ふるさと呑風便  ’01・1月


       縁 義  

  ☆☆☆☆☆☆

 東京・葛飾柴又・題経寺。寅さんが産湯をつかった所。 先年のある夏。そこを訪ねておみくじを引いた。開くと、第一五凶。「ええーつ!こりゃあ縁起が悪いや」というと隣のいたおっさんがいう。「凶も又期なりですよ」とか、いってくれる。境内にある帝釈天に水を汲みに来た人。記念にじゃあ一杯と、寅さんの草だんごの店に案内してもらった。
 映画と違って、注文は自動販売機。ビール券を買って、二人でジョッキを傾ける。
 秋田から来たといったら喜んだ。近くの三菱製紙の工場に勤めていた方で、「昔、能代へ行って芸者と懇ろになって、いい女だったよなあ」「おれんちは、矢切の渡しのすぐそこにあるんだ、スチュワデスやってる娘がもうすぐ帰ってくるから今日、泊まってけよ」

 新春の初詣は秋田の彌高神社。引いたおみくじは中吉。凶よりは春から縁起はいい。 今年の年賀状にも書いた。めだたずおとなしく、ふるさと秋田夢おこしの実践に心がけたい、と。縁を生かし、義の心をもって事をなしたい。

 心とは如かん。司馬遼太郎さんは小説「箱根の坂」でいう。「他人(ひと)を傷む情、古くよりの家来の横顔にふと老いをみたときの悲しみ、敵の勇者をよう者と思う情」
 この正月、NNKの大河ドラマ「北条時宗」に登場した高橋英樹扮する鎌倉武士が「義」という言葉を使っている。「世の中人のため、義を通す」。「箱根の坂」で北条氏綱は義をいう。
 「行動目標もしくは、ばねとするもので、義をおこなうのは情としてはつらく、しばしわが身を危うくもする。しかしながら、義がなければ国家にも個人にも美しさがない、と氏綱はいう。さらに、美しさがなくて繁栄をえたところで仕方がないものだ、と氏綱は痛烈にいうのである」

 司馬さんは「国盗り物語」でも義を語らせている。
 「人間、大をなすにはなにが肝要であるかを知っているか」(斎藤道三)
 「存じませぬ」(赤兵衛)
 「義だ。孟子にある。孟子が百年をへだてて私淑していた孔子は、仁だといった。ところが末法乱世の世に、仁など持ちあわせている人間はなく、あったところで生まれつきのお人好しだけだろう。そこで孟子は、義といういわばたれでも真似のできない戦国むきの道徳を提唱した。孟子の時代といまの日本とは、鏡で映したほどに似ている」
 孟子の時代と今だ似ている日本。別に大をなさなくても、世のため人のため謙虚に、義をとうし、美をなしている方が秋田におられた。
 鈴木富雄さん。NHKのど自慢のアコーディオン奏者。人に役立つ音楽をと秋田刑務所で「塀の中ののどじまん」をつづけられた。道を歩いていると、見知らぬ人から「あそこではお世話になりました」と頭をさげられる。
 鈴木さんは第二回秋田まごころ大賞を授賞される。受賞理由ー戦後の荒廃した人々の心を音楽で励まし、県民に明るい希望を与え、50年間、秋田刑務所に音楽による慰問活動を続けてこられたー
 授賞式は1月30日夜、榮太楼旅館にて。音楽の縁、同姓の縁で鈴木さんも、できたら、「あそこ」でお世話になった方にもおいで願いたい。


ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年2月25日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「秋田職人の世界」(2)
★山田 実氏(菅江真澄研究会会長)

