ふるさと呑風便  2000・12月号


  衆議院本会議場

 ☆☆☆☆☆☆

 今年十一月二十日の夜。この時ほど日本中の期待と落胆の差が大きかった事はあるまい。衆議院本会議場がNHKで生中継されていて、加藤紘一元自民党幹事長の本会議欠席が決まった。野中幹事長の回りに与党の幹事長達が集まってヒソヒソ話、そして笑いながら肩を叩き合う場景。実に醜い姿がそこにあった。
 さらにみっともない姿が本会議場に登場。松波健四郎議員の水かけ事件。ちょんまげを切らないで全国にお詫び行脚するとかいっている。その前に、コップを演壇に運んだ人に謝れ。コップの水を目的外使用したと詫びをいれよ。
 35年前。青山レスリング会館。私はレスリングを始めて6ヶ月。日本体育大学の勝村選手と初試合。世界選手権2位の四年生にすぐに倒されてブリッジをしていた。日体大の応援席からワッショイワッショイと手拍子が聞こえてきた。その中に松波選手もいたことになる。

 レスリング部一年生の高知での夏合宿。同期が問題を起こしたら、最初に四年生全員が坊主になった。後で一年生6人全員が東京に帰ってから五厘刈りになった。

 「日本の政治には美がない」といわれた、共同通信論説委員長の井出武三郎氏。昭和44年の冬だった。秘書を辞めて、新聞社の運動部記者になりたいと相談にいった時のことだった。
 井出さんは語る。
「首相官邸のキャップ時代、僕は二度と本会議場にいきたいと思わなくなったね。あの中で、政治家同士で肩を叩き合う姿は実に醜いと思ったなあ」と語り、政治に美がないといわれたのである。

 運動記者になれなかったが、スポーツには美ある。
 シドニーオリンピックで日本野球が敗退した際、アマチュアの人に申し訳ないと涙したダイエーの松中選手。
 今年のラグビー早明戦。トライしてもガッツポーズをしないで黙々と走り戻る選手。ノーサイドの後に、負けたチームのフィフティーンを花道を作って見送る光景。逆転、再逆転で46対38で5年ぶり勝利した早稲田の江原主将のさわやかな涙の会見。森首相も観戦したかったろう。

 私は一度だけ本会議場へ行ったことがある。秘書をやめて秋田に戻ってから秋田県農近ゼミの若者とゼミバスで上京した。国会議事堂を見学したいというので、入場券を田川誠一先生にお願いした。丁度本会議が開かれていた。本会議場の観覧席。その前にぐるっと細長い報道席がある。
 フジテレビ報道部の滝山誠記者が学生時代のゼミの同期。報道席から彼が私を見つけて手招きする。席を立って彼に近づこうとすると衛視さんから怒られた。滝山に後で電話するとゼスチャーして席に戻る。本会議場では演説中にも係わらず、後部席の実力者の所に集まっては手を肩にかけてヒソヒソ話。衛視さんから、席を立つ態度の悪い代議士こそ怒ってもらいたかった。

 政権政党から離脱する覚悟のなかった加藤元幹事長には敗者の美学もなかった。政治に美。本会議場で日本の首相が選ばれる限り期待できないだろうか。首相公選制となったらいいのか、如何に。


 ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年2月25日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「秋田職人の世界」
★山田 実氏(菅江真澄研究会会長)

 (講演本番前)

