反 骨

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 宇都宮徳馬先生が先月亡くなられた。反骨の政治家として、一度は外務大臣をさせたかったとマスコミ関係者がいっていた。同感だった。ご冥福を心からお祈りいたします。
 昔、数ヶ月だが、宇都宮先生の第八番目の秘書として議員会館にいたことがある。学生時代にキューバに行った関係で、宇都宮先生と親しい山本満喜子さんの紹介だった。
 昭和44年の秋。宇都宮事務所。一本の電話が鳴った。受け取ったのは女性秘書の太田黛さん。その電話が宇都宮先生につながれ、先生の大きな声が聞こえた。これが金大中拉致事件の第一報だったと思われる。白昼、金大中韓国大統領候補が韓国大使館付き武官と思われるグループから拉致され、不審船に乗せられて、韓国に運ばれていった。宇都宮先生他、金大中氏と親しかった関係者が世界世論に訴えたお陰で、命は取り留められた。それは議員会館への一本の電話で始まった。

「財の独立なくして思想の独立なし」と坂本龍馬がいった。宇都宮先生はまさにそれであった。京大の学生時代、マルクスボーイで、資本論を勉強して株で成功したといわれた。その資金で、ミノファーゲンという肝臓薬の特許を買いとって製薬会社を興した。

 宇都宮先生が政界で反骨精神を発揮し、一匹オオカミでいられたのは財の独立があったからであろう。一時は石田博英先生と石橋湛山派に所属していたが、引退まで無派閥で通された。選挙区は東京二区で、大田区が地盤だった。
 「木を植える政治はよい、木を切る政治は悪い」と教えられたのが印象に残っている。
 議員会館には様々な人が来る。高知県のある県会議員。先生に惚れたという。陳情を断わられ、大喧嘩してかえってフアンになった。共産党を除名された歌舞伎役者に大田秘書が月々の生活費を渡していた。野党の著名な代議士が堂々と金を貰いに来た。
 45年の総選挙。佐藤内閣の時代だった。私は五反田の邸宅に寝袋を持って泊まっていたこともあった。秘書達は大田秘書を除いてはワンマンの先生には汲々としていた。
 先生が、中曽根から頼まれたといって、一人の青年を我々秘書陣に紹介した。サラリーマンを辞めて中曽根康弘代議士秘書になった与謝野馨という真面目だが暗そうな男。(今回の選挙で落選した前通産大臣)都会型の選挙を勉強したいとのことだった。
 五反田駅前。選挙戦で宇都宮先生の第一声は。外交問題を語り、期間中の禁煙を公約。
 第一秘書がポスターサイズが大きくなったのを忘れてしまった。看板張られたポスターが先生のだけ小さい。すぐに作り替えさせられた。
 佐藤総理が応援に来るというので、選挙事務所にいたのは先生一人。私は大丈夫ですから、どうぞ他を回ってくださいと、時の総理にいって応援を断った。反骨政治家の面目躍如だった。
 当選後、議員会館に政治評論家達がやってきて、世襲政治はあかんとかいっている。 私は政治の裏側を見て、ここにいるのはあかんと思った。

 選挙後にすぐ、議員会館で先生に辞めさせてくださいといった。理由はベトナムに行って農業開発をしたい、だった。ベトナムに行けず、私は故郷に帰ってきた。(合掌)


ふるさと塾地域づくりゼミ
平成11年9月24日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「ふるさとづくりの老人力」(2)
★ 斎藤 秀樹 氏
 (秋田県老人クラブ連合会事務局長)

 大変長期にわたっていろいろ援助する時には物資というものも大変有効な手立てでありますけれども、国内においてあのようなことが起こりました時に、3日間は大変不便でした。飲物や食物の問題、大変不便だったと仰っていました。ところが考えてみますと、電車で15分乗りますと大阪に着きます。大阪は、こうこうとネオンがあって、何もない状況なんです。そこでそういう大きなものがあったということが分からないほどの状況なんです。ですから、物や何かは届くんです。親戚がいたり何かするわけですから、そんなにテレビなどで言っているほどではなくて、意外とそれは届く、また調達も可能だということがよく分かりました。

 南野さんが一番言いたかったのは、ポカッと心の中に穴が開いたような、いわゆる虚しさが残ると。これは高齢者のみならず皆が同じような気持ちなんですよと。これをなんとか埋めていきたいけれども、自分ではどうすることも出来ないというのが彼の言った言葉なんです。私が戻りまして、その穴を埋める手立ては何かないものかなと、何か出来ることが出来ないかなと思いついたのか、友愛の手紙を送ろうと呼びかけ、うちのメンバーに呼びかけて、宛名のない手紙を書いてもらいました。誰に手紙がいくか分かりませんから。 その中に必ず切手や封筒を入れて、それは自分に返事をよこせというのではなくて、切手や封筒を買うにもなかなか不便なわけです。郵便局が潰れてしまっているとか、些細なものが手に入らないということがありまして、それは使っていただくためにそうしなさいといって呼びかけましたら250通を超える手紙が集まりました。それを私共の職員が持って行って、向こうに行って届けるという作業をするわけです。それを受け取った方々からやはり返事がたくさん来まして、遠い秋田の人たちが私共のことを心配してくださっているということが大変有難いという手紙が戻って参りました。それから手紙のやり取りがずっと続いていくわけです。

 それで私は満たされたというふうに思いませんけれども、それが被災地との交流のきっかけでございました。当時を記憶しておられる方は分かるかと思いますが、阪神大震災で一番評価が上がったのが若い人たちだと。今の茶パツだとか、耳にリングをしているような、一見大人から見ると、どうも困った若者世代がいち早くあそこに駆けつけて、そしてボランティア活動をしたと。素晴らしいボランティア活動だということで、今の若い人たちに心がないと思っていたけれども決してそんなことはないということで、若い人たちの評価がまさしく高まったと。
 私共はあの当時、若いボランティアは必ず帰らなければならないと、ある一定の時期、期間を過ぎると戻らなければいけないだろうと。できれば、その後に高齢者が何か出来るようなボランティア活動を今から準備しようというのが私共の狙いでありましたので、手紙というのは大変良いきっかけでございました。この手紙の交流をきっかけにしながら、向こうの老人クラブとうちの方の老人クラブ同士を姉妹提携をさせるということを次のステップで考えまして、これはあまり向こうの方はそれどころじゃないという気持ちがあったのでありますけれども、やっと11組の老人クラブ同士の姉妹提携をさせました。

