ふるさと呑風便12・7号
   さや堂
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 川反の 観音様に 茶髪
    何これ? (見血男)
 川反観音像。秋田市大町5丁目橋のたもとに立つ。白御影石で高さ80a、台座が1bの小さな像である。碑文には「この像は秋田戊辰の役以前、この地で殉難された仙台藩士の供養と川反とこよなく愛した先人の慰霊のために建立す」と彫られている。台座の正面には仙台・伊達藩の家紋、歌人滝広明氏の歌が刻まれている。石の勘左エ門の職人が精魂込めて作ってくれた。
 7月4日は仙台藩士が秋田藩士に暗殺された日。秋田市八橋の西来院で毎年、殉難仙台藩士慰霊祭が宮城県人会によって執り行われている。
 この日に除幕式を予定いていた。1日にはすでに像は完成し、白い布がかぶせられていた。5年越しに建立した川反観音を眺めて、感慨深いが何かが足りない。白いビルの壁を背に立つ像。何だか寂しい。彌高神社の北嶋宮司に相談したら、さや堂を作ったらといわれる。そうだ。祠(ほこら)のような屋根があったらいい。野ざらしだと可哀想だ。秋田市一ノ坪の宮大工、伊藤和雄さんに電話。幸いおられた。観音様のお導きだ。伊藤社長と現地で落ち合う。「きれいな顔している観音様だなあ。二日ででかすんですか。きびしいがやってみましょう」職人の心意気である。

 7月4日午前11時、快晴。現地に大型トラックに積まれた「さや堂」がやってきた。立派な屋根で4本の柱も太い。伊藤頭領の職人技である。職人達とさや堂をはめ込むのを手伝う。ヒバ材のいい香りがしてきた。ようやく納まった。12時。勘左エ門がやってきた。除幕式の準備。絹の白布をさや堂の屋根にかける。「秋田の瀧」の斎藤育男社長も手伝ってくれる。彼の携帯で秋田放送ラジオからの電話で生放送。観音様建立のいわれ、目的の話しをする。川反のまちづくりでもあると。
 午後1時40分。仙台藩志会一行17人が到着。歓喜寺の和尚さんも着かれている。
 午後2時。川反先人慰霊秋田委員会の中島康介会長の挨拶で除幕式が始まった。司会進行役をつとめる。伊達篤郎仙台藩志会会長の挨拶。序幕は当地にさらし首となった高橋市平の子孫、木内昭さん。川反の女性から首に羽織りをかけられた志茂又左右衛門通史の曾孫他、5人によって白黒の紐が静かに引かれた。

 思い出した。昭和六三年十月二四日。秋田市新屋に建立した秋田戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑の除幕式。碑をおおった布が、遺族が引っ張ってもなかなか外れない。今は亡き秋田ステージ常務、加藤恒さんと慰霊碑の後ろに隠れて白布を押し出した。

 先日、宮崎県佐土原町長の戸敷正町長から電話があった。「お陰様で、佐土原藩士の戦死場所、協和町と姉妹町を結ぶことが決まりました」と。

 川反・秋田の滝の座敷。除幕式後の直会。盟友勘左エ門こと高橋正氏にいった。「戊辰の役の有縁によるまちおこしは観音様で一応終わったなあ、これで宮城県と新たな交流が生まれるだろう」
 ところが3日後、地主から電話があった。「目立ちすぎる。店子の反対が強い、さや堂は外すように」と。

 お陰様で心が寂しいのです。


 ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年9月24日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「ふるさとづくりの老人力」
★ 斎藤 秀樹 氏
 (秋田県老人クラブ連合会事務局長)

 ご紹介いただきました老人クラブ連合会の斉藤と申します。
 今、私共の組織は、皆さんの地域で子ども会だとか婦人会だとか、かつては青年団だとか青年会だとかそれぞれの地域にあったと思いますが、あれと同じような、やはり地域が縁で出来ている組織です。子どもは子どもたちですし、青年は青年ですし、高齢者の方々が老人クラブというような組織を作っているというふうにご理解いただいてよろしいかと思います。
 秋田県内では、各町内会には全部あると言って良いだろうと思います。それが1つの町や市で連合会というような組織を作りまして、それを統括したのが県の連合会、これがまた全国にもあるということで、全国では会員数が880万人ぐらいおりますから、会員数だけでいきますと、おそらく昔で言う総評だとかいろいろ組合があって、今は連合でありますけれども、組織のメンバーの数からいきますとおそらく一番多いのかもしれません。勧誘の年齢は60歳以上となっいます。ただ、60歳が高齢者かという議論もありまして、65歳にしたら良いとか70歳にしたら良いとか、その辺はいろいろと議論があるところでありますけれども、現実的には、やはり若い層の方々、私共の高齢者の中でのヤング層がなかなか入らなくなって、全体的に後期高齢者の組織的になりつつあるというのが現状です。

