炭研究会。鈴木勝男会長の木炭入り携帯トイレ(Cちゃん)の試作品5点の検討会。懇談会では喉が痛くてビールも飲めない。
21日(金)市立秋田総合病院耳鼻咽喉科へ。鼻から喉に管を通され、声帯の写真を撮られで見せられる。扁桃腺が腫れているとの事。
22日(土)県立児童会館。秋田県音楽療法研究会(竹本吉夫会長)主催の「こころとからだの癒し」佐藤ユキさん主宰の平和ハーモニカアンサンブルの演奏を聞く。メンバーには旧知の方々が多い。
25日(火)ソリューションシステムの佐々木伸一社長、泉信之氏と夫人、ココエバ・スベトラーナさんをロシアの国際交流員ロドミラに紹介。ビクトル先生から日本語を習うこととする。
25日(火)通町の匠設計・井村博社長へ秋田有徳会の件で相談。同じビル内の白神酵母菌を使ったパン屋さんのパンを買うが、実に美味い。この店の東京出身・サラ秋田白神の大塚節子社長に、26日のふるさと塾+AIグループの講師をお願い。
26日(水)スナック・ラベンダー。菓子舗榮太楼を退職された松由俊次先輩と秋田有徳会の相談。10月22日に慰労会を兼ねて開催することに。つくしんぼにて、有徳会を主宰された東京の内藤武宣先輩に電話。メッセージをお願い。
28日(金)ふるさと塾。講師は商工会連合会の佐々木義文企画部長。神岡町商工会出向の間、農工商連携の地域づくりを実践された話。着想力と行動力に感服。二次会は桝谷政雄氏と山王のサガン。
29日(土)仙台・広瀬川沿いの球場。恒例の仙台稲門会と秋田稲門会の野球試合。膝を痛めて走れないので捕手。助っ人の三浦義明投手とバッテリーを組む。7対6で逆転負け。これで2勝10敗。ホテル白萩にて交流会。3次会は牛タンの多助。3次会は国分町で毎日新聞仙台支局の渡部慶一支局長にやっかいになってしまう。
30日(日)セレモニーへいあん。故山田靖男県議の葬儀へ。謙虚な人間性に敬愛していた。(合掌)