 手形山の家から朝日を眺めると、季節によって180度移していきます。冬になると朝日はずっと南の大森町の方から上がってくるんですね。
 江戸の初期には、こうした自然暦で田仕事など色々判断したんではないかと思っています。
 私は上肴町の商人の家に生まれて、そこに80年間いたら、こういう実感はありませんでした。(笑い)手形山に移ってからです。
 私は秋田市上肴町で生まれ育ちました。隣りに豆腐屋があり、青物屋があり、風呂屋があり、まあ、何から何まで5分以内で仕事が片づいてました。昭和24年にそんなふうな環境から、手形山に移り、年がいくほど幼い時のことを思い出します。
 特に音を思い出しますねえ。
 荒れた夜なんか、波の音が枕元に寝ていると聞こえてきました。今のように二重のアルミサッシでなく、のし板ですから。新屋浜で波の砕ける音です。
 (ド、バーン)と、季節風の吹く、1月の下旬から2月にかけて。今のようにマンションとか高い建物がなく、せいぜい3階建て魁新聞社だけでしたから。
 そのような遮るものがなかったから音が聞こえてきたのでしょう。その砕ける音を連想すると、悪ふざけをする子どもを叱る大人の声、電線がヒョウヒョウと鳴る音、、隣の赤ん坊が泣く声、便所に入れられた子どもが「おかはん、助けでけれ」という声。「ププププ プププププー」の9時の消灯ラッパ。秋田駅から、「ダダダン ダーン」と列車の連結器がつながる音。7つの穴のあいた真鍮で出来た笛、「ピピピーピピピ ピュロロー ピロー」これがべっこう飴売りのチャルメラの音。これは支那ソバのメロディとは違いますね。
 何だか始まったようなそうでないような。(笑い)

 今日は私、自分の生い立ちから見た秋田の商人、職人の動きを山田実なりの見たり聞いたりしたのをお話しようと思います。
 私の話の主力は、職人でも菓子職人の明治大正昭和における流れ、初め弟子入りして、一人前になるまでの過程。それは仕事ばかりでなく、身体的に12,3歳から20歳までの身体の動き、モノの考え方がいかに飛躍するかということですね。30代から40代、40代から50代の職人の身体の力強さだとかいう思考力よりは、13歳から20歳まで考え方、それは座談会を聞いて私、驚きました。自分のことはわからないのに、人の話を聞くとよくわかる。
 今日はその話を主力にお話したいと思っております。

 私は1920年生まれです。大正9年、後2か月で満80歳です。
 昭和2年に秋田市の旭北小学校、正式には尋常高等小学校を卒業しまして、高等2年から秋田工業学校の機械科に入りました。
 それから、満鉄に入って撫順炭鉱で機械設計をやって、その後昭和15年に歩兵第17連隊に入営しました。そして、第二次世界大戦で昭和20年10月に浦賀に復員してきました。
 そして一時、復員関係の仕事をしました。その後、昭和22年に秋田魁新報の記者試験にかろうじてパスして、昭和53年に定年退社しました。58歳でした。
 それから、ABS秋田放送で5年ばかりニュースキャスターをやりまして、その後FM秋田で今日まで15年間、「秋田歳時記あれこれ」という題で、4時前5分からへたな放送をやっています。
 経歴は大雑把にそうなんですが、今日の主題になる「秋田の職人の流れ」ですが、たまたま昭和58年に榮太楼の小国敬二郎社長から、うちの一〇〇年史を書いてくれないかと頼まれました。
 彼は日経新聞の秋田支局長をやってまして、そして又、菓子舗榮太楼の社長でした。
 小国さんは、秋田県一の菓子屋とか、誇張は一切いらないからと非常に謙虚なものの考え方に私は惚れました。あるがままの姿でといわれました。すでに段ボール一つのかなりの資料と写真が用意されてありました。公にするわけですから、食うか食われるかの微妙なところはやはり避けました。
 これらの資料は私の手元にありますが、私が亡くなったら榮太楼さんにすべて差し上げます。
 明治18年の高橋榮太楼、そして大正8年に今の小国さんが暖簾を受けました。前編が高橋榮太楼で後編が小国榮太楼。暖簾の引き受けの過程よりは、明治。大正。昭和における動きは、これは菓子屋の徒弟だけでなくて、当時の手仕事には一つの共通するものがあったのではないかと思います。ですから、この一〇〇年史には江戸後期、明治初期における職人の世界というのを書いておきました。