 「正ちゃんオメ、これ楢山の江畑屋さ これもっていげ」
 というと箱の中に入れた箸の見本を何十も背中に背負ってとことことことこ歩いていって、ははあこれが何町、これが何町と町内を覚えて、目指す建物を覚える。
 肝心なことは、初めて秋田の丁寧な秋田弁を覚える。
 そういうふうに、人々と外の応対というものを弟子入りの最初の基本にした。そのなかでこういう話があります。
 三伝商事の歴史の本をみると、岩見店主三内から来た金ちゃんという男が、店主の三浦伝六から、「金ちゃん金ちゃんオメ、黒光町のヨシエばあちゃんさ、重箱返してこい」「はい、重箱返してくるす」こういうふうに昔は、弟子入りの時は必ず復唱させたそうです。例え側にポストがあっても、
「金ちゃん、葉書」「はい、葉書今、金ちゃん持っていきます」
 そうやって復唱して確認して、重箱を返しに行ったんです。
「金ちゃん何といった、尾鰭こつけて、いたなみてだし、オメそんなバカなことないだべ」そしたた側にいた樋口さんという番頭さんが、「やあやあ、それはあいだすべおどうさん。おいたわしいものをいためていだ」
 痛み入るというのは丁寧言葉で、大変有り難うございましたという意味です。おひれこつけたというのは、恐れ入りましたという言葉を尾鰭こつけたと、これは作り話かも知れません。だけどもそれくらい在の方からきた子どもは初めて器量を覚え、初めて秋田の挨拶を覚えることが基本であった。ね、これは大変興味のあることです。この良さは、大工さんに弟子入りにいっても、左官屋さんにいっても、職人だけじゃなくてそういうしつけがあったんじゃないかと思います。

 職人になるまでの過程を話しているんですが、これは大正の時代の話です。
 一番先に起きるのは祖母のサキでまず湯を沸かして、弟子たちを起こす。やがて水くみオドが早朝にやってくる。川端の水くみ場へ降りていったオドは、川の真ん中ほどの流れの急なところで、天秤のたご(担桶)を入れ、掛け声を弾ませながら工場の大桶へ運ぶ。早朝3,40回ですよ。一番の力強いのは川尻のオド。次は牛島。 それから隣の青木ですか、共同でオドを頼んで信太薬局のところは浜でした。川の側にあった所は全部平地であって、薪の置き場であって水くみ場でした。通り橋の信太薬局のあるところは、ゆるーい傾斜で水くみオドが適当な力でバランスをとりながらいくには、あのくらいの傾斜があって、今の那波の水くみ場は飾りじゃないかと思っています。ほんとうの水くみ場はもっとゆるやかなはずだと思います。
 水くみが弟子達にとって一番難儀でした。そして、川端には水を使うところの職人さんがいて、開運堂も榮太楼も小野パンもありました。
 食事は朝晩、湯漬け飯で、やかんに柄杓をいれて茶碗に飯を盛るときは、お湯をかけてズルズルズルッと。
 私が小学校2年の時、湯漬け飯でした。5年頃から、熱い白いご飯で、朝みそ汁でしたが、昭和2年の頃ですから、70年も前です。
 だんだん良くなってきますが、榮太楼でも三伝でも親方衆の弟子をいれているところの家庭は、いわゆる屑米、玄米ですね。おかずは梅漬けと漬け物、よくもったもんです。だから、岩見三内からきた高等2年卒業してきたものは、「おら、家で白い飯たべてた、町はなんだもだ」これは何も秋田だけでなくて、土崎も能代も商人のところはほとんどそうです。

 よく冷やかしたものです。昼はご飯にみそ汁、おかずは塩引きに佃煮、晩はおつゆに魚がついて、職人には調子一本。これが大正時代です。農家の出身の方が多いもんですから、熱いご飯に慣れていて最初は、難儀したようです。
 洋服を着るようになったのは、大正時代でそれも、12年の関東大地震の頃からです。当時、お客さんと応対する弟子達は、ツットコといい筒のような袖に帯をしめて、前垂れをつけました。着物は手織のシマの合わせ。裏の付いた着物です。しといというのはうらのついたきたないやつです。はたこ、肌に直接つけるから。しまの浴衣地。これはシマンネル。
 工場の方は、メリケン袋でつくったじゅはんに前垂れという簡単ないでたちが、菓子の弟子入りの姿でありました。
 年季奉公が県内の各地から集まって、能代、五城目、大曲、仙北地方で小学校の高等科、今の中学2年を卒業すると縁故を頼って、ほとんどが手に仕事を覚えるためでした。4年の年季奉公をして、1年のお礼奉公、それから兵隊検査につとめたわけです。このなかにあんねり一年というのがありまして、今のように機械でかくはんするようなものではなくて、あんを練るというのは大変な労力でした。ですから、面白いことに、菓子屋で4年鍛えた男は、歯はみんな入れ歯なんです。
 砂糖のあれでやられましてね。歯が抜けるんですね簡単に。
 私の同級生も鷹匠町の榮太楼にいましたが、学校卒業したら、いきなり歯をやられました。
 ところがそれに反して、海軍にいって船に乗った連中は、ともかく腕相撲が抜群に強かったという話があります。