 今度は個人と個人との手紙の文通のようなものから、向こうの組織とこっちの組織が行き交うようなスタイルに少し規模が大きくなりました。こうなりますと秋田の農家の人たちは米を送るとか、野菜を送るとか、りんごを送るとか、いろいろ物資のやり取りが出来るようになりまして、それはまた大変有難い、楽しいことでございました。その調印式というものが向こうの方で、これは1年経過した後にやったわけでありますが、11組の縁組が出来たわけですが、その時に仮設住宅がどういうところなのか一度是非案内をしてもらいたいということで、うちのメンバーを仮設の住宅に、うちの方の関係のメンバーのところに連れて行ってもらって、仮設がどういうところなのか案内をしてもらったわけです。その仮設に行きました時に、案内してくださった人が、こんな狭いお風呂なものだから手足を伸ばしてゆっくりお風呂に入りたいというのが今の一番の願いなんですよということを仰ったんです。帰りましてから、私たちの手で、なんとかゆっくりお風呂に入れてあげることが出来ないだろうかというふうな発案をして、秋田にその方々を招いて、被災体験を私共が直接生で聞く機会をもとうと。向こうの困っている人たちを招待するというのも、その被災体験の生々しいものを私共の方の会員に伝えてもらうという、そういう役割を持ってきてもらおうじゃないかというのが仮設の方々を秋田に招こうという運動でございました。なかなかお金がないんです。向こうから招くにしても。試算をいたしましたら、やはり200万とか300万はかかるわけです。そこで考えつきましたのが、郵政省が70歳以上のお年寄りに切手をプレゼントしようということが記事になって出ておりました。これは申請でありまして、自分が郵便局に行かないともらえないわけです。これは良いことだと思いまして、うちの方の組織に話をして、みんな良いのがあるよと。これにみんなが行くと郵便局で700円分の切手をもらえることになると。これは行かないてはないと。皆さん是非行ってくださいと言って、実はうちのメンバーに呼びかけたんです。東北郵政局というところから早速電話が、始まる前にですよ、電話が来まして、実はこういう情報が私共に入っているけれども本当ですかと。その切手は、高齢者の方々が自分が使って、お孫さんだとかいろいろな方々に交流をしてもらうためにプレゼントしようという郵政省の配慮なので、秋田県老連のやるような、みんなが集めてやるようなことはけしからんというお叱りの電話でございました。誠にその趣旨はそのとおりであります。そこで手法を変えまして、いや、何も切手だけじゃなくていいんだと。お金も含めて何でも結構だから、皆さんからそういうものを寄せてくださいと言いましたら、もう話はずっと浸透していますから、みんなそのことを伏せながら、秋田県内の各地の郵便局に長蛇の列を作ったと。本局の方に連絡が来まして、うちの方はもう朝から老人クラブの会員が長蛇の列で切手数が底をつくというようなことがたくさんありましたし、中には郵便局長が、老人クラブは並ばなくても良いと言ってくれれば、こちらの方からもう一括して差し上げるから、もう自由に配ってくださいというところまで現われまして、集まった切手が680万円分が集まったんです。その他に郵便書簡というのがあるじゃないですか。あれもプレゼントするというものですから、それも集まったわけです。それはみかん箱にびっしり2箱。それをお金に換えるというのはなかなか難しいので、それはもう現地に送って、現地で使ってもらおうということにしたわけですが、切手だけで680万円ほどのお金が集まりまして、それは企業に協力してもらって現金化して、私共も彼等を招くための680万円の資金が出来た。

 それでバス1台分の人たちに来ていただいて、秋田で2泊3日を過ごしてもらうと。もちろん語りとして来てもらうわけですから、自分の体験を伝えてもらうと。そのためには温泉旅館に1泊泊まって広い温泉に入っていただくことだけではなくて、うちの方のメンバーのところにホームステイをしていただこうと、こういう案を出したわけです。ところが若い人のホームステイは聞いたことあるけれども、お互い年寄り同士でホームステイというのは、どうもあまり聞いたこともないし、うちの方のメンバーもあまり良い顔をしない、来る方のメンバーも、いやぁそれはもう今この年になってから他人の家にお世話になるのはあまり好ましくないということで、お互いあまり良い返事はしなかったのでありますが、実はこれは後になって大成功でございました。

 来られたメンバーを県内10数カ所のところにそれぞれ迎えに来ていただいて届けたわけでありますけれども、1軒に2人ずつお泊まりをいただきました。いろんなエピソードがありまして、行ったことのない買物をさせられたとか、旦那さんが。それから風呂で背中を流したとか、いろんなエピソードがあったわけでありますが、送る側も心配でありましたし、行く側も心配でありましたけれども、翌日になりましてまた皆さんが秋田の指定された会場に戻って来たんです。ところが、行く時とは全く変わって、100年来の友人のようにしてお互いが帰って参りました。行かない者たちは唖然として、この一夜の間に何があったのかと思うような大変貌をし、大感激をして帰ってきたわけであります。これは若い人たちのホームステイと何ら変わるところがなくて、高齢者同士の持ち味を出した素晴らしいホームステイがそこに繰り広げられた結果だったわけであります。これが大きな支えになりながら、今、秋田と西宮というところとの間の交流はずっと続いているわけであります。
 つい先日は秋田県の井川町で桜の苗木で植樹祭をいたしました。この植樹祭は、秋田にいろいろお世話になったということの意味もありまして、何か記念になるものを是非あれしたいということで、西宮に有名な山桜がありまして、その山桜を秋田に持って来て植えたいということで場所を探しておりましたら、井川町の方で、日本の桜の種類を集めた公園があるんです。そこで植樹祭をいたしました。向こうから110名ほどがいらっしゃったと。実はこの植樹祭というのは、それは珍しいことでも何でもございません。ただ、これは面白いなと思いましたのは、公園は行政が管理しているところなものですから、町の役場に行きまして担当課、さらには助役さんや町長さんにお話をして植えさせていただくということになります。当日、もちろん町長さんも出られたわけでありますが、桜の苗木を頂戴出来るという程度におそらく町は考えておられたのだろうと思います。ところが向こうから110名の方々が来て、そして植樹祭に至る僅かな時間の間に、井川町の方々が今までの植樹祭と違うぞという雰囲気を感じとったんでしょうね。町長さん、議長さんは、その後の私共の交流会に参加をして、とうとう最後まで席を立ちたくても立てなかったというのが本当のところだろうと思います。