 秋田県では昭和37年に県の連合会が組織されております。ただ、これは上から出来た組織ではなくて、下から積み上がってきた組織でありまして、秋田県で一番歴史が古い、資料的にありますのが昭和29年に秋田市でそういうお年寄りが任意に作っていると。全国の中では一番歴史がやはり、資料として残っておりますが福岡の「博多高砂会」というのがありまして、これの初代会長が太田せいぞうさんという方なんです。ご存知ないと思いますが、九州電力の会長をやられたり東邦生命の会長をやられたりして、そのお孫さんが太田誠一さんという方で、今、総務庁の長官か何かされている若手の方がいらっしゃいます。

 ですから、どこかの国や県が音頭をとって出来たと言いますより、元々は下から積み上がってきた組織です。そこに私は勤めて25,6年になります。 

 今日は「ふるさとづくりの老人力」というようなテーマを頂戴いたしまして、赤瀬川源平さんが「老人力」ということを盛んに仰って、今までどちらかというと物忘れをしたり、お年寄りやしい行動や何かが表われますと、これはマイナスの評価でとらえていたわけでありますが、赤瀬川さんが出てからは、いよいよ老人力がついたということで、プラスの発想でいこうというのが彼の主張です。逆転の発想と言いますか、そういうことでありますけれども、しかし早く老人力をつけたいという人はあまりまだいない訳でありまして、この高齢社会の中、しかも長寿の時代の中でどんなふうにして生きていこうかというのがそれぞれのテーマであります。

 そのことを少しお手伝いをしたり、またみんなで考えていこうというのが老人クラブの一番の狙いとするところであります。
 老人クラブは何をするところだと一言でお答えするとすれば、それは「仲間づくり」をするところだと、こういうふうに私は答えることにしております。仲間づくりをするということは、高齢者に限らず大切なことでありますけれども、特に高齢者にとってみますと、自分の知っている人たちが段々数少なくなっていく世代でございますから、それを補っていかなければ自分の生活と言いますか、それを豊かにすることは出来ないだろうと思っております。

 昭和29年に秋田市に老人クラブが出来ました時に、その代表の方々が、いわゆる趣意書のようなものを書いていると。これは大変興味のあることでありまして、相当昔のものでありますが、現代に置き換えても全く古くない、そういうものでありまして、いわゆる家の中にばかりとじこもっていると年とってしまいますよと、少し世の中の役に立つようなことをみんなでしようよというようなことが書いてあって、それは今日も昔もそうは変わりはないわけでありまして、これから先も、おそらく時代が変わろうとも、人間の生き方などというのはそんなに大きく変化はしないのではないかというのが私の主張でございます。
 つい数日前には台湾で地震がありましたし、また1月前ぐらいにはイランで地震がございました。 私共が非常に感心を寄せて、また今募金活動を始めようとしているわけであります。
 平成7年1月17日というのは私共もやはり忘れることの出来ない日でありまして、阪神・淡路の震災があった日でございます。皆様もあの日のことを思い出しますと、朝のニュースでポンと流れたものが段々広がってきて、一体どうなっているのかといって驚くような事件でございました。御多分にもれず市町村の方から募金集めをしないのかという電話が入って参りました。その募金集めをすることにいたしまして、秋田県からは1,500万円のお金を送らせていただきました。
 私共組織全体、全国であげると21億円集まっているんです。これは集まった額が大きいとか小さいとかということではなくて、よくそれだけ頑張って皆さんが動いてくれたなというのが、私共の感心事はそこにあるわけです。 
 実は、この阪神・淡路の震災の前には雲仙普賢岳がありましたし、奥尻島がありましたし、立て続けに大きな災害があったわけでありますけれども、一言かけますと、少ないところで600万円ぐらいのお金が集まってまいります。これは私共組織が、1人が出すお金がそんなに大きくなくとも数がまとまるとたいしたものだなと、組織をある意味では実感出来る時がそういった時なのであります。これは集めた人たちも同様でございまして、自分たちが1円玉や10円玉を出し合っているものがみんなが集まるとこうなるんだなということを実感出来る時はそういう時だと思います。
 私共はお金は送りましたけれども、お金だけで良いのかなというのが阪神・淡路の震災の、今までと違ったものでございました。震災から一月後でありましたけれども、やはり現場に立ってみなければ何をやって良いのか分からないのではないかと。お金だけ集めて送ることは出来るけれども、何かやはり高齢者の人たちでやることが出来ることがあるだろうといって、一月後に被災地を伺う機会がございました。やっと電車は通っておりましたけれども、瓦礫の山は、その当時の状態そのものでありまして、路上の瓦礫だけが撤去されて、両側に積み上げられるというような状態でありましたし、ほぼ被災直後とそう変わりのないところでした。私を被災地を案内いただきましたのが80歳を過ぎておられる南野さんという男の方でございました。ある駅で待ち合わせをして、その南野さんが住んでおられる地域をずっと案内していただいたのですが、その時に彼は、ここの家はどなたが亡くなって、どこで亡くなったのかというのを克明に私に教えてくださるわけです。なぜそれを知っていらっしゃるかというと、日頃彼は地域の中で高齢者同士がつき合っているわけでありますから、誰がどこに寝ているのかまでよく分かっているわけです。それは彼だけが分かっているのではなくて、そこの地域の、しかも接触のある方々は、ほぼそれが分かっているわけです。実はこのことは大変大きなことでありまして、神戸市の大都会の被災と、同じ被災が淡路島の北丹町というところも被災があったわけでありますけれども、淡路島の方はあまり混乱なく救出されているという実態があるんです。ところが神戸の方は、なかなか何日経っても救出されずに、しばらく経ってから生還をするということがあったんです。なぜそんなことが起こるのかというと、過んでいる人たちのコミュニケーションが日頃からとれているかどうかにかかっているわけです。淡路は、どこの家は何人住んで、おばあちゃんはどこに寝ているかということはみんな分かっていますから、声がなくともちゃんとそこを、一番要領の良い方法でその方の遺体を収容したり、また倒れている者を救ったりすることが出来る。しかし大都市の場合には、隣の人がどういう人たちか分からないというような状況でありましたから、結局ああいう悲惨なことが、同じ状況の中で起こったりしても随分差があるんだなということがよく分かりました。

