月刊ふるさと呑風便 第138号
救 い
☆☆☆☆☆☆
「立秋とは名ばかりで暑い毎日ですね。先日は東北4大祭りの一つ竿燈を見ましたが、場所が狭くて、客同士で言い合いしたりで、もっとゆとりのある祭りにしてはと思いましたが、救いは旭川の街路樹にからまっていた朝顔(原種が、私が1976年中国の石家荘からいただいたのに出会ったことがなぐさめでした。どうぞ皆さん、見てください。敬具」
これは今夏、竿燈見物でがっかりした観光客が地元紙に寄こした葉書の文面である。郡山市の方からであった。朝顔を植えたのは我々だと知っている友人が教えてくれた。
今年の竿燈は観光客の減少対策として、竿燈を見えやすいようにと桟敷席を階段状にした。もう一つ、街路樹の欅の枝を切った。
欅の枝は万歳をするように5,6本が上に伸びていく。巨木になると一つの森をつくり、葉の数と保水力はブナよりも多く、強いといわれる。 竿燈通りのブナ達は4日間の竿燈祭りのために、下枝を何本か切られてしまった。
竿燈の観光客は去年の14万人から16万人に増加したが、客同士が喧嘩するような祭りになってしまった。秋田市消防署前から続くけやき通りの欅達と比べて、竿燈通りの欅は寒そうで、何んだか可哀想である。
旭川沿いの朝顔。20数年前から花ゲリラ作戦と称してこっそりやってきた。何も観光客の不満を解消するためにやってきた訳ではございませんで、いたずら心です。昨年は通りがかりの人に、「あなた達は失業対策の何かでやってるんですか?」と聞かれてしまい、「はあ、まあそうです」
今年は小雨の中、一人で柳の根元に朝顔を植えた。野朝顔と西洋朝顔の苗。郡山の人を救ったのは西洋朝顔の方だと思われる。これには後でびっくり。朝顔同士が柳にからみつい伸び、何と5bもある柳のてっぺんまで花を咲かせていた。これは初めてのこと。この朝顔は葉も小さく、赤い小さな花が葉っぱの陰に隠れるように咲いている。昨年一〇月、マレーシア・ボルネオ島のキナバル山の麓で見た熱帯の朝顔。10bもある木の上まで絡みついていた。根元で種を採ろうと捜したが、種は皆落ちてしまっていて取れずじまいだった。
旭川沿いで県外の観光客に救いを与えてくれた朝顔。これには大きな丸い種がついていた。種をとろうと思っていたら残念。今月初め、柳の木がショートカットされていて、あの朝顔はきれいさっぱりなくなっていた。救われません。
この秋。全国職人学会inあきたの裏方をやった。去年の一一月から準備を始めた。「伝えよう 美と技の心意気」をテーマに悲観して準備、楽観して行動でいこう、皆で過程を楽しみ、旨い酒を飲もうといってきた。
本番の10月13日。予想の300人が倍の600人の参加となり、大盛況だった。過程には愉快でないこともあったが、旨酒は飲めた。
ただ終了後、意味不明のメールが事務局に送られてきた。お客扱いされなかった不満から金を返せとある。一方、ボランティアで手伝いに来てくれた方から「疲れたけれど楽しかった」といって頂いた。 この言葉が「救い」でした。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成12年1月27日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「北の海みちの復活」(2)
(秋田港・ポシェット港定期航路開設)
★西宮公平氏(秋田海陸運送鰹務)
ただし、損害保険会社は、ヘルシンキから秋田まで赤道を跨いで運ぶ二か月かかる船便の保険料の6倍はくださいと。だから時間から換算して20倍ぐらい危険度が大きいと判断をなさったと思うんです。これは固定ではないですねと確認すると、固定ではありませんと言う。固定ではない、すなわち、実績を積むまでの間だけ高い保険料率になるという事であれば、船便の保険料と同じ所まで下げるまでの超過分を秋田海陸で持ちましょうということで話はついています。
これがうまくいけば、北欧から秋田まで2週間から16日で荷物が着きます。これは、今まで二ヶ月先の市況を予測していたものが、一ヶ月先の市況予測で済むと言うことです。シベリア横断鉄道を使って2週間で来るとすれば、一ヶ月先の市況を読めばいいということになります。