 翌日議会があるので私共も心配して、町長さん、いいんですかと言いましたら、いやぁ、これだけ高齢者の方々の熱気に煽られて帰るに帰れませんと。しかも今日の交流会というのは、植樹祭というのは、単に苗木を持って来るという植樹祭ということではなくて、今まで長い間の秋田との関わりというものを、皆さんが背中や胸の中にたっぷりと納めてくるものですから、初めて参加しました井川町の役場の方々、議員の方々は、みんな大感激をするわけです。たかだか植樹であるにもかかわらず大感激をいたします。町長は、いやぁこれを縁として西宮との何か交流もしていきたい、大変良い機会を与えてくれたということで、老人クラブが取り持つ縁というものが井川町で今生まれつつありました。

 この間町長さんとお会いしましたら、是非一度私と一緒に西宮の市長に表敬訪問をしたいから橋渡しをしてくれというようなことになっておりまして、高齢者が初めて小さなことでありますけれども、そこには大きな心の支えみたいなものがありまして、これが井川町に今少しずつ花開こうとしているような動きになっているんです。同じように西宮の方も、西宮市というのは秋田市が人口30万人でありますが、西宮は人口が40万人でありますから、秋田市よりも大きいところであります。ここには秋田県の男鹿石を持って行って、大きな碑を作っております。これは震災から3年を経過した時に、一応秋田が何か西宮をいつまでも支援をするというそういう関係は、ここでピリオドを打とうと。これからは、お互い対等な立場でやろうよということで、その何かの証になる記念碑を作ろうということで記念碑を現地に作ろうとしたわけですけれども、秋田の石を持って行って作ろうということになりましたから、秋田の寒風山から出た男鹿石を持って行きました。巨大な石なんです。重さが約20トンあるんです。1個ではなかなかもちきれなくて、3分割して、真ん中には「追悼」、それから「友愛」「感謝」という文字を刻んだ大きなものなんで、それを持って行きまして、向こうでも盛大な序幕式をやったわけですが、西宮の市長さんもこれはびっくりされていたんです。その石にびっくりしたのではなくて、序幕式のムードそのものが熱気溢れるものなんです。これは圧倒されているわけです。私は高齢者の持っているパワーというものは、一人一人のパワーというのはそんなに大きくないというふうに私共は思っておりますけれども、あのパワーはみんな寄せ集まりますと、これはなかなか捨て難いパワーがあるわけでありまして、これから秋田が高齢化社会になって高齢者が多くなると。いろんな高齢者が多くなることによってマイナスの問題点がたくさんあるわけでありますけれども、その高齢者のパワーをうまく生かすということが出来たところが、おそらく町づくりでは成功するのではないかなというふうに私個人などは思っています。これは好むと好まざるにかかわらず高齢者が多くなるわけでありますから、これをどんなふうに生かすか殺すか。これは町づくりだけではなくて、いろんなところで実験としては大変興味のある実験が続くのではないかと思います。

 秋田県の大内町に三川というところがございます。三川寿会という老人クラブがございまして、おそらく今はもう亡くなられたかもしれませんが、ここに鈴木久治さんという会長さんがおられました。ちょっとユニークな方なんでありますが、例えばイガのない栗を作ろうと。いろんな接木をされたり、そういう趣味を持たれているこの方が、花も実もある公園作りをしようというふうに地域の荒れ地のようなところを、長い時間をかけながら公園作りをされました。その公園は、おそらく今も残っているはずであります。お金をかけないで公園作りをするわけでありますから、自分の趣味の生かしたものにするわけでありますが、桜の木に接木をして、桜桃の接木をするわけです。花を見ながら桜桃、つまりサクランボも採れるというサクランボの並木を作ったわけです。びっくりぐみの木をたくさん植えました。それから小高い丘のようになっているのですが、山の上に真っ白なツツジを植えて、下の方は紫のツツジを植えようと、それを一生懸命接木で増やしたと。そういう活動をずっと長い時間をかけて、老人クラブのおじいちゃん、おばあちゃんたちでコツコツと進めたわけです。誰もそれは最初は気付きもしなかったのだろうと思いますが、次第次第に形が整ってものが大きく育ってまいりますと、これは地域の方々の目にも触れることが出来ると。岩谷小学校の毎年1年生たちが、そこの公園を使って、そしてびっくりぐみの実を採らせたり、1日そこで自然教室のようなことは、もう毎年の恒例の行事になっております。この鈴木さんが仰ることには、ふるさとを知る、ふるさとが良いところだなと思う、ふるさとを実感するということは、やはり自分の手で実をもいだり、自分の足で野山を駆け巡るからふるさとを実感するんだと。このこの子供たちはいずれ大内町を離れて、いろんなところで生活をするだろうと。だけれども、決して大きくなっても自分が育ったふるさとを忘れさせないために、私たちはこういう公園づくりをしているんだというのが鈴木さんの言い分だったわけです。鈴木さんを知っている人は、その人がこんな気の効いたことを言うかなという、まさしく田舎のおじいちゃんでございます。その方がコツコツ自分の発想を持って始めたことが老人クラブの他のメンバーにも飛火し、やがて地域の参加の方々の協力をいただきながら、若い人たちが出て草刈りをしたり、いろいろ公園の整備をしていったと。そして東屋が出来たり、障害者がここに上ってこれるようにしようというふうにしてスロープを作ろうという運動になったり、ここにトイレがないと不便だなという動きになったり、三川という小さな集落でございますけれども、そこにそんな思いを込めた人たちが岩谷小学校の子どもたちにふるさとを実感させるんだと、大きくなっても岩谷を忘れさせないんだという運動に取り組んでいるという小さな事例でありますけれども、私はこういう事例が秋田の中で積み重なってきた時に、本当にふるさとづくりの中にお年寄りの出番がある、また出番を見つけるということになるんだろうなということを、あの三川の例で私はつくづく思い知らされることがございます。
 同じようなことは、手法は違うのでありますけれども湯沢に高松地区というところがございます。この高松地区の老人クラブの1つが、道路にコスモスを植えようということを始めました。1、2年失敗するのでありますけれども、やっと成功して、そのコスモスが見えてくると地元の小学校が、是非うちの子どもたちと一緒にコスモスを植えさせてくれということになりました。子どもたちが参加します。是非ここは国道をずっと延々6キロだか7キロあるそうでありますが、そこを全部コスモスで埋めようとすると、また他の老人クラブのメンバーにも呼びかけてコスモスを育てていくということをいたしました。コスモスというのは、やはり道路で見えてくると若い人たちも参加をして、今度は若い人たちの発想でコスモスまつりをやろうとか、Tシャツを作って他のことをやろうという高松地区全体の秋の恒例の行事のようになっていったりいたします。毎年のように小さな記事でありますが、高松地区のコスモスまつりなどというと新聞の記事に出ておりますけれども、小さな発想、おそらくそこまでこうしようと思ったのではないと思いますけれども、その小さな試みが次第次第に広がっていくという花づくりの地域づくりであったりします。

