月刊ふるさと呑風便  第139号


    IT(情報技術)

   ☆☆☆☆☆☆☆

 「ブーゲンビリアの花美しく、村人貧し」
以前、タイ東北部コンケン県の農村を訪ねたことがあった。田圃で1人、倒れかかった穂だけを刈り取っている農村婦人の姿をみて、絵葉書に書いて友人に送った。
ITよりも水や食料の問題の解決が先だ。ITでは多くの人口を養えない。タイのスパチャヤ商業相がいう。コンピュータを配っても村人を食べさせられないのだ。
IT技術の普及に対し、反発を受けた。この11月初め、ブルネイで開かれたAPECアジア太平洋経済閣僚会議での発言である。
 アジア太平洋諸国での一番の問題は経済格差なのだ。
先般、テレビで見た。タイの農村でカブト虫で村おこしを図っている様子。タイでも都会の子供達のカブトムシやクワガタのブームで、タイの農村でクワガタ等が高く売れるようになった。若い農家はカブトムシのお陰で家族が食べられるようになったと語っていた。何だか悲しくなる。
 東京・成城学園を歩く。10月22日。緑の多い静かな住宅街。先に亡くなられた恩人・栗原文大さんへの弔問のためである。
  栗原さんは、小生の参議院議員秘書時代の上司。心の広い方で、新米の私を育てるため色んな仕事を任せてくれた。ヒューマニズムという言葉をよく使っておられた。
 竹下登さんがつくった情報産業議員連盟に議員が入会し、川崎市にある富士通のコンピュータ工場やNHKの視察を一緒にしたこともあった。
 成城学園駅から私と同行してくれるのは元CTG(コンピューターテクニックグループ)の仲間・幸村真佐男(中京大学教授)と土井脩司(花と緑の農芸財団常任理事)。2人とも若い時から栗原さんにお世話になった。幸村氏とリーダーの槌屋治紀氏と栗原宅を訪ねたのはほぼ三十年前。当時、日本で初めてのコンピュータアートの作品を持って行った。
 芸術家の彼は何故か栗原さん宅を覚えていて、駅から十分ほど歩いて、見つかった。
息子の邦彰さんと奥さんが待っていてくれた。栗原さんの遺影はやさしい笑顔だった。胸が詰まる。(合掌)

 30年前のCTGの作品2点を邦彰さんが持ってきた。懐かしい。ケネディを茜色の立方体で描いた絵であった。奥さんはこの絵を見て、元気を頂いているといわれる。ソニーでインターネットの仕事をしている邦彰さんは30年前にこんな作品をつくられたことは凄い、今の仕事に入ったのもこの作品に影響されていましたと話される。

 栗原宅を後にし、成城の街で、コンピュータには無縁の心友・土井脩司氏にいった。
「ITとかは土井さんには似わないから、電子メールなんかでなく手紙がいいよ」
彼は万年筆の太い字体で便箋にたっぷりの励ましの手紙をくれる。ところが、彼にとって恩人・九十歳になる瀬島龍三氏が講演で、IT革命をすすめていかねばならないと話され、パソコンやろうかなという。アメリカンスタンダードに遅れをとらないためにも21世紀は情報技術革命が必要であろう。一方ではヒューマニズム、美と義、心の交流の時代が訪れる。
  土井氏の心の手紙も来よう。


ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年2月25日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「職人のまちおこし」
★浜田 政光 氏(木工職人)

 金浦町に住んでいまして、職人のまちおこし、といってもそれほど深い意味はありません。
今の木工の職人としての仕事を始めるようになってから、白瀬中尉をよみがえらせる会の渡部幸徳会長の紹介で会に入って色々、活動をしてきました。
 僕は北海道江別市出身で、男の身の上話を聞いてもつまんないでしょうけれど(笑い)。

 今の仕事の経緯は、私の両親は戦争が終わる年の1ヶ月前の7月に、開拓者として、北海道江別市に入植しました。何も作物が植えられないような湿地帯で、泥炭地を客土をしながら開墾して、その5年後に僕が生まれました。
 食い物がとれて、自給できるようになってから僕が産まれまして、その頃は家の屋根も壁もみな藁でした。冬になると雪が突っ込んできました。そんな子ども時代を過ごしたんですけれども、小学校4年ぐらいの時に60年安保闘争がありました。安保反対なんでいって先生から叱られたこともありましたね。(笑い)高校生の時に70年安保があって、国のあり方に心が向いていって、多少そんな活動をしたこともありました。そこに19歳までおりました。
 受験に失敗して、埼玉県大宮市で仕事を始めました。俺の人生これでいいのかなと思って、大げさなんですが日本このままでいいのかと(笑い)どこかおかしいんじゃないか、どっから変えていったらいいのかと考えまして、凄く短絡的なんですが、教師になって変えるよりしょうがないじゃないかと思ったんですね。