在庫を保管するスペースというのは相当のコストがかかりますから、その在庫管理にかかる経費の節減にもつながるはずです。
公式な話ではないのですが、ポシェットの表向きの顔の人たちだけじゃなくて、いわゆるロシアンマフィアとの交渉が大変でした。
彼らは国境を通る荷物にいくばくかのマージンをとる商売をやっている人達で、国境警備隊のOBとか、中途退職した方たちなんです。中・露国境の緊張が緩和されるに従って、本業の仕事が無くなって行ったのですね。初めましてということから始まって、荷物が増えるためには、法外なマージンを無くさなければいけない。考え方を変えて欲しい。荷物や人の動きが活発になれば、正業で稼げるようになるのではないか。相手が納得するまで話しました。国境というのは平坦なところにあって、国境を挟んで中国の検問所とロシアの検問所があります。
その間は軍事緩衝地帯で、一般の警察はそこには入れない訳です。国境警備隊といわれる人達がそれぞれの国の軍事緩衝地帯まで入れます。ロシア側では、一般的な検問所での入出国管理以外に、軍事緩衝地帯での国境警備隊による管理があります。ゲート前でバスが止められ、いきなり兵士が乗り込んでくるので、はじめは何事かと思いました。
実際、ポシェットというところには民宿が一軒あるだけなんです。統計当局は正確に把握しているのかもしれませんが、人口は二千人とか四千人いるとも言われ、訳がわからないんです。
冷戦が終わってから、どんどん軍が撤退していって、人口が減っていっているため、正確な人口が解らないのかもしれません。
産業は何?と聞くと、まず軍だ、二番目は港だという。三番目はない、(笑い)というんですね。気候的には、北海道の旭川程度でしょうか。十月ぐらいでも結構寒くなっているのですが、民宿では、シャワーが水しかでないんです。会話集を持っていって、「お湯がでません。」というところを指さすと、民宿側は、「冬」というところを指さすのです。たぶん、冬でもないのに何でお湯が必要なんだという事なのでしょう。(笑い)夜も寒くて眠れません。それで、着るものを全部着て、ウオツカをあおってうとうとしてました。そんな事があったので、次に行った時は、しっかり寝袋を持っていきました。
三ヶ月前から魁新聞と秋田放送から連れていけと言われておりまして、年内にお正月の特集を組みたいと強く言われまして、記者の二人には寝袋を持って行った方が良いと伝えました。ポシェットでは泊まる所が民宿、ご飯食べる所もその民宿、喫茶店もその民宿(笑い)お酒を飲むのはどこだと言えばその民宿、要するに何にもないんですよ。
ロシアの沿海州というところは、危機的な状況になっています。ソ連時代は自分たちがソビエト連邦の一地方都市という意識を持っていた。ロシアになったら、モスクワに捨てられたいう人が結構いるんですよ。何でと聞くと、例えば暖房用の燃料をどうやって確保するかと一生懸命になって考えている。灯油が回ってこなくなった。石炭もそうだ。昔の薪ストーブの手入れを始めた家も多い。
ロシアは本当にモスクワ中心の向こうのロシアだけでいいと考えていると。みえみえなんだと。物資もロシアからこなくなった。では中国から持って来られるかというと税関のところでストップをかけられる。そんな窮状を訴える人もおりました。シベリア鉄道で運べれば本当にいいんですが、安定した貨物量が確保できなければ、輸送コストが下がりません。
先ほど、国境バスに北朝鮮の人が乗っていると言いました。これは特徴的なことで、バスは25人乗りなんですが、大体十五人ぐらいの団体さんが乗っています。最初何なのかよくわからなかったんですが、北朝鮮からの出稼ぎ労働者だったのですね。ロシア人がやらない仕事を北朝鮮人がやる。監視役がついてますが、労働者は5ドルだかの賃金をもらってロシアから中国経由で北朝鮮に帰る。それ以外の稼ぎは、監視役が国家に納入するわけです。
朝鮮自治州の延吉という所には北朝鮮から逃げてきた人が本当にいますよ。逃げてきた人というと食うや食わずの生活をしていると思いがちです。ところが、延吉にいる逃げてきた子ども達はやたら金を持っているんですね。