 これで全国で有名なのが長野県の佐久市のコスモス街道というのは全国的に大変有名でございまして、この時期になりますとテントを張って、佐久市観光協会まで出てきて、いろいろとそこで行事をやる、向こうの方では大変有名なところになりましたけれども、これも地域の老人クラブが大変長い時間をかけてそういう地域のイベント化をするまでに発展をいたします。
 今日、JRの駅で無人駅というのが至るところにあるわけですが、無人駅を無人駅にしてはならないといって、老人クラブのメンバーが交代で駅舎につめる、駅を無人にしないということをやっている老人クラブもあったりいたします。高齢者をどんなふうに地域で生かすのか、これはこれからそれぞれ、人それぞれ、また地域それぞれの考え方だというふうに思いますけれども、生かし方があるんだなということをいろんな時事の中で私共は教えられますことと、それから高齢者自身がそこで参加していることによって、大変大きな喜びをもっておられるということが私は学んだところであります。

 先程、大内町の三川寿会の例をお話しましたが、10年もかけて公園づくりをしようという発想をお年寄りの方がもつということに皆さんびっくりしていただきたいことなんです。明日の命も分からんというふうに思って暮らしているのが大方の高齢者、特に70歳を過ぎれば、いつお迎えが来るか分からんというような気持ちがある中で、10年計画で公園づくりをしようという発想もまた高齢者の中から生まれてくるというところに、私は面白いところがあるなと思っております。

 あまり良い例じゃないので町村名は申し上げませんけれども、由利郡内のある町で、こういう事例があったんです。ある施設が出来まして、施設の周りに花壇作りをして立派な花壇が出来ていきました。行きましたら、いやぁ立派な花壇ですねと私が誉めましたら、いやぁ老人クラブの皆さんが交代でここに来て立派な花壇を作ってくれたんですよというのが、そこの施設の方のお話でありました。いなくなりましてから老人クラブの会長さんに聞きましたら、いやぁ非常に不平なんだと。もう二度と花壇作りには応援しないといって、うちの方の会員からは、会長はこんなことをやらせてけしからんと怒られていたと。なぜだと言いますと、その公園を作る、花壇を作るためにお金がない。お金がないから老人クラブを私益として使って、そしてお金を浮かそうと考えたのが施設側でありまして、老人クラブはていよく労働提供させられたということなんです。だから、立派な花壇は出来ましたけれども、そこに心が通わない、もう二度とこんなことは嫌だというのが県南の1つの事例です。

 もう1つの事例は、これは合川町の事例でありまして、あそこに今、北欧の森公園ということで大変広大なところに公園づくりをしています。自分たちで何かしたいと思いついて始めたのが水仙ロードを作ろうという発想なんです。役場から苗をもらって花づくりをするというところは意外と多いのでありますが、予算がなくなりますと花も消えるというのが大方の花壇作りのパターンです。彼等が考えたのは、それじゃいかんと。自分たちでお金がかけずに出来る方法がないかといったのが水仙ロードだと。田舎でありますから、水仙の苗などというのは農家のどこでもあると。それを1人5個ずつ持って来ようということで、初年度5千個の目標をたてましたけれども、実際に集まったら1万個集まったんです。なぜこんなに集まったかというと、いやぁ5個や6個じゃなくて、1鍬入れるとたくさんあるんだと。これを全部使ってくれといって持って来たら1万になったと。それを植えて、これもやっぱり長い年月かけてフラワーロードを作っていこうと、こういう計画をたてて頑張っているんです。

 何を2つの事例で申し上げたかと言いますと、1つは「やらされた」事例です。もう1つは、自分たちが何か出来ることないかと思って、発想を持って自分たちが関わった事例なんです。この事例の中で全く違うものが結果として出てくるというところに高齢者の生かし方の難しさと言いますか、生かし方があるんだということを感じとっていただきたいところでございます。とかく9月になって敬老月間とか敬老の日が近づきますと、報道機関がよく私共の方に訪ねて参ります。何か変わったお年寄りの方がいませんかと。大概100歳になってバイクに乗っていと。あっそういう人いますか?と。80歳でハンググライダーをやっているなどというのは面白いでしょう?というと、そうなんですよと。私のところは奇人変人を扱っているところではないので、そんなことは皆さんが探せば良いでしょうと。私のところは、そういう人たちがいるかもしれないけれども、何も特別な超人的な人をご紹介しても意味がないと申し上げるんです。