 22歳で結婚をした翌日に予備校に通って、教育学科に入って昼仕事をしながら、夜間部に通って教師の免許をとって、聖心女子学院の初等科、女の子だけの学校に入りまして、念願の日本を変えるために教師につきました。
 そこを6年で辞めました。というのは、元々堪え性のない性格ですか。あきっぽい性格なんでしょう。一つ大きな理由というのは、教師というのはすごく大変な仕事ですね。きりがないといいますか、結果がストレートにでてこない。
 そういうことに自分が乗り越えられるのかという欺瞞と、それから子どもがすでに4人、0歳から8歳までおりました。子ども達が健康に育っている訳ではありませんでした。心身共に。都会の生活というのはどうも、子どもを育てる上で見えない不安な部分があって、子どもが一人前に社会に出る前に役に立つ人間に育てるのは親の責任だろうと考えました。
そこで自給生活をしたいと、考えました。子どものアトピーもありましたが、安全な食べ物を子どもに食べさせたいと。
 学校のキャンパスは、結構広くて、植木やさんとか、、大工さんとか家を構えて住んでいました。その大工さんと親しくなりまして、学校が終わってからその大工さんに酒を飲みに行って親しくなって木工って面白そうだなと、夏休みに自分でもやり始めました。 結構面白いですね。(笑い)もしかしたら俺、頭使ってやるより体使っている仕事の方が向いているんじゃないかと。(笑い)
近くに春日部という町がありまして、いい家具を置いてお茶を飲んだりしてくれるお店がありまして、そこの親父は自称、博物館といってました。そこにある家具は古い17世紀ぐらいからの家具でして、こういう家具を作ってみたいと思っていました。
 そういう色んなことがありました。仕事を変えるんであれば30代前半だろうと、32歳の時でした。家内の実家、金浦町に親子6人で帰りました。

 最初は農業をしたいと、土地を捜してみたんですが、その当時は何も知らず、家内の両親も勤め人でしたので、結局は野菜を作る土地を確保しました。今でも自給していますがその程度でした。
これで家具でやっていくしかないとの思いになりました。ところが、道具もないし、岩城町の製材屋さんに2年通いました。木のことを知らないと家具を造れないだろうと、2年たってから家具の仕事を始めた訳です。それから14年たっています。

 最初、近所の大工さんからそういう仕事をやるんだったら商工会に入れといわれました。金浦町商工会に入ったんですね。そこに渡部幸徳さんがいて、当時彼も三〇代で、ばりばりの総務部長なんかやっていて、白瀬中尉をよみがえらせる会に入れといわれました。二つ返事で入って、色んなイベントをやったり、南極探検隊記念館づくりの運動をやったり、今まで続けてきました。
白瀬フェアとか、海賊焼きとか、犬ぞり大会とかをずっと続けてやってきました。

 私は今、こんなモノを作っています。これがエンジュの杯、名刺入れも持ってきました。
 話が面白くないからモノを見てもらって(笑い)これが職人の仕事です。

 白瀬の会に入って、商工会青年部の活動も続けながら、だんだん人の輪といいますか、地域との係わりが広がっていきまして、何とかそれだけで仕事ができるようになりました。
アートクラフト同人会という仲間もできました。二ツ井町でいろり塾が一〇年前か、あった時にスレンドグラズを作っている油井さんと会いまして、4年前に秋田のクラフトマンを紹介した「ユトリズムの里」という本で秋田のモノづくりをしている二〇人程を取材している本です。その後にアートクラフト同人会をつくりました。
 それから3年後に、秋田市大町のADビル2階に同人会のメンバーのモノを置いています。アンテナショップみたいな形で販売もしています。グループは今、木工が三人、染色、陶芸が二人かな、土人形とか、組子をやってる人とか、一〇名近い人のモノを置いて活動しています。

 単にモノを作って売るというのでなくて、そのグループの活動をとおして交流をするとともに、新しいモノづくりの志しているメンバーを仲間に入れていこう、この場を広げていこうと運動をすすめているところです。それぞれみんな、夫婦や一人か二人でやっている仲間です。
秋田に来て、まず地域にとけ込めるかという不安は全然なかったんですが、北海道出身ですが、色んな人が集まってきたんで、地域にはわりと開放的な雰囲気があるんですね。そういう所しか経験がなかったんで、金浦町で生活を始めた時に、一番感じたのは、家という単位でものを考えるんですね。私の家内は旧姓が渡部といううんですが、僕は浜田ですが、最初、浜田と呼んでくれなかったですね。渡部さんの婿だということでしばらく渡部さんと呼ばれていました。