 それからもう1つ、学校だとかいろんなところが避難所になったわけですが、避難所に行きますと高齢者が比較的入口の側に場所をとっていると。なぜかと言いますとトイレが近いものですから、できるだけ他人に迷惑かけないで行ける場所というのは入口の近くなんです。ところが入口の近くは、当時冬でありましたら寒いわけです。誠に条件としては良くないわけです。これもやはり悲惨だなと思いましたのは、あそこに行ってから亡くなった方が随分多いんです。特に高齢者が多いと。そこへ行ってから風邪をこじらせるなどですね。それから、高齢者なるがゆえに、何をするにでも並んで配給物資をもらわなければいけないものですから、くたびれてしまうんです。行けないわけです。その辺は段々上手になってうまくいくようになるわけでありますけれども、地域の中で日頃から人間関係として成り立っている人たちは、仮設に行ってもその関係が成り立っていまして、先に行った人たちが、なんとかさん、ここにあるよ、ここに来なさいと言ってそこに来ては自分たちで世話をしたり、お互い協力し合う関係があると。しかし、孤立無縁の人たちが、それが出来ないという問題があって、これは震災に限らず何かあった時に、これは大きな問題として我々は教訓としては持たなければいけないなと思った点でありました。

 戻りますと、その南野さんが案内をいただいて、事細かに案内をいただいた後に、南野さん、私たちに出来ることは何かお金の他にないですかね?と言った時に、彼はこういうふうに話したんです。お金の援助は有難いと。しかし、これだけの被災ですから、みんなでそのお金を分配すると、1人に10万円とか何とかのお金ぐらいしかいかなかったのがあそこの実態なんです。お金の次は物資、物資もたくさん皆さんからお寄せいただきましたけれども、実際にあの物資というのは、行って分かりますけれども役に立たないなというのがよく分かりました。物資が山のように積まれていても、中に何が入っているか分からない、その物資を仕分けする人たちが、膨大な数がいなければその物資は届かないということもよく分かりました。(続く)