 初め石炭で釜をおこします。石炭の箱を拾って倉庫から上げて運ぶ力が、腕相撲が高等2年を卒業する12、3歳の頃と比べると力が全然違います。
 秋田の諺に、餅つく力は親はこせないというのがあります。菓子屋の職人の普段は全く同じだと書いていました。
 こうやって今度は技術を覚えるわけです。一人前にだんだん育っていきます。そうして年期がたつと甲種合格となると兵隊に入る訳ですが、さらに一年、お礼奉公しまして、職人として認められるわけです。なかには職人として認められないのもいまして、渡り職人といいまして、竹べらを一丁もって、全国をまわって歩く職人が明治、大正のころからありました。
 そういう者を使ったのは、榮太楼が初めてだという話ですが、しかしそういう連中は、全国を歩いて、全国の菓子の名品を盗んで又、自分のものにして、いいものを残していく、それが仁義だったそうです。現在でも残っていて有名なので、兄弟弟子のようなもので、函館に千秋庵そっくりなものがありました。それは榮太楼で教えた職人が千秋庵の指導者であったからだと思われるからです。
 戦後はこういう職人が変わってきています。よその例はわかりませんけれども、榮太楼は昭和24年に物価統制で再開しました。その時に、月給制度を取り入れました。定休日も設けました。月給の他にボーナスも支給しました。

 昭和24年の新制中学校の月給が300円。26年が500円、定休日は秋田菓子商組合が決めた毎月15日とした。榮太楼の取締役の小国東三郎さんの月給は、5000円でした。ところが工場長の月給は、何と一万八千円でした。このように非常に差がありました。この頃の従業員は全部住み込みで、身に着けるものは一切支給され、食事もその中に含まれていました。年期は5年とされてました。しかし月給はくれました。ところが15歳からだんだん酒も煙草にもなれてきて、給料の使い道も映画が最高、次が夜泣きそば、中にはうちからお金を送ってもらう者もいて、米一俵を送ってもらう者もいました。

 今でも、15日に休みは秋田の高砂堂のお菓子屋あたりです。昔は1日と15日が職人の休みでした。このように同じ職人でも、弟子入りの期間というものが、そう変わりないけれども、給料制になったのが、民主主義がいきわたって労働に対する対価を評価しなければならないという考え方が広まってきた。今でも従業員の会が榮太楼でありますが、その時はいつも苦労した話もさることながら、結構、その時代時代に、面白かったことを実によく教えてくれました。おばあちゃんが仕事に随分うるさかった。だけども三度の食事に気を使って、朝はみそ汁にジュンサイ、そのうえ納豆に梅漬け、昼食は簡単だったが、夕食は魚、たまには肉がでた。ご飯は食べ放題、最も週に何度かはうどんやソバであったが、桃の節句や、菖蒲の節句、お盆、お祭りには混ぜご飯のお茶釜を作ってくれ、家庭的なところがあって、その時の糸こん入りの肉かやきが今でも覚えているとか、の話を座談会で聞いたことがあります。