 地域から職人がだんだんいなくなってきつつあるといいますか、色んな職人が地域にいて、必要なものを地域の中で作っていたと思います。そういう形態がだんだん薄れていってきますと、不便を感じてきまして、私に色んなものを直してくれ、船の櫂を作ってくれとかがありまして、私はすごく嬉しかったですね。近所の人から家具を作ってくれというのはないと思っていました。木工をする人として認めてもらった、あてにしてもらっているということで係わりをもてることは、嬉しかったことでした。最初にうちは本荘市、由利郡から七割ぐらい仕事がありました。今は秋田市が七割ぐらいになっています。

 地域に職人として、認められるようになって、桐下駄職人だった息子さんから譲り受けた道具箱があります。これがそこに入っていた刃物です。

 私が使う材料はすべて秋田県産材でミズナラというのが多い。これもほとんど由利郡内に入ってきたモノです。今日持ってきたのは埋もれ木の欅で作ったものです。
他に解体された家の廃材で作ったもので、これも白瀬のメンバーがいい材料があると持ってきてくてくれるんです。
 先日、第10回の犬ぞり大会が開かれたんです。実は去年、景気が悪くて休みました。一〇回まではやろうと何とか協賛金を集めて開催しました。犬ぞり愛好者が減ってきて、下火になってきているんですが、北は北海道、南は京都と全国から三〇〇頭が集まってきました。何とか一〇回大会は成功したんですが、その後に実行委員会の反省会が由利町でありました。酒を飲みながら来年どうするかとなりました。今のところ白紙の状態です。スノーモービルの愛好会の人は、いうんですよ。色んなイベントやる時、やれ財政はどうするとか、スタッフは大丈夫かとかいう異議を唱える貴方のような人は必要なんだと。僕自身は世の中をドロップアウトした人間ですが、アウトサイダー、反主流派で生きてきたんではないかと思うんです。まちおこしにもそんな係わり方で異議を唱えても最後までやっていく、そういう存在価値があるのかと思っています。

 職人のまちおこしというか、職人もまちおこしです。(拍手)


我青春風来記 (125)
     
早海三太郎
  メキシコU(6)

 メキシコシティの旅行会社男の社員が、英語で色々説明してくれる。カナダのバンクーバー経由で羽田へ。カナダ太平洋航空の便となる。キューバで使った航空券を渡すと何かサインをして、これでOKという。後は空港に連絡しておくからと、英語でいったような気がした。
三太郎はスペイン語に慣れきっていて、単語の数は英語の方を知っているが、ヒアリングがダメ。旅行会社の社員の英語を曖昧なまま理解してしまっていた。
  メキシコ空港。メキシコにはキューバ行きの前後、2週間程滞在したことになる。幽霊の出たホテル・モンテカルロ。同宿だった共同通信の伊高浩昭先輩(現共同通信編集委員)には大変お世話になった。長距離バスで知り合ったホルヘの家に招待され、3日も下痢に悩まされた。
と、空港ロビィでご婦人達が騒いでいた。カウンターに何か文句をいっている。何と、飛行機が時間通り出発してしまったからというのが理由だった。これはメキシコらしい。
 当方もカウンターに「日本まで、旅行会社から連絡が来ているはずだ」という。ところが連絡はない。「おいおい、そんなはずはないよ」途方にくれた。そこへ隣の日本人が、話しかけてくれた。
 「どうしました」 (続く)