 私の家は、種物屋をやったり、それから雑貨をやったり、魚卸をやったり、記録としては寛文年間から230年間の肴町の町内の記録36冊が私の手元にあります。鍛治町記録、米沢町記録、鍛冶町記録、通町記録、大工町記録など、外町(とまいち)の記録は俵屋火事でも残っています。

 私の家には蔵がありませんでした。あったのは一丁目小路の、現在のダイエーの駐輪場に加賀屋という質屋がありました。あの質屋の蔵と3軒の蔵が俵屋火事で残ったそうです。その俵屋火事の時に残った蔵に上肴町記録があったのです。これは一年ごとに、まわりばんこに町内会長が持っていた。誰のでもない町内のものです。たまたま私の家に残っていたのです。
 明治維新後に、記録する必要がなくなって、慶応4年までです。 けがちのためにねぶり流しをやめましょうとか、今年は雪解けが早いから、雪囲いを一斉にしようとか、旭川が汚くなったから3月何日まで各家庭から二人使役を出しなさいとか。
 そんな記録をみますと、当時の職人の世界というのは、やはり中世から近現代の歴史書をちゃんと読んでなければわからないことがあります。
 私の家に残っている上肴町記録は、まだ文化財になっていませんが、茶箱に37冊入っています。 そういう訳で、職人の資料を調べてきました。
 職人とは百科事典で、一行しか書いていませんでした。
 「職場と道具を持ち、単身又は家族、徒弟によって仕事をする熟練者の集団である」とありました。 中世の頃と奈良平安、鎌倉時代は侍は別として、農工商の3つに分化してました。江戸時代にはいわゆる士農工商の階層に分かれて、工、いわゆる職人ですね。享保6年、1721年に株の仲間、つまり独占的に経営を保持するため、それを認める鑑札をくれた。そのかわりに冥加金を出しなさい。いわゆる営業税です。
 そういう意味で勝手に上肴町の魚を売ってはいけないというふうに記録に残されています。
 あるいは勝手に大工をやってはいけないとか、金銀細工の職人をやってはいけないとか、それぞれの職業のなかに親方がいて、取り仕切って同業の共同利益のために、勝手に仕事をしていけないような仕組みになっていたようです。

 今でこそ職人の世界は、指物師、塗り屋等々、色々ありますけれども、仏師、傘、下駄、数珠、鍛冶、機織り、巻き毛、脚絆、畳、桶、縫い取り、くぐり染め、わら細工、研ぎ師、弓師、ひもの師、扇等々の職人は、室町時代。明治の初期では、雑業の中に入っているんですねえ。菓子杜氏(とじ)、染屋形付、髪結、煙草、料理人、船頭、鏡研、筆役、紙屋、洗濯屋等々40数種。
 一方職人の方は、大工、木挽、指物師、塗師、提灯張、左官、紋書、畳刺し、機織、判彫、仕立師、傘張など50種類ありました。
 そして、これらの職人や雑業の方々の生計は、身分の高い侍や親方衆とよばれる、中村とか、平野、辻兵、那波だとかのそういう商人への出入りで生計が立てていたのがほとんどでした。
 また、久保田町(秋田市)が雄物川の河口にあるので、物資の集散地の土崎港を玄関にひかえ、したがって領内から親方衆の出入りが多くて、最大の消費都市として栄えた。