 その辺は呈の良い話でありまして、中には若い記者が来て、「お年寄りの生き甲斐というのは何でしょうか?」と、こう言って尋ねてきます。生き甲斐がないとやはり老後というのはつまらないでしょうから、高齢者の生き甲斐というのは、どういうことをしたら生き甲斐があるのでしょうかと、生き甲斐、生き甲斐ということを盛んに言うんです。これは記者に限らず、高齢者イコール何か生き甲斐がないと困るかのような物言いをたくさんの方がされるわけでありますけれども、その記者の方に私はいつも答える前にあなた自身にお伺いいたしますと。「あなたの生き甲斐って何ですか?」とお尋ねをいたします。こう言いますと、つまるんです。これは私共もそうです。高齢者は急に生き甲斐を持たなければいけないことはないわけでありまして、若い世代も同じなわけです。あなたの生き甲斐は?と言われて、即座に自分の生き甲斐はこうですと答えられる人がどれだけいるかというのは、これは大変な問題であります。ですから高齢者に限らず、これはどの世代であっても生きている甲斐と言いますものは必要なことであります。しかし、生き甲斐ということを日頃考えながら、これが生き甲斐なんだ、私の生き甲斐は何だろうと思って暮らしている人は、まずいないのであります。そういう意味では、高齢者にもあなたの生き甲斐何ですか?と言って、即座に答えられる高齢者が多くなくて、これは当り前なのでありまして、そんなことは別に特別考えてきたわけじゃないよと。こんな80まで生きようとも思っていなかったし、たまたま今なったら80になっていたというようなことなのでありまして、何か我々が高齢者をある1つのイメージをもってとらえるのではなくて、高齢者も私共の、今考えている私共の気持ちの延長線上だと思っていれば、そんなに間違いはないだろうなと思っております。

 若い人に出来て高齢者に出来ないということはたくさんあります。しかし、逆に高齢者に出来て若い人にはなかなか難しいなということもたくさんあるなと思います。地震の話では、秋田でも日本海中部地震がございました。あのように津波でたくさんの方、子どもたちが亡くなりました。あの子どもたちが生きていると、もう成人式を迎えるような年なわけです。その子どもたちが亡くなったと同時に、旅行で来られていた外人の女性の方がやはり津波で亡くなりました。男鹿の水族館に行きますと、水族館のすぐ下のところにマリア像がありまして、多くの人はあのマリア像を御覧になったと思います。それから、あそこの加茂青砂のところに行きますと、子どもたちの慰霊碑が立っております。震災の日に近づきますと、新聞でマリア像を慰霊をされている方々の写真が出ます。あれは国際交流をすすめる婦人の会の方々が作ったんですね。それから、青砂海岸の子どもたちの方は、文部大臣の署名がある立派な碑があり、両方とも立派なんです。

 ただ、そこに行って手を合わせる方々は、作った方々でも年に1回なんです。364日は、じゃあ誰があれを管理し、誰があれを守っているかですね。それはニュースになることは殆どないんです。 しかし行ってみると分かりますのは、両方とも地元の老人クラブがコツコツと管理し、清掃をし、補修をしているんです。ところがこれはニュースになりません。ニュースになるのは、そこに行って花をあげて、慰霊するかの如くの人たちがニュースになると。私は何かおかしいなといつも思っております。これは地元の老人クラブが頼まれたわけではないというんです。こんなに空缶や何かが散らばっているようなことではかわいそうだといって、そこで暮らしている人たちだからこそ気付いて清掃せざるを得ない気持ちになるわけです。誰に誉められたい気持ちがあるわけでもないんです。私は、地域づくりというのはそうだなと思うんです。誰に誉められようとか、誰にやってもらおうなどと思っているのではなくて、この中で、これじゃあかわいそうだな、これじゃあよくないなと思うことが出てきて初めて彼等は行動して動いて、それを守りながら今日まで延々とお花を供えて頑張っているんだなということを思うわけです。

 若い人たちは、パーッと花火をあげて、立派なお金を出して立派なものを作って、これはどうだといってニュースにはなります。しかし、それを支えている人たちがあって、初めてそれが守られているんだなということを感じとれる人たちは少ないだろうなといつも思うんです。これは花づくりも同じでありまして、花がパーッと咲いた見頃の時は一瞬でありまして、それを咲かせるための苦労をしている方々の努力というものが目に入ることは少ないわけです。

 私が、お年寄りの良さというのは、継続は力なりだなと、小さな力だけれども継続出来るということは素晴らしいことだなと思います事は、今のような事例でございます。

 これはいろんな角度でお話をさせていただきますけれども、先程募金のお話をいたしましたが、私共の方で昭和43年に明治100年を記念して、全く見向きもしなくなった1円硬貨を自分たちが集めて、それを生かしていこうという「1円ポスト募金運動」というものを始めました。3年間で100万円ぐらい集めて、それを福祉や医療に役立てていこうというのが目的でございました。やはり当初始めた時は3年ぐらいで100万円になりました。ところが、やがてそれが1年で100万円に達するようになりました。やがて、1年で200万円集まるようになりました。今日では1年に300万円集まるようになりました。これは私共の方で、何も尻を叩かなくとも集まってまいります。私はどんなところで、どんな活動をする募金でありましても、何も動かずに、私共が何も動かずに、年々額が増えてきて、そして今や1年間に黙っていて300万円集まる組織というのは、他にはないよと。皆さんそれは自信を持った方が良いと、素晴らしいことだよと言うのだけれども、本人たちは、いや、いつもやっていることだからなどという調子で、そんなに気負ったところもないし、いくらいくら集めようというふうに思っているわけでもない。それは毎年のようにいろんな形で役立たせていただいているわけであります。    