 こういうふうに職人になる前の弟子入り修業というのは、12、3歳から20歳までがむしゃらにがんばった者や、簡単に転業するものもいたけれども、当時は子どもが多くて、長男は家のかまどを守ってもらわなければならないけれども、次男三男はともかく手仕事を身に着けて一人前にしてやらないといけない。この子どもの将来がうまくないというので、仙北から平鹿から、男鹿からわんさと来て、才覚のたけた方は一人前の親方になって、今立派な事業家になっているでしょうが、そこまでいかなくてそこそこになっている人もいる訳です。

 こういうのを私が調べていると、コレラが流行って秋田には六千人の罹患者をだしています。明治19年、全国で十一万人が死んでいます。秋田県で三千六百人。明治21年、コレラが頻繁におこり、それに赤痢。そのために秋田では京都に次いで上水道が早かったですね。
井戸や川の水を汲んで生活をした製造業が、水道が出来てから急激に売り上げが上がりました。

 それから明治38年に奥羽線が全通してからは、甘いものが豊富に安く貨車で送られてくるようになりました。今度は菓子の甘みが違ってきた。ガスだとか水道などの社会資本の整備と、交通の便利さ、そういうものがあいまっていろいろな仕組みが今日までになってきたんではないかと思います。

 最後に私、ねぶり流しの妙技会の審査を十何年やってきました。
 柳町、大町、米町、亀の町、そういう職人の町の連中は竿燈の妙技が抜群です。今は新屋とか自衛隊とかいろんな所から来ますが、職人の方々はつま先で仕事をする人が多い。手首で仕事をしている人が多い。大工さんでも指物師さんでも、塗りや板金さんでも高い所でつま先で、しゃがんで手首を使って仕事をしてますね。
 持ってうまれた技が60キロ以上、風に吹かれると100キロ以上にもなる竿燈を支えるのが職人技にあるように感じます。
 今はそう差が感じられませんが、うま味のある技というのは職人の伝統的な柳町だとか米町とか亀の町の方々のほうがうまい、やっぱり手仕事からの技が身体のつくりが、サジェスチョンされてきたのではないかと。
 職人さんへのひいき目かもしれませんが、そう感じております。