 現実に今から10年前に通町の歴史座談会をやりました。その時に高砂堂の塚本幸三郎さん、90歳。それから須田薬局の千釜敬太郎さん、青木伝兵衛さん、私より10歳下のあさひや肉屋のあんさんですけれども、この5人が、集まってテープで3本とりました。その時に一番記憶力があったのは、塚本幸三郎さんでした。テープをおこして、皆さんに返して間違ったところがあったら、赤ペンで直してくださいとお願いしました。通町の橋から今の関谷までの歴史です。私が生まれた上肴町や関谷から西北の大工町の方の話は残念ながらありません。
 いずれにしてもその通町かいわいは、秋田市第一の繁華街で、菅江真澄の「久保田の落穂」に書いた、有名な歳の市のあのかいわいの内容と符号する非常に貴重な座談会でした。 通町には職人はいなくて、いても辻久のかど屋敷ぐらいでした。
 その当時、秋田市はまだ久保田町でした。明治9年の郵便報知に秋田町のことをつぎのとおり書いています。
 秋田町は街灯がないため、夜になると暗く、料理屋はあっても料理はまずく、芝居小屋は見物人は多いが、街は不景気で暮らしに困っているものが多いありさま。
 湯屋が不潔で温度がわからないのか水とかわらないさまで、たまに熱くした風呂に入ると、これは都会風と喜んでいる。ただ人力車はかなり増え、秋田町に100両ある。一里一銭ぐらい。物価は白米一円で、一斗七升買える。一般の人々は活気に乏しく、人智に開けてない。そして物産はおこっておらず、県庁の官吏から役場の役人は、武士出身者が多く、武士のような振る舞いで人民を治める官尊民卑の風習は少しも変わらない。こういう古い風習が活発な人物が生まれない限り洗い去ることができない。
 かなり手厳しく書いています。
 これは誇張したものではないと思いますね。こんなふうな状態の中で、職人、昔の大工さんだとか、指物師だとか、飾り職人だとかの生活の根拠がどこにあったかというと、それを擁護してくれる、一番身銭がはいる親方衆ではなかったかと思います。茶町、大町、保戸野中町、楢山、それから手形。これに非常に面白いデータがあって、戦争前に榮太楼に最初に高等二年から入って、丁稚に最初、何をやらせるかというと、神宮寺の斎藤まんじゅう屋の親父はこんなことをいってました。
「神宮寺から船でまっすぐここに来たが、秋田町の暮らしがよくわからない」   (続く)