 ユネスコの活動をされていると、お金集めというのは大変苦労するということはお分かりかと思いますけれども、私共は苦労しないわけではありませんけれども、そういう震災がありましたり、いろんな時の募金だとか、今申し上げましたような1円ポストの募金運動とかという、本当によくみんな黙っていてポケットマネーを出すものだなと思って感心するぐらいのことをしゃあしゃあとやってのけると言いますか、これは私共はやはり組織があればこそだなと思いますし、それがまたみんな、そんなに集まったのと言って、みんながまたびっくりするんです。 高齢者の融通の効かなさというか真面目さというか、良さでもあり悪さでもあるのだけれども、1円ポスト募金だから100円玉はだめだという議論が今でもあるんです。もう数十年経って、おかしな話でしょう。もう象徴的に1円ポスト募金と私共は言っているのだけれども、真面目に考えて、1円玉じゃなければだめなんだと思っている人が意外と多いわけです。ですから、みかん箱にわざわざ1円玉にしたお金を持って私共に来る。この辺は、話せば分かりそうなものなんだけれども、一度1円玉というふうに頭の中にインプットした頭は、ようようそれは変えにくいという、しかしそれは次がなくて、1円だ1円だと思っているところに私共は意味があるから、それをあえて正そうというふうには私共は考えませんけれども、その辺の融通のなさというものは、ある意味ではマイナスの部分もあるわけであります。しかし、一度思い込んでインプットすると、それは決して忘れなくて、繰り返し繰り返しそれを行動としてとれるというのも高齢者の強みであります。

 この両刃のやいばのように、1人の人間が両方持っているということなんです。この辺がまた高齢者の面白いところであろうと思っておりますけれども、私共老人クラブの活動を進めていきます時にいつも大切にしておりますことは、1人で100歩歩くよりも100人で1歩歩くというのが老人クラブの信念だと言っているわけです。老人クラブのスーパーマンで、私は100歩歩くことは私共は好まんと。そうじゃなくて、歩ける人かもしれないけれども、100人の人の手を引っ張って1歩歩けば良いのだと、これは歩数から言えば同じだと。昔、秋田は雪を踏んで雪に道路をつけるということをしたのでありますが、1人の人が朝からワアワア騒いで100歩歩いて道をつけるのも、100歩の道しか出来ないと。100人の人が出て、1歩ずつ歩こうよと言って歩いただけでも100歩の道は出来るわけでありまして、その価値たるや私共は同じであると。そうすると、高齢者は1人で100歩は無理かもしれないけれども、みんなそれぞれ1歩だけはやろうという活動を、みんなが少しずつ力を出しながら、しかもそれを継続してやることが出来るのがシルバーパワーと、皆さんや他の人たちにないパワーだということを言いながらやっているわけであります。ですから、もう震災から3年も4年も経って、あの時の震災というのは、あぁそういうこともあったなといって、ある意味では風化しようとしている今でありましても、彼等の心というのは、あの当時と全く変わらないような心で、今も熱き心をたぎはせて、秋田と西宮の交流を会話しているわけであります。西宮の人々は天気予報を見ると、まず兵庫県の天気予報を見るけれども、次は秋田を見るんですよと。秋田の連中は自分のところを見た次には兵庫県を見ると。今までは娘のいる東京が2番目だったけれども、今度は関西の兵庫を見るんですよと、こう言い合っているわけです。私は、こういうようにそれぞれが、震災も1つの意義なのでありますけれども、何かしらで繋がっていって、そして自分をやはり見てくれている人がいると言いますか、自分を心配してくれている人がどこかにいるということが、ある意味では生きている甲斐があると言いますか、何か走ったり飛んだりするというような生き甲斐や勉強をするという生き甲斐もあるのでありましょうが、自分を忘れないで見てくれる人がいるんだということが私共にとってみれば、やはり生きている上では大きな支えの部分があるのかなと思ったりいたします。そういう意味では、何か特別なことをすることを求めるのではなくて、お年寄りの人たちの持ち味をどんなふうに生かしてやれるのか、そしてそれは何もお年寄りのためにやるというのではなくて、自分たちと一緒に考えていくというような姿勢を、共に歩むような姿勢がある方が、私はお年寄りにとっての意味のベターなんだろうなと思ったりいたします。

 島根県出雲市というのがあって、岩國哲人さんが市長をやられていて、大変、岩国市長時代で有名になりましたけれども、市長さんが老人クラブの会合に行って、老人クラブというのは65歳以上が入るところですよね?と言ったら、後で老人クラブの会があったら、市長さん、いや、老人クラブは60歳から加入年齢なんですよというたまたま話題になったそうでありまして、市長さんは、いやぁ60じゃ少し早過ぎないかと、老人クラブという名称を変えて、出雲では違う名前にしたらどうかといって、名前をつけたのが「慶人会(けいじんかい)」という名前です。その出雲市長さんが、あそこも御多分にもれず温泉を掘り当てたか何かしたと。「平成温泉」という名前を付けたと。ここの管理を老人クラブの青年部の人たちが、その平成温泉を管理していると。秋田県内にもたくさんお風呂やさんが出来ました。皆さんのところにもあるわけです。ところが私はいつも行って、出雲のことを頭に浮かべながら、あぁ秋田はもったいないなといつも思います。中には、行政職員が役場の番台に座って頑張っておられる方もいらっしゃると。税金の無駄使いだなとつくづく思うわけです。立派な役場の職員が、何も番台に鎮座ましましていなくとも温泉には入れるわけでありまして、一度出雲温泉に行って、出雲の方は誰が温泉を運営しているのかよく見てもらいたいなと思うことがあるわけであります。あるものを使えないでいる、あるものを生かせないでいるというのが今の秋田の、ある意味では一番悪いところではないかなと。あるものをどう生かすか、無いものをねだるというのではなくて、あるものをどう生かすかというのが、これからの秋田に必要だと思います。そういう意味では、自然も誠に豊かでありますけれども、高齢者も誠に豊かでありまして、この高齢者の人的な資源をいろんな形で私は使って、生かしていきたいなと。生きたいと私自身も思っておりますし、高齢者が自信を持てるようにしていきたいと思っております。

 先程、秋田は高齢者の自殺が多い県ということで、寂しい一面があるわけでありますけれども、しかし、もう10年や15年しますと、佐々木さんや私共の世代が、まさしくその世代に今度は入ってくるようになりますから、そうなった時には秋田が一番高齢者に住み良いところかなと。高齢者が一番生き生きとしているところだなと、そんなふうになれば良いし、していきたいなと思います。