 呑 風 日 誌 抄
 
6月1日(木)朝、ささきインターナショナルの佐々木文博氏と建設省茨島出張所へ。勝平浜クリーン&プラント作戦の協力依頼。佐藤隆志所長快諾。ゴミ袋、軍手を200人分提供してくれる。
 昼、瀧不動産へ。郷土の大先輩で歌人でもある瀧廣明社長へ川反観音像への歌を依頼。瀧社長、「高校教師時代、川反の芸者さんの家に下宿していた、喜んでつくりましょう」夜、文博宅で勝平浜クリーン&プラント作戦会議。細川、渡辺、小西、森川氏。現場監督にラガーマンの渡辺哲夫氏が決定。
 2日(金)昼、全国職人学会打ち合わせ。あきたパークホテル。永六輔さんが7月31日にプレイベントとして講演をボランティアで来てくれる。会場をねぶり流し館で開催することとする。
 環日本海交流セミナー。平安閣。伊藤敦県立大学教授「中国吉林省の農業事情」金森久雄氏「環日本海交流と日本経済」夜、「早稲田フェスタinあきた」実行委員会を正式に立ち上げる。ふるさと塾事務所に16人集まり、最後は「紺碧の空」を皆で歌う。
 3日(土)協働社大町ビル。青年海外協力隊OB会及び協力隊を支援する会の総会へ。ロマンと夢を実現させた協力隊の彼等のいい顔がある。
 4日(日)朝7時。雄物川河口北側に集合。勝平浜クリーンアップ&プラント作戦開始。総勢15人。(親子連れ3組)約一時間クリーンアップ。ゴミ袋の山が出来た。プラントは小高い場所にオオキンケイ菊とムラサキツユクサ他を植える。画家の小西由紀子実行副委員長がツユクサに支柱を立ててくれた。
 割山集会所にて、鹿島人形づくりの手伝い。終わって町内会役員の方々と一杯。 
 7日(水)課対抗野球。土崎グランド。3塁守って守備はいいが、さっぱり当たらず。コールド勝ちで、みずほ苑にて祝勝会。二次会は豊島食堂。
 9日(金)メトロポリタンホテル秋田にて本荘高校秋田支部総会。秋田宅建センターの堀川頌彦社長と久保田、屋台ラーメン。 
 10日(土)西目町の石のかんざえもん社長が川反観音像を作ってくれることになり、預かっていた観音様を届ける。本荘グランドホテルにて、本荘由利稲門会。
 近所に開店したハイセンスなスーパー「グランマート」へ女房と。高柳社長に抱きつかれる。
 11日(日)鹿島祭り。子どもの祭りで小学生達がやまを引っ張って町内を練り歩く。先導役を務める。終わってからやまをトラックに積んで雄物川河口に離す。役員で反省会は川原。ビールが旨い。 13日(火)アキタパークホテル。早稲田フェスタ実行委員会。新聞広告、プログラム協賛の割り当てを決める。
 15日(木)昼、瀧不動産へ。瀧廣明社長から、川反観音像への慰霊の歌が出来たとご連絡。
 川反の灯は
  ほのぼのとともりおり
     み顔清しき観音像に
  夕されば川反の灯は
    やすらげりに
      観音像に路ゆく人に
 17日(土)全国職人学会実行委員会幹事会。工藤幸彦幹事長宅にて会議、一献。
 20日(火)秋田市八橋・高橋ちょうちん店。脱サラして提灯屋になった高橋晴男さん。昔、一緒に佐賀県で竿燈を挙げた人にミネソタ大秋田校のモック先生、学生達を案内.。
 22日(木)川反観音像立地の地主から建立の許可を得る。昼、瀧不動産へ国際交流員3名を案内。パークホテルでフェミニストの瀧廣明社長からご馳走になり、ご自宅内にある日本画家菊地良爾遺作館、茶室で奥様からお手前を頂く。 夕方、川反「鳥八」にて秋田放送の橋本泰幸氏と一献。
 23日(金)昼、毎日新聞田所記者大江戸ラーメン。夜、ふるさと塾。講師は農具に関する著書が多い渡部景俊先生。職人の技と美のお話に集まった職人達も感服。
 24日(土)小倉ゼミナール一行7人(近江宏平団長)八戸へ。吉川孝男夫妻のシーマを運転。八戸まで4時間、最高時速130キロ出しても快適運転。厚生年金センターでまずビール。八戸クリニックの小倉秀彦院長夫妻から病院を案内。清潔で明るく優しい病院。「パリの空の下で」にてフランス料理をご馳走になる。
 25日(日)南郷村の小倉教授の別荘。八戸クリニック十周年ビデオを見て、農園散歩。
 小倉ゼミは訪ソ青年の船本部団員仲間で二年後は二十周年となる。今度は秋田でと小倉教授夫妻のホスピタリティに大感謝。
 26日(月)11弦ギターの辻幹雄さん親子のライブで司会。秋田市の靉。もも太郎の会(北嶋昭代表)の面々も、感動を受ける。
 27日(火)辻さん親子秋田日赤病院にてライブ。早稲田中退の橋本誠医師が進行役。患者さん、職員の感激。日赤秋田短大の竹本吉夫学長が辻さんに癒しの音楽だと研究を依頼される。山王・館。仙台稲門会野球部の石川総監督、五十嵐監督、猪俣主務、中野左翼手と我チーム大島主務と先酒。
 28日(水)帰ってきてる娘と女房を県民会館のレイモンドフェーブル楽団公演へ案内。
 29日(木)秋田商工会議所。全国職人学会inあきた実行委員会を正式に立ち上げる。35人。山王・焼肉若葉にて団結の乾杯。
 30日(金)秋田キャッスルホテル。板東久美子副知事お別れ会。秋田のマドンナでした。