呑 風 日 誌 抄
 
10月1日(土)仁賀保町・土田牧場へ。矢島球場での東北3県稲門野球大会の帰り。鳥海山は見えず。野球部の木村選手、大島主務、小野監督。
 3日(火)秋田大学学長室。徳田弘先生に秋田ペルー協会会長への相談。北嶋昭理事と。学長はフィンランド協会だったらと、牧野和孝工学資源学部長を推薦して頂く。
 4日(水)夕方。近所の佐々木文博さん宅へ。演歌師山本実氏から頂いた男鹿のサザエを持参。アイキャンの渡辺哲夫社長の売るだけある銘酒ホームページで楽天市場等の先酒話。
 7日(土)秋田市新屋の葉隠墓苑へ。ツバサ広業の舛谷政雄氏と。佐賀藩士慰霊碑の案内板が崩れ落ちており、舛谷さんに新しく作ってもらう相談。セリオンでの秋田ふるさと博へ。木炭研究会の鈴木勝男さんから木酢液と砕いた木炭を頂き、試しに靴の先に砕炭を数粒いれて歩くと足がホカホカ。大町のパッケージごとうへ。全国職人学会の記念品の箱を作り直してもらうことに。午後からジョイナス。秋田ユネスコ協会主催の日本語スピーチコンテストへ。中国の国際交流員季紅さんが優勝。内容、表現力も抜群。賞状の知事代読。
 10日(月)秋田大学資源工学部長室。牧野和孝先生から秋田ペルー協会会長就任ご快諾を頂く。以前、酒席で一緒だったが人間性豊かな学部長。
 11日(火)佐賀県武雄市長の古庄健介さんから仕事場に電話。川反・たかの家で一献。
三味線茶屋すがわらへ。岡本新内をじっくり聴ける。
 12日(水)全国職人学会の準備。ボランティアの方々と記念品の袋詰め。打ち合わせを深夜まで。「すがわら」から古庄市長が待っていると電話。遅くなって寄ったら閉店だった。
 13日(木)いよいよ、全国職人学会本番。好天。朝、キャッスルホテルの玄関に大漁旗の幟がはためく。事務局の打ち合わせ。若手職人展は四回ロビーにて開催変更。悲観して準備してきたが、後は楽観行動。十時から受付三カ所で。予想より多い参加者。永六輔さんの講演は参加者予想が大きく外れ六百人に。分科会も法隆寺の宮大工小川三夫さんの会は満員。落語も盛況。交流会は三百人以上になった。
 実行委員は一所懸命やってくれた。交流部会の打ち上げへ。小松正夫部会長、シンガーソングライターあんべ光俊・大間ジローさん達と乾杯。 学会幹部の打ち上げ会場の「すがわら」へ。前回学会の仕掛け人小樽の伊藤一郎さん達と旨酒。
 14日(土)朝、秋田キャッスルホテル。岐阜の吉田さん達の見送り。入船亭扇橋師匠も。横手の佐々木隆一師匠にすっかりお世話に。師匠を料亭入舟に案内された。
秋田美術工芸短大へ。一日体験工房へ。小樽の伊藤一郎さん達をキッチン一番に送り、太平山パーキングエリアへ。グループ森の植樹。万里の長城に植樹してきた仲間はブナやナラの苗木を綺麗に山を作って植樹。夜、駅前・久保田にて職人学会打ち上げの美酒。
 17日(火)秋田キャッスルホテル。石川錬治郎市長の出版記念会。盛況であった。
 20日(金)能代北高校へ。女子高校なんて久しぶり。国際協力スピーチコンテストの審査委員長。皆、うまい。
宮大工・職人学会の発起人になった頂いた伊藤和雄社長へ大漁旗を届ける。雨、山王の茂八へ。シンガーソングライターのケーシーランキンが来てて、秋田テレビの佐藤典雄制作部長と二次会まで。
 21日(土)秋田市土崎の武石豆富店へ。水のプロで武石敏之社長から水の浄化セラミックをいっぱい頂く。
夕方、東京・学芸大学駅前のみどり寿司にて、娘・江津子の友達(女友達二人)と。
 22日(日)早稲田大学前・稲穂食堂の長谷川弘さんにTシャツのお礼。大隈銅像前にてフクチャンTシャツの販売。佐野元彦、松村譲裕、吉田典雄稲門会幹部達と。
成城学園駅前。幸村真佐男夫妻、土井脩司氏と恩人故栗原文大氏宅へ弔問。笑顔の遺影に胸がつまってくる。(合掌)
両氏と新宿、昔行った花園神社前のゴールデン街、NHKでお笑い番組を作っている能登隆夫君を呼んで春風万里へ。昔と違う歌声喫茶「灯火」。能登君と新宿西口のしょんべん横町で飲んでいたら、テレビで川田悦子さんの当選確実の報。変わってきている。
 23日(月)埼玉・与野市のスーパーアリーナにある「ジョンレノンミュージアム」へ。
 26日(木)秋田市山王のユウーアイへ。小畑悟社長へ職人学会のお礼。秋田まごころ大賞、石川公正先輩を偲ぶ会の話。
 27日(金)秋田経済法科大学理事長室。秘書が今川敬三氏の子息。佐々木満理事長と朝鮮半島の農業開発の件、それに甲子園出場の話。
川反塾舎。ふるさと塾とAIグループとの共催で「究極の酒の肴で一献の会」ものとりライター小西十三講師の「川ガニミソの作り方」。鷹巣町漁協の渡辺茂雄理事長から送られた川カニでミソ。まさ究極の酒肴であった。レディ、懐メロの本因坊にて二次会。
 28日(土)バウハウス。職人学会のチケット販売の後始末。事務局の保坂さんがよくやってくれた。次は大江戸ラーメンの約束。
 29日(日)大内町役場前にて「第17回とろろ飯大喰大会」へ。仕掛け人としていく義務がある。天然の自然薯を持って、加藤紘一岩城町長の後援会に寄る。