 最後になりますけれども、日本で一番高齢化が進んでいるだろう、今でもそうだろうと思いますけれども、山口県に大島郡東和町という小さな島にある町が、おそらく今は50%を超えたと、高齢化率です。だから、半数以上は65歳以上の高齢者です。ここは日本の高齢化社会を、いわゆる絵に描いたようなということで、福祉の研究者が東和町にたくさんの人たちが入って、高齢化社会になるとどんなふうになるのか、いろいろ調査に入ったんです。一様に言いますのは、東和町は全然暗くないと。予想に反して暗くないと言って帰って来るわけです。なぜ暗くないかと。一時期それは廃れたと。高齢者は山に入らない、若い人たちは、もう東和町を離れていると。ところが、高齢者を中心とした町おこしをしようということで、高齢者がまた山に入り始めてみかんを作るというふうになりましてから、頼る人がいなければ自分がやらなければいけないというのが東和町の高齢者の生き方になっていると。だからこそ東和町は暗くはないというのが研究者の一致した言い方なんです。

 秋田はそういう意味からすると、若者がどんどん秋田から離れていく。そして東京に就職してなかなか戻って来ない。残されるの高齢者。これは非常に暗いムードで今受け止められておりますけれども、もしかしたらそうではなくて、若い人がいない分、若い人の代わりをいつまでもしなければいけないというふうに考える人たちが増えていけば、秋田というのはそんなに暗くならないかもしれないなと思うのであります。私はこの年になったから隠居して、もう若い人たちに譲るんだというところに、ある意味では世捨て人のような感覚があるわけでありますけれども、譲るにも譲る相手がいなかったりいたしますと、これは最後まで自分でなんとかしなければいけないなというふうになる。または1人が出来なくなると、周りの人たちがそれをサポートしていくということになりますと、東和町も今流行の緊急通報などという便利な機械はない時代に何をしていたかというと、高齢者同士が家の中に空缶をぶら下げて、これをロープでずっと各家々を回しているんです。何かあった時に一人暮らしの人が引っ張ると、これは隣のおばあちゃん何かあったといって駆けつけるような、いわゆる自分たちが工夫した緊急システムを作っているわけです。何も電話線がなくたって、それは出来るわけであります。今日の私共の暮らしの中でも、それは出来ないわけではない。ある時にカランカランと鳴って、びっくりして行きましたら、どうした?と言いましたら、煮豆が出来たからほら持って行けというような、そういうふうな緊急でない時も使ったりするそうでありますけれども、私は人間というのは、やはりみんな知恵のあるものだから、そんなふうに工夫をしながら、自分一人で生きていけなくなれば、お互い助け合っていくという、私は自然な知恵というものが生まれて、そして共に生きるということを教科書で学んだことではなくて、自分たち自身が実践出来るようになっていくものだというふうに信じておりまして、高齢化社会というのは、誠にそんな不安だけの社会ではなくて、もっともっと明るさを秘めた社会だろうと思います。是非これを機会に、何か高齢者を見る視点を、従来の視点にまた幾つかの視点をプラスしながら、いろんな視点で高齢者を見ていただければなと思います。そうすることが将来自分がそうなった時に、やはり1つだけの視点ではなくて、いろんな視点で見てもらえるという部分が、やはり嬉しいことのように思いますので、まずは自分の親から、今までの親子の関係とはまた違うところからちょっと見ていただきたりしながら、高齢者というものの実像に迫っていただければ有難いなと思います。


我青春風来記 (122)
             早海三太郎

 メキシコU(3)

 アカプルコはメキシコ屈指のリゾート地。レオナルドの父はキューバのバチスタ政権から睨まれ、メキシコに亡命し、ここ常夏の港町に白亜の海の家を建てた。入り江に船着き場もあり、傾斜地に何軒もの瀟洒な別荘風建物がある。

 三太郎はその中のコッテージに案内された。メキシコから夜の12時。バスで5時間程で寝ておらず、入り江の海でレオナルドと泳ぎ、疲れたのでベッドにバタンキュウ。

 昼前にレオナルドが起こしに来た。レストランでランチ。 人の良い親父さんは、切手を貼った葉書を渡した。娘のアルモニアがカナダのバンクーバーの万博に行っているので、手紙を出してやってくれという。出来たら彼女が帰ってくるまでいてくれというが、出来ない。メキシコのビザが3日間。明後日にはメキシコを発たねばならない。

 レオナルドが観光案内をしてくれるという。玄関にボロッチイ大型車を乗り付けてきた。フォードだ。坂を下る途中、アカプルコの海が見えてきた。ホテルの前に砂浜が続き、日本の海の家が建ち並ぶ海水浴場ような貧相な風景ではない。絵葉書にあるような美しい海岸の景色である。

 とあるホテルの駐車場に車を停め、椰子の林を通り砂浜に出る。レオナルドが話しかけられた。彼にお茶を飲んでいけといったおっさんの海辺の店に入る。目の前がアカプルコの海。プレスリーの映画に出てくるような、ビキニ姿の金髪のアメリカ人女性が目の前を歩く。空にはモーターボートに引かれた人間パラシュートが浮かんでいる。

 レオナルドが、死のダイビングを見に行こうという。車で10分程走り、絶壁の岩場に案内される。観光客が集まっている。車を降りて対岸を見る。岩場が50bほどあろうか。最初は少年が下の10bぐらいのの岩場から飛び込む。これは前座。最後にてっぺんに立ち、スターと呼ばれる男が、両手をあげ身体を反りだして飛び、真ん中へんから徐々に身体を海中に向けて飛び込む。大きな水しぶきがおこり、観光客が拍手。そこへおっさんが箱を持ってきて回り、お金を集めてくる。「何だ、只じゃないのか」というとレオナルド。「メキシコは観光で持っているんだ」それじゃあと三太郎。一ペソとズボンのポケットにずっしり入っている硬貨を取り出して箱に入れる。メキシコの硬貨は大きくて重たい。三太郎はいった。「メキシコには銀も銅もいっぱいとれるからから硬貨が大きいのか。お前が大蔵大臣になって、硬貨をもっと小さいのにしろ」

 ある教会に入った。入口に入ると何んと。(続く)