   呑 風 日 誌 抄
  11月1日(水)彌高会館。押し花絵コンクール祝賀会へ。むつみ造園土木の佐々木吉和社長のお誘い。豊穣という花の絵文字。沼津から高校後輩の佐々木浩男氏と山王で一献。
 2日(木)秋田市・久城寺。東京6大学秋田野球連盟の法政大学監督・桜田昭一氏の葬儀。直会が秋田ビューホテル。佐々木満連盟会長も出席され、1月25日に桜田さんの偲ぶ会を開くことに。
 3日(金)みずほ苑。明治節。ツバサ広業主催。「秋田まごころ葉隠の役」と題して講演。桝谷建夫社長が長年、特攻隊員や戦没者の慰霊事業を行っておられるのは日本人としての「義」であろうか。
 4日(土)角館駅で太田町商工会の田中昭一さんとシンガーソングライターの沢登さんを出迎え。武家屋敷から抱き帰り渓谷へ。協和町の協和土建事務所にてライブ。会場のカレンダーに書かれている。「他人のために役立つ喜びの中に人として生き甲斐がある」茂木義次郎社長夫妻のまごころライブであった。角館町の花葉館で茂木社長からすっかりお世話に。
 5日(日)沢登氏と秋田市御所野での種苗交換会へ。押し花展。
大江戸ラーメンから赤レンガ館。大町ビルでのインドのフェリックス スギルタラージ師の講演。
 靉にて沢登ライブ。千葉三郎さんやクリニカオルトの湊先生、八人会の方々、谷京子さんの読み聞かせのグループ風の皆さんから聞いて頂いた手作りライブでした。
 7日(火)西仙北町商工会の佐々木正信副会長、近藤博先生と川反。ある店に板東前副知事の色紙があった。「遅れても立ち止まって時を見ず」
 8日(水)関西空港。京都から草津へ。国連環境技術センターへ。秋田に国際機関誘致の参考調査。環境立県滋賀県のバスの運転席の横には「地球と人にやさしい運転をいたします」と書かれている。そこへ携帯に電話、千葉の土井信行さんから「呑風便の封筒いらないか」と、有り難し。京都駅で高校時代からの親友・斎藤哲雄と会い、秋田での職人学会副実行委員長の西脇一雄氏から祇園で色々薫陶を受ける。哲雄のマンション泊。
 9日(木)朝、司馬遼太郎の「街道をいく」の第一編にある湖西へ。大津市唐崎の市町村国際研修所から韓国の地域づくり研修の一行5人を伊丹空港から羽田、秋田空港。横手市役所まで案内。千葉大学に留学経験のある韓国住宅公社のユウ博士と地域づくりと青磁の話。
 12日(日)秋田空港から東京・赤坂プリンスホテルまで韓国の一行を案内。大学レスリング部同期のアメリカでレストラン経営の石原剛と明治乳業の見田孝雄と水田泰弘先輩経営のイタリアン料理店、ラベルデ。石原はロス近くでレストラン二店をやり、見田は中坊さんみたいになっている。
 13日(月)彌高会館。秋田ペルー協会総会。新会長の牧野和博秋田大学教授。秋田大学OBでペルー協会の理事を務めてくれ幸村成美都君はキルギスで活躍し、中国新聞に載り、大学の名前を高めたといわれて嬉しい。二次会は亡き堀江正男会長とよく行ったスナック・待夢里。
 14日(火)秋田市牛島・たんぽぽ。高校同級の三州相龍の店。韓国からの自治体交流員・金さんを連れて、キムチラーメン。
 16日(木)白鳥号で富山県へ。環日本海友好交流部会の太田宥子会長と山王材木の佐藤俊彦社長と。富山県国際課へ。大学時代に同じ下宿の井加田産業社長の井加田さん宅へ。
 17日(金)富山県日本海課、富山商工会議所内にある富山ウラジオストク会へ。井加田さんが車で高岡市まで案内してくれる。ゼミ先輩の伏木海陸運送の柳川常務から環日本海経済交流の流れの講演。港にはロシア船が二隻。中古自動車が満載。新湊市の日本海交流センター、帆船海洋丸を視察。井加田さん宅で皆、ご馳走になって富山駅から夜行列車。
 18日(土)秋田市立体育館。日本ジュニア卓球選手権。高知から高校同級の浜田慎吾が来ている。卓球の愛ちゃんも。山王で二軒。慎吾我が家に泊まっていく。
 19日(日)第一会館。秋田長野県人会。秋田日赤病院の宮下正弘院長による県民歌「信濃の国」の研究。田中康夫知事と高校同期生がいて1万円カンパとの事。
 22日(水)トーカンビル地下にて韓国の金さんと県庁剣道同好会。友愛グループの小畑悟社長と。
 24日(金)秋田ふるさと塾人間道場。彌高会館。ゲストに大潟八郎さん、桂葉子さんがきてくれた。今年のカラオケ大賞は大内町の新沢郵便局長の伊藤義則さんとロシアのビクトル先生。二次会はいつもの人情酒場久保田。  25日(土)バウハウス保坂さんと大江戸ラーメン。カミサンと土崎温泉アッタマリーナ。
 26日(日)秋田市体育館。全権家庭婦人バレー大会。本荘のパソコン博士の石井護監督と応援。なかなか迫力がある。カミサンと秋田温泉。
 27日(月)山王・キッチン一番。職人学会発起人打ち上げ。
 29日(水)アキタニューグランドホテル。秋田稲門会忘年会。早稲田フェスタの報告。感激の校歌を斉唱し、秋田キャッスルホテルにて全国職人学会の事務局、友好交流部会の打ち上げ。
 30日(木)久保田にて八代英太秘書の滝沢氏、秋田労働局の樋口局長と一献。司馬遼太郎の話。
 どんぷう後記
 尊敬する書家佐々木青洋先生から呑風便の題字を書いて頂きました。今年も多くの方々からご厚情を受けました。有り難うございました。皆様どうぞよいお年を。

 

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