呑 風 日 誌 抄
 12月1日(金)秋田市山王・中華食堂」王芳食堂でカミサンと。安上がりだが車なので酒は飲めない。連合秋田の菅谷会長から電話があり、大町ビルのJタイムでビールを二人でたらふく飲む。
 2日(土)昼、榮太楼旅館。秋田まごころ大賞審査会。大友康二委員、小国輝也委員。NHKのど自慢アコーディオン奏者の鈴木富雄さんに決定。戦後から半世紀、音楽により人々を励まし、秋田刑務所に慰問を続けたこられた方。
 秋田市文化会館にて、雪国フォーラムに出席。
 3日(日)セレモニー平安。やまばと保育園の故大友睦子さんの葬儀。やまばと太鼓を主宰され、ペルー協会設立総会で児童の太鼓演奏、交通安全太鼓の作曲までして頂いた。障害者福祉活動を始めたばかりだった。(合掌) 
 園児の歌が涙を誘う。
はじめの一歩 あしたに一歩
僕たちの未来へ一歩 歩き出せ
勇気をもって一歩あるきだせ
 7日(木)文化を語る市民のつどい。秋田ビューホテル。トークショー「くらしの中の美」押し花の平田睦子さん、ヘアデザイナーの山本久博さんがパネラー。懇親会は尺八の田中寒山名人のテーブル。秋田魁新報吉田博美総合企画部長による「一五の春」は集団就職の仲間を思って作詞作曲。いい歌だ。中学野球部後輩の小松正夫市文化課長とまごころ大賞受賞候補の鈴木富雄さんの店大町第3金忠ビル内「オルガニート」へ。なんとそこで同じ中学先輩で近所だった佐々木輝雄、文男兄弟とバッタリ。大友康二先生から電話要請をしてもらい、鈴木さんにまごころ大賞を受諾して頂く。ふるさとのまごころ酒で乾杯。鈴木さんの伴奏で「おふくろさん」を歌う。
 8日(金)秋田市文化会館。「読み聞かせ会・耳を澄ますコンサートへ。風のほほえみ。谷京子さん、臼田恵里子さんの朗読、佐藤滋先生のピアノも素晴らしい。
 9日(土)秋田中央郵便局での旧知の安藤ひろし絵展。ブナの絵が主体。夕方、久保田会館。ハラショー会へ。在秋ロシア人6人が出席。月沢雄一会長、藤原洋局長、日ロ友好協会設立の話。
 10日(日)女房と土崎温泉アッタマリーナ。
 11日(月)川反・亀清。「森の会」忘年会。メンバーには中国の万里の長城に植樹してきたのもいる。市内に鎮守の森をいっぱい作りたいが場所がないのが悩み。
 13日(水)彌高会館。本荘高校59期秋田同期会。高山尚(たけや製パン)越後屋寛(秋田放送)黒木丞(県庁)河西直樹(県庁)工藤兼記(秋田県警)梶原勇夫(梶原商事)、二次会は川反・ゆりでカラオケ大会。真面目そうなのがよく歌ってうまい。
 15日(金)彌高神社・北嶋昭宮司宅で勘左エ衛門と三人会の忘年会。今年は川反観音像をつくった来年は何をしようかと。
 16日(土)クリニカオルトの湊先生の紹介。秋田パークホテルにて高橋運紀社長と老人福祉施設の話。施設づくりのプロ、栗河和夫先輩に相談を。
 20日(水)佐藤善三大先輩に呼ばれ、叙勲記念にと備前焼のぐい飲みを頂く。大好きな備前焼きで灰神楽もばっちりあって嬉しき限り。稲門会で叙勲祝いをしなくてはいけないのに、先生の腹の大きさに感服。
 秋田市大町・南部にて役所の忘年会。二次会は有志で三味線茶屋すがわらで騒ぎ、岡本新内を聴く。 22日(金)平安閣。ラグビーの快男児瀬下和夫ワールド。親友の原辰徳トークショー。日本シリーズの裏話が聞ける。同じテーブルに山本洋・東北製紙総務部長、両耳ががつぶれている。明治のレスリング部だった。
 近くのわらじ。国際交流協会の忘年会へ。皆できあがっている。
 23日(土)天皇誕生日。彌高神社。北嶋昭宮司、いいところへきたと天長節(誕生日を祝し、陛下を中心とする日本国のいよいよの発展を祈る)が始まる。氏子総代の松本秋次先生代理ということで、玉串拝礼。終わってから宮司さんより玉串の個人指導。夕方、うちの神様と秋田温泉プラザへ。
 24日(日)ふるさと大内町の宝、民謡の佐々木実さんの日本民謡協会技能章受賞祝賀会。彌高会館。600人も大の盛況。奥さんの踊りで、由利伊予節を弾き語りも素晴らしい。
 25日(月)秋田空港。東京行き最終便。九州の実家に帰る女房を送る。雪で遅れたが、地方空港のいいところ、5分前でも乗れた。
 27日(水)秋田市山王・八条。全国職人学会事務局の忘年会。工藤幸彦幹事長、森川恒事務局長、保坂三千恵事務局員と。ご苦労様でした。
 28日(木)今年最後の大江戸ラーメン。館にて、恒例、親友渡部薫と二人で忘年会。二次会を駅前の小料理屋だんぼ。演歌師の山本実さんを呼び、人生劇場。
 29日(金)榮太楼旅館。まちおこし若者グループ トトカルチョマットマンズの忘年会へ。あゆかわのぼるさん達と招かれる。ノリのいい元気で愉快で、若くきれいな女性会員達と先酒であった。
 31日(日)秋田中央郵便局へ。何とか年賀状の添え書きを書き終えて合計2800枚。大内町の実家に帰り、21世紀へ。
 どんぷう後記
 人生はまさに出会い。人生劇場の台詞にある、会うは別れの初めとかサヨナラだけが人生だ。ですが、悲しいサヨナラをした方々が多い昨年でした。ご厚情に深謝合掌し、21世紀の新年、これまでの縁を大事に、新たな良き出会いに期して、縁を生かし義でもって事をおこしていきたい。