 呑 風 日 誌 抄
 7月4日(火)秋田市八橋・西来院。殉難仙台藩士慰霊祭。仙台藩志会の伊達篤郎会長他16人の方々が出席。年来の約束を果たし、川反観音像が完成し、2時から除幕式を開催しますと挨拶。

 大町5丁目橋のたもとに完成した川反観音像除幕式。進行役。歓喜寺の堀口住職との読響、魂入れで始まる。ここにさらし首になった6人の仙台藩士の遺族、木内昭さん他4人が序幕。伊達会長が新たな交流が始まろうと挨拶された。この地で30年間も線香をあげてくれていたでんえんの元店主・市川史郎さんも出席。

 瀧廣明社長から歌三首が披露。
  み顔清(すが)しく 六名の藩士の霊よ安かれと 願い実りて観音像に
  川反芸妓の羽織かけやる 思いやり 今も心にありてかなしく
  川反の灯はほのぼのとともりけり み顔清しき観音像に
 夕方、川反「秋田の瀧」にて直来。15人出席。川反先人慰霊秋田委員会の中島康介会長、仙台藩志会からの感謝状が披露され、今後、川反人として仙台との交流をすすめ、仙台藩士の供養を続け、川反先人の慰霊祭を執り行いたい。よき仲間との旨酒であった。
 5日(水)秋田魁新報社・斎藤容一郎常務と。職人学会の大漁旗作成を快諾していただく。秋田テレビは佐々木三也常務、佐藤康総務部長から大漁旗を作ってもらうことに。ユーアイグループの小畑悟社長を訪ね、ポンと十万円の大漁旗協賛を頂く。皆有り難し。
 夕方、企業教育コンサルタントの寺田穣先生と川反観音をみて、日本一旨いおでんや・江戸中へ。
 8日(土)朝、雨中、単独で花ゲリラ。市内某所に西洋朝顔やコスモスの苗を植える。東北電力の宇佐見豊さんに見つけられた。
 秋田市民市場。義理と人情の男、加賀谷実さんへ。職人学会プレイベントの永六輔さんへカスベ(エイ)の煮物を永さんに贈呈をお願いする。秋田空港。実家に帰る女房を送り、町内会の市民憲章会議。
 11日(火)ふるさと塾。全国職人学会あきたの幹事会。楽観して行動の悲観して楽しい準備をしたい。引き続き司令塔役をするか。
 12日(水)川反・かめ清。藤本光男大先輩を囲み、渡部、丹内さんと一献。二次会はプチ壇。
 13日(木)靉。田沢湖町の田中昭一さんとクリニカオルト、湊先生。アメリカのレスリング仲間、石原剛の中学同級生の息子、栃木県から男鹿水族館に勤務する岡村淳市君を呼び、魚の面白い話。
 14日(金)ふるさと塾。早稲田フェスタあきたの実行委員会。大学広報課の大石氏に来て貰い、日程連絡。塾は暖房付きなので暑く「たかの家」にて皆で多献。大石君の尺八演奏、紺碧の空を皆で歌って一体感を覚える。
 16日(日)NHKエデケーショナルの奥津憲仁氏を迎え、里見温泉から秋田市大町2丁目の石屋にある奥津墓に参拝、川反観音像へ。大江戸ラーメンから彌高神社へ。
 17日(月)秋田ビューホテル。伊勢丹を辞めてフランスのプロラグビー一部リーグ「コロミエ」で挑戦する吉田義人選手の壮行会。
 彼は明治の現役時代、ふるさと塾に来てくれた。北島監督からいわれた「本物 本流 本筋を歩め」という言葉を思い出し、フランスで挑戦する決意をしたと挨拶。
 バウハウスの森川恒社長と山王の焼き肉や。研修をお願いしたブラジルのマルシア達と。
 18日(火)秋田・平安閣。秋田稲門会総会。支部理事会と合流。今は亡き石川公正先輩の裕子夫人も出席。早稲田フェスタの協力を依頼。長門伸一会長と八条へ。
 19日(水)八橋球場。本荘高校対秋田商業。コールド負け。最後まで見ておれず。夕方、勝平コミュニティセンターで市民憲章推進会議。地区環境保全計画。近所の赤提灯で横山邦夫会長達と一献。
 22日(土)川反先人慰霊秋田委員会。川反・レディにて緊急役員会。地主より店子の反対理由で観音像のけさ堂を撤去する問題。
 夕方、山王・秋田藩。公証人の宇田川早苗氏の送別会。青木滋明さん達と山王・グランビア。
 23日(日)朝、五百歳野球中通クラブの練習試合。レフトを守るが、さっぱり当たらず。夕方、割山集会所で町内役員会。八月の納涼会に川反の演歌師山本実氏を呼び、大納涼会を開催決定。
 24日(月)秋田市議会。職人学会への助成陳情で市長、第二助役に依頼。アキタパークホテルにて秋田ウラジオ会総会。ウラジオストクの花嫁、鈴木マリーナ夫妻を招待。ビクトル先生と館で二次会。環日本海洋上セミナーの相談。
 25日(火)川反観音像の地主・なかや社長へ中島会長と。一人の店子の反対が強い、さや堂を来年の慰霊祭の時は設置してもいいとのこと。夕方、靉にて秋田市在住の5人で中学同級会。旨酒。
 28日(金)ふるさと塾。石川直人講師。「ベンチャーのベンチャー支援」感服。佐々木啓助事務局次長と足長叔父さん、ドラゴンへ。
 29日(土)勘左エ衛門と大江戸ラーメン。川反観音のさや堂撤去を依頼。自宅に田川誠一先生から電話。舛谷政雄さんに銅板の色紙を送るとのこと。嬉しき事。
 30日(日)朝、勝平地区役員で雄物川・石山観音像下の清掃。
 昼、秋田空港へ女房出迎え。
 31日(月)全国職人学会プレイベント。永六輔氏の講演。会場を秋田市大町の「ねぶり流し館」の能舞台。「職人の心意気」と題してサービスたっぷりの講演。百三十人の聴衆は女性層が多い。川反・たかの家にて打ち上げ。