何故かといいますと、中・朝国境に、白頭山という山があるんです。ここは朝鮮族の聖地なんですね。韓国の人間が、専用のチャーター便を出して延吉空港に入って山に登るんです。その人たちが北朝鮮から逃げてきた子ども達 に乞われて、金をあげるわけです。一日に一万円ぐらい稼いで、それをドルに換えて数ヶ月すると北朝鮮に戻って行きます。そして又、延吉に逃げて入ってきます。
北朝鮮の羅津というところがあります。ここは経済特別区になっています。別格の生活水準が保証されており、北朝鮮中の人間が平城でなく羅津に住みたいといっているところです。僕は今年の5月、一度しか行ってませんが、四六時中監視が付き、本当にしんどいところだなと思います。
二十年前に軍事政権下のポーランドに行きましたが、ホテルに入れば、監視は解除されていましたから。外部との間に厳重な境界がありましてね。特別区の中では食べ物があるんです。イカを食べたいといえば食べられるし、酒を飲みたいといえば飲めます。住んでいる人も飲んでいます。ところが、境界の外では餓死者がでているというのが現状だそうです。
あるところで話をしてくれと頼まれてますが、秋田から東京へ行くのと同じ時間で行けるところで餓死する子どもがでているんですよと話そうと 思ってます。
当初は秋田港を活用するために対岸とやりたいと動いて、ひょんなことから、航路を引けましたが、もうひとつの側面で、トップがどんな馬鹿でも、そこの民が飢えなければいけないという事はない、彼らが少しでも幸福になるために貿易を振興しなければならないと考えています。こういう航路をやる時に羅津も使うという発想で、北朝鮮も含めた形でやれればいいなと思っています。
今、鳥取県の片山知事がこの航路に注目して、鳥取までのばそうと中国を訪問し、船会社に働きかけているようです。私は、対岸交流を秋田だけでかかえている必要はないと 思います。ともすれば、日本国内の地方港湾同士で足の引っ張り合いをやりがちですが、地球という星の上にユーラシア大陸があり、その片隅の環日本海地方が、どういった方向に向かえばより多くの人々の幸せに貢献できるのか考える時に来ていると思います。
8月18日にこの航路を引いて、8月20日に羅津と新潟の航 路が月一便ですが引かれました。これからどんどんいろいろなところが対岸交流をやれば良いなと思っています。
我青春風来記 (124)
早海三太郎
メキシコU(5)
三太郎から金をふんだくって、やがて女性と席に戻ってきたレオナルド。結構酒も飲んでいる。遅くなった帰ろうと車に乗る。酔っぱらい運転だ。大丈夫かと聞くと、何時もやってるから心配ないよという彼はまだ20歳になったばかりだ。アカプルコ湾の対岸の坂道をポンコツフォードは上っていく。カーブを曲がってから見えるアカプルコの夜景が美しい。
翌朝。コテージのドアが叩かれた。レオナルドが起こしに来た。メキシコ行きの早いバスに乗って、明日中にはこの国を出ないといけない。ビザが切れる。朝食にはレオナルドの親父さんと一緒。娘のアルモニアと母上はカナダ・モントリオールの世界万国博覧会へ行ってていない。
「アルモニアと会えなかったのは残念だったろう。彼女はモントリオールにいるから手紙を出してやってほしい」といって、彼女のカナダの住所と切手まで渡された。
「ハア、わかりました」と三太郎は切手を受け取った。
レオナルドがバスターミナルまで送ってくれる。親父さんが又来てくれと笑顔で手を振る。再会を約束してレオナルドと別れる。
メキシコシティ行きのバスの中。ズボンのポケットに手を入れると、鍵だ。何とコテージの鍵を返すのを忘れていた。未だに、その鍵は手元にある。レオナルドの親父さんにもらった切手もアルバムに貼っている。カナダに手紙を出す約束を果たせなかった。あの親父さんはまだ元気だろうか。鍵を返しに、切手のお詫びにアカプルコに行きたい。キューバ行きを勧めてくれた山本満喜子さんの墓もそこにあり、墓参りもしたい。
三太郎はメキシコシティに着いてすぐ、旅行社に行った。東京までの旅行代金は払っており、キューバ行きに使った切符を社員に見せて、中にサインをしてもらった。これでOKだといわれる。後は空港の旅行社に連絡しているとの事。実際はそうでなかった。
メキシコ空港で大慌てになる羽目となった。(続く)
呑 風 日 誌 抄
9月1日(金)夕方、県庁前で本荘の九十九商事の菊地八十男社長とバッタリ。本荘市まで車で送ってもらい、ご家族と会い、一緒に中堅町のスナックせんへ。小林工業の小林忠彦会長ご招待のカラオケ大会。作詞家柳瀬三郎氏も。会長がシベリア抑留時代に作曲された歌は録音して楽譜にしておきたいもの。創意 誠意 熱意と書いて頂く。
2日(土)昼、アキタパークホテル。工藤染物商店工藤幸彦社長と職人学会の打合せ。市民市場食堂で特製ラーメン。
4日(月)秋田市羽川の佐藤清太郎さん宅へ。独自な森づくりをしておられる。二人のインドネシア林野局職員が研修に来ている。森林技術センターに同行。松食い虫対策等についてインドネシア人達と説明を受ける。
5日(火)昼、彌高会館。ペルー協会役員会。新会長の推薦について。
6日(水)商工会議所。職人学会実行委員会。チケットの配布。山王・若葉にて染師小松正夫氏交流部会の面々と。
10日(日)早朝、勝平グランドで町内会のテント張り。勝平地区運動会に初めて出場。四十代の50b競争に出て3位。割山チームのリレーにも出場。前走者が一番で走ってきた。越されてはあかんと夢中になって走るが、次走者にバトンを渡す寸前、足がもつれて転倒。お恥ずかしい。秋田市御野場の斎藤創先輩宅へ。公益信託、御父上の斎藤元三郎記念数学助成基金の話を伺う。
11日(月)秋田商工会議所。職人学会実行委員会。あと一ヶ月。
13日(水)山王・焼き鳥宮本。39会で菅谷連合会長、全逓秋田の薫さんと渡部慶一氏と4人。
14日(木)秋田市南通の炭博士鈴木勝男さん宅へ。職人学会の参加者記念品に炭のマドラーと箸置きをお願い。午後、社会福祉会館でNPOセミナー。「NPOと企業の社会貢献活動の関係について」講師は伊藤一秀経団連10%クラブ事務局長。「社会における課題はどんな社会がいいのかを共有することにある」夕方、川反・鳥八にて伊藤講師、菅原雄一郎秋田ボランティア協会会長達と。
15日(金)朝、秋田市中通小グランド。中通クラブで久しぶりの野球練習。
16日(土)本荘市。御門町の清吉ラーメンが休みで、中央通の清吉へ。味が違う。金浦町での白瀬フェアへ。職人学会の交流会でお願いしている大間ジロー、あんべ光俊のライブを聞き、稲門出身のあんべのCDを買う。遠野物語がいい。
17日(日)県立球場。県庁OBチームと中通クラブの練習試合。エース木内先輩は天敵で20年間一度も打てず。 20日(水)秋田駅前人情酒場「久保田」中通クラブの五百歳野球の壮行会。
21日(木)秋田キャッスルホテル。職人学会の会場確認。若手職人展の出展者が12名となる。
22日(金)ふるさと塾。「花火の町大曲をどうする」講師は台湾で花火を上げてきたばかりの小西亨一郎氏。職人学会へ花火師2人を紹介してもらう。川反・ピアノサロンKで、アメリカ・サンディエゴで活躍された話を聞く。
23日(土)神岡町。五百歳野球試合。神宮寺中学校にて。西木チームに快勝。
24日(日)雨で野球は中止。夕方、児童会館にて「大潟八郎ショー」へ。八郎さんは漫芸の天才。大潟さんと一緒にブラジルに行かれた埼玉の中脇操さん、日系人慰問をされた浜田の安藤栄榮一さん達と川反第一会館。敬愛する村田弘さんとバッタリ。
25日(月)南外村グランドにて雨中。五百歳野球試合。セカンド守る。強豪大曲クラブ(監督が先輩で小西亨一郎氏の父上)に歯が立たず。
26日(火)秋田商工会議所。職人学会打ち合わせ。だんだん尻に火がついてきた。
28日(木)秋田県中小企業問題研究所の会合。山王・屋台。稲本俊輝所長、鈴木義則事務局長と一献。
29日(金)昼。アキタパークホテル。職人学会若手職人展の打ち合わせ。この展示は秋田職人の会につなげる得るチャンス。成功させたい。本番当日にボランティアで手伝ってくれる太田さん、布谷さんも来てくれた。
30日(土)快晴。鳥海山が美しい。矢島町球場にて仙台・山形・秋田稲門会野球試合。二連敗。奥島総長杯は山形チームが獲得。本職の三塁を守り、投手で三回投げて、ヒット一本で今季の野球は終了。ユースプラトーで交流会。